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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 今治市の海上交通

 入港船舶数の推移

 明治時代以後の港湾改修や今治地域の産業の発展に伴い、今治港は愛媛県を代表する港に成長していった。大正初期における船舶の入港数は一万五〇〇〇~二万隻程度であったが、大正一一年(一九二二)開港場に指定されて以後、急速に入港船舶数は増加し、昭和一四年には三万七四三隻(一九三万七五六九トン)に達した(表2―88)。戦後の一時期、対外貿易が激減したため、今治地域の産業は低迷したが、このことは、港勢の衰退にも大きく影響を及ぼした。入港船舶数が戦前の水準にまで回復したのは二七年以後であり、三〇年には三万九七六三隻(三二四万四三五三トン)にまで増加した。
 戦後の海上交通の大きな特徴は、カーフェリー等の発達に伴う船舶の大型化の進行と、水中翼船や高速艇等の発達に伴う船舶の高速化とをあげることができる。すなわち、モータリゼーションの発達は、必然的にカーフェリーを誕生させ、自動車航送という特殊性から船舶は大型化していった。今治港においても、三四年に我が国で初めての民間カーフェリー写真2―48が、今治―三原間に就航したのを契機として、四○年頃までに今治港を発着するほとんどの航路にフェリーが就航した。当時の高度経済成長とカーフェリーの普及に伴い入港船舶数は急増し、五〇年には九万七四八隻(二三三六万七三五トン)に達した。四五年から五〇年にかけてはカーフェリーの入港隻数はあまり増加していないが、トン数は著しく増加している。これは、今治港に大型フェリーの接岸施設が整備されたのに伴い、四七年より今治―神戸間(現在は松山―今治―神戸に航路延長)に一万トン級カーフェリー「ほわいとさんぽう」等が就航したことに大きく原因している。
 近年における経済の安定成長に連動して、入港船舶数は五〇年をピークとして、その後漸減し、ここ数年は七万五〇〇〇隻程度で推移している。また、トン数も五〇年をピークに漸減し、現在はほぼ二〇〇万トン前後で推移しているが、自航によるものは増加しており、カーフェリーの大型化傾向が表れている。また、東海道・山陽新幹線の開通は山陽地方や北九州地方にとっては、大阪や東京に行く事を手軽にしたが、このことは瀬戸内海の海上交通にも大きな変化をもたらした。東海道新幹線が開通した三九年には、今治―尾道間に従来の客船よりもはるかに短時間で中国と四国を結ぶ水中翼船が就航した。水中翼船は、他の航路にも普及し、瀬戸内海の交通事情は大きく変化した。現在では、経済性や安定性等の面で水中翼船よりも優るとされる高速艇が多くの航路に就航しており、一段と船舶の高速化が進行している(写真2―49)。


 航路及び航路別乗降人員

 今治港を発着する定期航路は、明治一八年(一八八五)に大阪―宇和島航路(宇和島運輸)、大阪―大川航路(尼崎汽船部)等が開かれたのを始め、その後も大阪―長崎航路、大阪―鹿児島航路等の遠距離航路が順次開かれていった。また、現在の山陽本線が、山陽鉄道会社によって明治二七年(一八九四)広島まで開通したのに伴い、四国と中国を結ぶ定期船が数多く就航するようになったが、この航路を代表するものとしては、今治―尾道航路と今治―宇品航路をあげることができる。今治―宇品航路は、山陽本線の開通に合わせて明治二七年木村汽船部が福盛丸を就航させたのに始まり、今治―尾道航路は、住友鉱業が新居浜―今治―尾道航路として開いたのに始まるとされている。この後も、今治を発着する定期航路は数を増していき、大正二年(一九一三)には大阪商船の大阪―宇和島―宿毛線、大阪―内海線、大阪―門司線、大阪―山陰線、大阪―別府線、東予運輸の今治―多度津線、今治―観音寺線、今治―尾道線、今治―宇品線、住友汽船部の新居浜―尾道線、新居浜―四坂島線、尼ヶ崎汽船部の大阪―大川線、大阪―鹿児島線、大阪―若松線、三津―高浜―新居浜線、今治―宇品線、高浜―尾道線、御島巡航社の今治―尾道線、村上汽船部の今治―観音寺線、今治―宇品線、今治―尾道線、木村汽船部の今治―宇品線等数多くの航路が開かれており、今治港は瀬戸内海航路の拠点として発展していった。なお、当時は今治港と香川県の各港を結ぶ航路が多く開かれているが、これは今治まで鉄道が開通したのは大正一三年(一九二四)のことであり、それまでは海上交通に依存する面が強かったことによるものである。
 これらの定期航路のうち、近年まで中国・四国連絡船として重要な役割を果たしてきたものに、鉄道連絡船である今治―尾道航路があった。今尾航路には数多くの船が就航したが、その中でも東予運輸(現瀬戸内運輸)の 「東予丸」は鉄道連絡船の代表であった。「東予丸」は明治三五年(一九〇二)から就航していたが、「第八東予丸」から鋼船となり、食堂や浴室を備えた豪華客船として東予地方の名物となった。しかし、第二次大戦中の船舶統制管理令により瀬所内海汽船に統合された。終戦直後は一日四往復であったが、次第に便数を増し、三〇年代には八往復して山陽本線と鉄道連絡していた。この今尾航路は、今治地域の人々だけでなく、中予地方の人々も、一列車早く東京方面に行くことができるため、利用することが多かった。水中翼船の就航に伴い、昭和四六年、「第一六東予丸」を最後に今尾航路から姿を消した。
 大正末期の乗降人員は約三二万人であったが、多くの航路が開かれるのに伴って乗降人員も増加し、昭和一七年には約一七〇万人になった。戦後の一時期減少したが、三〇年代後半から再び増加するようになり、三五年には約一三七万人、四〇年には約二一〇万人に達した(表2―88)。五〇年には三〇〇万人に達したが、その後は二五〇万人~二七〇万人で推移している。
 航路別に乗降人員をみてみると(表2―89)、今治―尾道航路では四〇年代後半には年間約八〇万人の乗降人員があったが、五〇年には約四〇万人に減少している。これに対して、今治―三原航路は四〇年には二万人にも満たなかったが、新幹線の開通に伴い、五〇年以後乗降人員は急速に増加し、現在では五〇万人以上になっている。
 現在、定期航路に就航している船は、カーフェリーと高速艇がほとんどである。高速艇は、四七年三月から今治―三原間に就航したのが、今治地域では最初であるが、現在では多くの航路に就航している。これに対して、かつて多く見られた水中翼船は、今治港を発着する航路ではほとんど見られなくなった。
 新幹線の開通は、内海航路に大きな変化を与えたが、現在建設されている本州四国連絡橋も内海航路に大きな影響を与えることが予想されている。このため運輸省では、五九年一二月に「伯方・大島橋関連航路の指定に関する告示」を行い、規模縮小等航路として今治―尾道航路や今治―三原航路等一三航路(八事業所)、規模拡大等航路として今治―下田水航路等二航路(二事業所)を指定し、伯方―大島橋の開通が内海航路に与える影響に対処しようとしている。

         
 今治港の定期便
         
 今治―大島(下田水)のカーフェリーは、協和汽船㈱が朝六時二〇分から三〇便、海上二〇分で頻繁に航行している。大型で乗客定員二五〇名、料金二四〇円である。
 今治―三原の国道フェリーは、朝五時から夜一〇時まで、一時間毎に一日一八往復で、所要時間一時間四五分で、旅客運賃は大人一二七〇円(小児六四〇円)である。瀬戸内海汽船と昭和海運の共同経営である。また今治―三原間は所要時間六〇分の高速船が、朝七時から夜の一九時三五分まで、一日一八往復している。旅客運賃は大人片道二八八〇円で往復五四八〇円である。一八便のうち四便だけ耕三寺で有名な瀬戸田に寄港するので、所要時間が六七分となっている。今治―瀬戸田間は、高速船で所要時間四二分で、一日八往復ある。料金は大人二○二〇円で往復三八四〇円である。
 今治―尾道の高速船が一日六往復あり、途中大三島(井ノロ)と瀬戸田に寄港し、所要時間一時間二五分、運賃三一八〇円である。
 今治―神戸の豪華旅客フェリー「ほわいとさんぽう」は一週間毎に出航時刻が変わる。今治を一四時三〇分発で神戸着二一時五〇分の日と、今治発二二時四〇分で神戸着六時三〇分の日とがある。運賃は二等三五〇〇円、二等寝台四五〇〇円、一等七〇〇〇円、特等九〇〇〇円となっている。もちろん車も航送するカーフェリーである。
 今治―岡村・大長方面の愛媛汽船の便は一日七往復ある。今治―岡村―大長―宮盛―仁方の山陽商船の高速船も一日七往復ある。今治―熊ロ(伯方)―瀬戸―井口(大三島)―因島の便も朝七時一〇分から一〇便ある。
 今治―友浦―木浦(伯方)―岩城―弓削―土生(因島)の便は、フェリーが朝五時三五分より一六便あり、高速船がその間に九便ある。また今治―宗方(大三島)―宮浦(大三島)―木之江―竹原方面のフェリーが、朝六時四〇分から一一便、その間に高速船が五便ある。
 波方―竹原の海上一時間一〇分のフェリーは、波方フェリーボート㈱が運営し、一日二二往復し、乗客運賃も八六〇円で安く便利である。
 このほか今治と芸予諸島とは一六の渡海船の便がある。


 来島海峡の海上交通

 来島海峡は今治市の北西部に位置し、燧灘と斎灘を結ぶ海峡である。来島ノ瀬戸、西水道・中水道・東水道の四つの狭い水道からなっており(図2―65・2―66)、いずれの水道も湾曲している。しかも、最大流速が一〇ノット以上と潮流が激しく、通行船舶量が一日当たり一二〇〇隻以上ときわめて多いため、海上交通の安全を確保する上から「順中逆西」という特別な航法が制定されている。すなわち、潮流が南流(上げ潮流)の場合には東航路(順潮)は中水道を通行し、西航路(逆潮)は西水道を通行することになっている。また、北流(下げ潮流)の場合には東航路(逆潮)は西水道を通行し、西航路(順潮)は中水道を通行することになっている。この他にも多くの航法や信号の方法が定められており、来島海峡が瀬戸内海有数の難所であり、海難事故が頻繁に発生する航路であることを表している。
 瀬戸内海の中で、本航路に面している狭い水道には、備讃瀬戸、直島水道、釣島水道、音戸瀬戸、大鼻瀬戸、上関海峡、速吸瀬戸、三原瀬戸等がある。これらの水道で発生した要救助海難事故は、六〇年には四九件に及んでいるが、このうちの三九件が備讃瀬戸(二八件)と来島海峡(一一件)で占められており、他の水道に比べて著しく多くなっている。
 来島海峡で発生する要救助海難事故は年平均一二・七件発生しているが(表2―90)、衝突と乗り上げの占める割合いが大変高い。これは、来島海峡に浮かぶ馬島・中渡島・小島などの周りには浅い水域(暗礁等)が多いことに原因している。月別では、霧の多発時期である五~七月に比較的多いが、それ以外の月は特に大きな差はみられない。海難事故の発生場所については、来島海峡の出入口付近と中央の馬島周辺に集中しているが、特に衝突事故については出入口付近に多く、乗り上げ事故については馬島周辺で多くなっている。また、中水道に比べ西水道の方が事故件数は多い。
 多発する海難事故を防止するために、瀬戸内海主要幹線航路の整備の一環として、四九年に西水道の整備計画が策定され、西水道北口に点在するコノ瀬岩礁が除去された。これにより、複雑な渦流が緩和され、船舶の安全航行が大きく確保された。なお、来島海峡航路は四九年に開発保全航路に指定された。


 来島海峡の潮流信号

 来島海峡は狭く、潮流は約一二時間四〇分毎に干満を繰返すので、航行する船は常に「順中逆西」に注意する。中渡島の潮流信号が南流(満ち汐)の時は、昼は四角が上で円が下である。北流(引き汐)の時は円が上になる。夜間は光線で緑が南流、赤が北流を示す。中水道を通る船は常に潮に乗り、西水道を通る船はいつも潮に逆航する規則である。ところが下りの船は、中渡島の信号は大島の蔭で見えにくいので、昭和二九年に大浜灯台に信号を設け、さらに昭和五〇年改正し、南流S(緑)と北流N(赤)の光を出すようになった。北の入口の津島にも昭和四三年潮流信号を設け、さらに波方町の北端の大角鼻にも設置した。濃霧の夜にはそれでも信号が見えにくいので、昭和五二年七月一日に、大島の南端の長瀬の鼻に電光板が設置された。SとNと、←早くなる、→おそくなる、流速を○から九に分け、転流の一〇分前が判るよう電光板が活動している。竜神礁の灯台の沖を夜間通るとき、船のデッキから電光板を見ると、文字や符号が出て楽しみである。肉眼で光達距離は五~六㎞である。
         

 今治海上保安部

 昭和二三年に海上保安庁が創設されたのに伴い、広島海上保安本部今治海上保安署として発足したが、二五年には松山保安部の管轄下となり、名称も警備救難署に改めた。三〇年に保安署に再改称、三七年に今治航路標識事務所と合併し保安部に昇格した。現在の管轄区域は今治市・越智郡を含む六市三郡で、ほぼ東予地方全域をカバーしている。今治には巡視艇「たかなわ」・「せとぎり」・「たちばな」のほか燈台見回船「はるひかり」・「おおくの」が配属され、毎日巡視を行っている。
 担当水域は、尾道保安部と共管しているが、その中にある狭い水道のうち、来島海峡は内海有数の難所であるため、今治海上保安部では安全確保のため航路管制のほか、常時巡視艇を配備して航路の警戒、交通整理、航法指導、取締り(KM哨戒)等を実施している。また、本州四国連絡橋等地域開発も盛んであるため、旧来の業務とともに、これらに対する安全・防災指導等にも力を入れ、内海の安全を確保するために多大の貢献をしている。

表2-88 今治港の入港船舶数と乗降人員の推移

表2-88 今治港の入港船舶数と乗降人員の推移


表2-89 航路及び航路別乗降人員

表2-89 航路及び航路別乗降人員


図2-65 来島海峡付近の見取図

図2-65 来島海峡付近の見取図


図2-66 来島海峡の海図

図2-66 来島海峡の海図


表2-90 来島海峡の要救助海難事故

表2-90 来島海峡の要救助海難事故