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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 今治城とその周辺

 今治城(吹揚公園)

 「ただ一人 吹上城のあとにきて雲雀ききつつ ものをこそ思へ」(吉井 勇)関ヶ原の戦功により、慶長五年(一六〇〇)伊予の東半分を領し、二〇万三〇〇〇石の大名となった藤堂高虎によって築城され、寛永一二年(一六三五)以来明治二年(一八六九)の版籍奉還までの二三五年間、松平家の居城となる。明治二年一〇月より同五年にかけて取り壊され、石垣と海水を導入した堀に往事の名残りをとどめるのみとなった。本丸跡には吹揚神社が創立され、大正三年(一九一四)からは二の丸跡は公園として利用されることになった。山里の橋、石段を造り、さらに桜の植栽などによって、全市を一望し、芸予の島々を遠望できる行楽地、桜の名所として市民に親しまれてきた。昭和二八年一〇月九日には文化財保護法に基づいて県指定の史跡となった(写真2―51)。
 平城としては全国的にもまれにみる規模であって、城は海浜の自然の砂丘を利用し、その上に城壁を築いたものであるが、巨岩をそのまま使用して直線傾斜のまま荒積みした戦国期の実戦型のものである。また石垣下部の水際には幅四mから五mの犬走りを設けて基礎の安定を図っている。堀の水は蒼社川の水を外堀に導いて二分し、洪水防止を工夫する一方、北方の水門からは海水を導き入れる珍しい工法をとっている。
 本丸跡の吹揚神社は、廃藩置県後の明治五年(一八七二)一一月一九日、市内各所にあった神明社・厳島社・蔵敷八幡・美保社の四社を合祀したもので、後に藤堂高虎、久松定房を配神とした。氏子は旧城下を中心に約九〇〇〇戸で、例祭日の五月一〇日には近在の奉納獅子舞でにぎわう。社殿は、昭和一三年改築後二〇年の戦災で焼失したのを三二年に復興したもので、四八年には神門、塀等を新築した。
 二の丸跡の吹揚公園は多くの樹木が植えられ、市民の憩いの場所である。広場には記念碑等が極めて多く、西南の役戦死者の招魂碑、征清忠魂碑、日露戦役記念碑、今治築城開町三百年記念碑、同三百五十年記念碑、明治二四年(一八九一)の植樹記念碑などがある。綿ネルを創始した矢野七三郎の銅像と、今治タオルの改良に尽力した菅原利かね(金編に栄)の胸像もある(写真2―52)。


 天守閣再建

 今治城天守閣は、築城まもなく藤堂高虎の転封にともたって解体された(丹波亀山城の天守閣となって明治一〇年まで存在した)のであるが、今治市では昭和二八年頃から今治城復元運動が起こり、同三七年には期成同盟を結成するにいたったが、惜しくも期が熟さなかった。
 その後、昭和五四年になって、市制六〇周年を翌年に控えた今治市では、その記念事業として今治城再建に積極的に取り組むことにした。その再建趣意書には次のように述べている。

慶長の昔、藤堂高虎公は、伊予半国二〇万三千石に封ぜられ、寒村今張の浦に一大海岸城を完成し、地名を「今治」と改め、我が今治の礎を築きました。
爾来三八〇星霜、今日では内濠および本丸・二の丸の城壁に往事を偲ぶのみとなっていることは、今治市民はもとより、ここを訪れる人々にとっても、何か物足りなさを感じていたのであります。天守閣を再建しよう―この声は、幾たびか盛り上りを見ながら実現には至らなかったのでありますが、このたび今治市制六〇周年を迎えるにあたり、市当局ならびに市議会のご熱意とご理解によりまして、着工をみましたことは、まことに喜びにたえません。
かつての城は、領主の地域領有の権力のシンボルでありましたが、このたびの天守閣再建には、私達住民自身も参画して、今治市の発展と市民の生活文化の向上や観光に役立つものを造り上げ、後世に残したいものであります。これこそ昭和時代の今治市民の力の見せ所であり、極めて有意義なことといえましょう。再建される天守閣は、単に天守閣の型を再現するに留まらず、展望施設のほか、郷土の歴史民俗資料、自然科学資料、産業資料を展示して、香り高い文化の殿堂となるものであり、又観光の拠点としても大いなる期待をいたしております。
しかしながら、この再建事業には、約五億四千万円という多額の経費を要します。この時にあたり私達も資金を拠出して、その事業の一翼を担うことといたしたいと考えました。
つきましては、有志の皆様におかれましては、不況の折柄ご無理なお願いとは存じますが、三八〇年の間町づくりにかけた祖先の活力にあやかり、何卒この趣旨にご賛同の上、今治城天守閣再建のため、あたたかいお力添えを賜りますようお願い申し上げます。

 多くの市民もこの事業に賛同し、浄財の援助もあって、総工費約七億円で、五層六階の天守閣をはじめ、櫓門、武具櫓・多聞櫓の再建と城壁の一部復旧をめざして事業が始められた。昭和五五年九月竣工、五五年一〇月には今治城竣工落成式が挙行された。


 今治城観覧者の動向

 天守閣及び櫓門の内部は各種の展示室として利用されている。また、天守閣六階の展望台からの眺望はすばらしく、双眼望遠鏡二基も設置されている。
 観覧者は、天守閣が完成した五五年度には、一〇月から三月までの半年間で九万九二八六人を数えたが、五六年度には九万九八〇二人、五七年度七万一一四九人、五八年度四万四七〇三人と漸減した。なお五九年度にはわずかではあるが増加して四万六〇六七人となった。

今治城ご案内
・天守閣
6階 展望台
  (双眼望遠鏡 2基)
5階 展示室
  (全国の城郭写真、年表)
4階 展示室
  (古代土器類など)
3階 展示室
  (武将藩主等の軸物、古文書、絵巻物、屏風など)
2階 展示室
  (甲冑類、刀剣、槍、薙刀、火縄銃など)
1階 ロビー
  (管理事務所、化粧室、休憩所、売店)
・多聞櫓(自然科学館)
  (今治地方の自然科学資料)
・櫓 門(今治産業館)
  (今治地方の地場産業資料)
・武具櫓(茶室、小会議場)
  (今治城郭の北隅)
・御金櫓(郷土美術館)
  (今治城郭の東隅)

今治城天守閣観覧規定
観 覧 料(御金櫓と共通)
 大  人(16才以上)……………250円
 小  人(4才~15才)…………100円
 団  体(30人以上)大人………200円
           小人‥‥‥80円
特別観覧料(特別展開催中)……別に定める
観覧時間
 3月1日~11月30日 午前9時~午後5時
 12月1日~2月末 午前9時~午後4時半
休館日
 12月29日・30日・31日
  (上記以外は土曜・日曜・祝祭日も全日開館)
駐 車 場
 午前8時45分~午後5時15分
 第1駐車場…………………1時間 50円
   (以後30分ごとに50円)
 第2駐車場(大型車)……1時間100円
   (以後30分ごとに100円)


 今治港と港湾ビル

 今治港は来島海峡の海域にあって港頭から海峡の海景美が眺められる。海路大阪まで約八時間、別府まで約六時間の距離にあり、阪神と関門のほぼ中央に位置し、対岸の中国地方へは高松と共に最短航路となっている。また、芸予諸島の各港を結ぶ航路の基点でもある。昭和五八年における出入船舶は、汽船四万七五二一隻、フェリーボート三万三〇五八隻、乗降人員は、乗込人員一二五万人、上陸人員一二三万九〇〇〇人であった。
 昭和初期までの今治港は、人も貨物も沖合に停泊する汽船に、はしけを利用して乗降するといった不便なものであった。今日の今治港誕生のきっかけは、大正九年(一九二〇)二月に市制実施と共に港改修の第一期工事に着手したことであり、防波堤、浚渫、埋め立を完了し、大正一二年(一九二三)から工費三〇〇万円で第二期工事に着手した。昭和七年までに内港も拡大し、浮桟橋三基を設備し、防波堤を延長し、先端に燈台を建設した。昭和二六年には重要港湾の指定を受けたが、三〇年代後半には大型化、フェリーボートの発達などで港が狭く不便となり、貨物量と乗降客が増大するにつれて貨客の分離が図られ、貨物専用港は蒼社川河口に五五年に完成した。
 港湾ビルは、東予新産業都市の海の玄関にふさわしいものをということから、新しい近代ビルが企画され、昭和四二年三月三一日に完成したもので、高さ一五m鉄筋五階建、延四八二四平方mである。一階は船客ロビー、売店等、二階は食堂等、三・四・五階は港務所、今治地方観光協会、海上保安部、海運局、その他海運関係諸会社の事務所等となっている(写真2―53)。


 地場産業振興センターと商工会館

 昭和六〇年二月一日、今治市旭町二丁目に今治地域地場産業振興センターと新しい今治商工会館がオープンした。 今治市出身の丹下健三の都市建築設計研究所の設計になるもので、円型の地場産業振興センター展示ホール(二階建てで、二階が展示ギャラリーになっている)をはさみ、右側が商工会館、左側が地場産業振興センター(共に鉄筋五階建て)で、左右対称の構えになっている。
 地場産業振興センターは延べ五三三六平方mで、一階に常設展示場や即売コーナー、織機の実演室などがあり、二階は大小会議室や歴史資料室と食堂、三階は技術センターや情報交換室、四階は研修センター、五階はシステム開発室や資料室となっている。商工会議所ビルは、広小路にあった商工会館が老朽化し手狭になったため全面移転したもので三一八〇平方m、共同で七三台収容の地下駐車場一八七三平方mも建設した。
 なお、地場産業振興センターの事業としては次の事項があげられている。

(一)新商品又は新技術の開発研究及び試作 (二)デザイン又はシステムの開発 (三)人材養成のための講座開設 (四)情報収集、提供及び情報の交換 (五)流通機構の調査研究及び販路開拓 (六)実演、展示その他消費者への地場産品の普及 (七)展示ホール等の施設の共同利用(八)企業の事務改善及び電算化促進についての指導(九)電子計算機等による情報処理の受託 (十)その他地場産業の振興にかかること

 近くにタオル会館があり、同会館の前には今治タオルの創始者阿部平助の胸像が建てられている。


 河野記念館

 正式には今治市河野信二記念文化館で、旭町一丁目にある。
 昭和四三年に、河野信一が長年収集した約一万二〇〇〇点の書画・美術品などと、これらの保存に必要な建物の建築費および運営基金(一億八〇〇〇万円)と茶室を寄贈したのに基づいて、旭町一丁目の元東
洋紡績工場跡地三〇〇〇平方m余の敷地に、鉄筋四階建・塔屋二階付延二七四三平方mを建てたものである。
 昭和四三年四月二五日に開設され、財団法人「今治文化振興会」が市から委託されてその運営に当たっている。

 今治市柳町、東洋紡跡敷き地に完成した『河野信一記念文化館』は、二十五日落成式を行い、二十六日から一般公開される。鉄筋コンクロート四階(一部二階塔屋つき)、延べ二千七百四十四平方メートルの近代建築ながら、窓はほとんどレンジをあしらって、伝統的な日本美をとり入れ、タイルも“しぶさ”を心がけて、平安朝から現代にまで及ぶ書跡、画、古書籍、写本、びょうぶなど一万二千点を収納展示するにふさわしい。贈り主の東京都文京区本郷、出版社経営、河野信一さん(七七)が設計にまでこまかい点を指示したからだという。エレベーターを備えたのも、お年よりの参観に気をくばったからだ。
 河野さんは同市上徳の出身、出版界にはいって五十年、功なり名をとげた。その間趣味として、わが国の歴史的美術品や書画を収集した。それに費やした費用ははかり知れない。子宝に恵まれなかったことから、これらの文化財を郷里に寄贈しようと発心。それを納める建て物も、土地の購入費も、そのあとの運営費までもつけて、いっさいがっさい寄付したのであった。ついでに自分の茶室“柿の木庵”と“待庵”も解体して送ってきた。県内では珍しい本格的な茶室だ。“待庵”は山崎の合戦で秀吉が本陣にした妙喜庵の国宝となっている待庵をそっくりうつしたもの。文化館の鑑賞で疲れたら、ここで一服というわけ。
 「ふるさとに迷惑をかけては心苦しい。自分の親族がツテで館の職員になってはいけない」そこまで考えた河野さんの気持ちは、五千万円もの運営費をつけ加えたことでも理解できる。収集品の時価は別にして、二億円を超える大きなプレゼント。市が名誉市民の第一号に河野さんを選んだのも、その人柄がにじみ出た贈り物にこたえたからにほかならない。落成式の当日、河野さんにその章記を贈る。(「愛媛新聞」昭和四三年四月二四日)

 展示物は、テーマを決めて四か月ごとに入れ替える。開館時間は九時から一六時、休館日は火曜日と一二月二九日から一月三日までと陳列替えなどの期間である。収蔵品の展示のほかに市展(文化の日を中心に約一週間)、児童生徒作品展(一〇月)などの特別展や研究会、講習会も行われる。
     

 愛媛文華館

 今治城堀端、黄金町二丁目にある。今治市在住の二宮兼一が長年収集した日本・中国・朝鮮の古陶器並びに各種美術品をことごとく提供して、財団法人愛媛文華館を設立し、古代ならびに、中世・近世にわたる美術工芸品研究の場として一般に公開したものである。昭和三〇年三月二九日の設立以来中国陶磁器を中心とするユニークな美術館として注目されてきた。昭和四九年五月に鉄筋コンクリート三階建の新館が完成してから「中国陶磁器展」を常設展示している。旧館は茶室を中心に各種の文化活動に利用されている。開館時間は一〇時から一六時まで、休館日は月曜日と祝日の翌日、それに一二月二九日から一月三日までと八月一四日から一六日までである。


 市民の森

 今治市は全市的な立場に立って市民に身近なレクリェーションの場や、憩いの場を提供するとともに、潤いのある都市環境を確保するため、多くの特色ある公園緑地整備を重点施策として推進している。
 「市民の森」は、市街部の中心より西ヘニ・五㎞の市街化区域に近接する所、架橋インターチェンジ予定地に隣接する丘陵地にある。下平池・木谷池等自然景観にすぐれており、周囲は自然林、果樹園等にかこまれている。また、国道バイパス、街路宮脇片山線が整備工事中である。
 昭和四六年に市制施行五〇周年を記念して、土地は民有地を借り受け、市民に「一人一木運動」を呼びかけて献花・献木を募り、更に市民の奉仕を得て整備を進め、文字どおり市民による市民のための郷土の森として誕生した。植樹数約五万本、湿地植物園、つつじ等の花壇、記念植樹のできる思い出の森、小鳥がさえずる野鳥の森、そして白鳥と鯉の池、更に子供たちの人気の的であるトリムコースを設置し、昭和五一年に面積六・六haの都市公園「市制五〇年記念公園」として開設された。
 以来、自然と語らい親しむことが出来る身近な公園として、遠足、花の鑑賞、散歩、ジョギング、トリムコースの体力づくりにと多くの市民に利用され、来園者は年間八万人を超えるという盛況である。
 さらに昭和五六年度からは、第二期拡張計画としてフラワーパークの整備計画が進められてきた。手狭になった公園を拡張し多様な機能を持たせること、従来の公園区域が池の南側のみであるため、池からの景観は一方のみに限られており、より多くの緑を確保するとともにこの景観の向上を計ることをめざして、既設の公園機能と有機的に結びついて、全体としてもより効果的な公園となるよう、一大フラワーパークを整備する基本計画が定められたものである(図2―70)。
 拡張面積を三・四haとし、中央の芝生広場や展望休憩所を巡る園路沿いに桜約二五〇本を配し、これを取り巻く園地を八つのフラワーゾーンに区画したもので、それぞれのゾーンごとに、寒つばき・ぼたん・さざんか・きりしまつつじ・ぼけ・藤・しょうぶ・アメリカディコ・きょうちくとう等約四万一〇〇〇本を植栽した。一年を通して花々が満喫できるよう四季感の演出が配慮されている。六〇年一一月にオープンした。

図2-70 今治市の市制50年記念公園(市民の森―拡張整備計画、今治市)

図2-70 今治市の市制50年記念公園(市民の森―拡張整備計画、今治市)