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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 法皇トンネルと堀切トンネル

 法皇トンネル

 昭和二九年一一月に三島町を中心に松柏村・寒川村・豊岡村・金砂村・富郷村が合併し、伊予三島市が発足した。その町村合併において金砂・富郷の嶺南地区より提起された最も大きな問題は、嶺南地区と嶺北地区を結ぶために法皇山脈にトンネルを開設することであった。この時の林野庁と農林漁業金融公庫への陳情書は次のような要旨であった。

 宇摩嶺南地域は、昭和一八年より三〇年までの間において幹線林道延長四〇㎞を開設しているが、この林道は銅山川沿いに流下し、新宮・金砂・富郷および別子山の各地区を包含し、その利用面積は二万町歩、その蓄積立木は六二〇万石を超えている。関係地域の産業は全国屈指の別子銅山の外二鉱山より採掘する鉱石は年産一〇万トン、林産物は用材その他七万五○○○石にして地域住民一万五〇〇〇人は林業および鉱山労働者として生活している現  状である。しかるにこの豊富な森林資源および地下資源は延々四○㎞の林道を唯一の搬出路としている実状にある。法皇山脈に隧道を開設することは地域住民の数十年来の宿願である。法皇山脈は平均標高一〇〇〇mあり、これが嶺南地区と巌北地区を遮断しているものなるが、隧道開設により距離を短縮し、冬期の凍結を解消するものと認められる。この事業の重要性を認められ速やかに実現するように。

 トンネル開設位置については伊予三島市議会の特別委員会で、昭和三〇年九月に嶺北側は寒川町入野、嶺南側平野山ハチガタケ滝下の標高四〇〇mと決定した。事業は農林金融公庫より政府資金の融資を受け、単独事業として施工する方針がとられた。この農林資金の長期借入条件として伊予三島市にある伊予三島・金砂・富郷の三森林組合を統合することが指導され、三一年二月に伊予三島市森林組合の設立がなされた。この森林組合がトンネル開設の事業主体となるのである。昭和三三年一月より配電設備、運搬索道、工事用仮設建物の建設に着手し、同年四月より導坑掘さくを開始した。途中、三三年九月に入野口より四二八・八m地点で大湧水帯に逢着し、掘さくが不可能となった。これには入野口より四〇〇m地点より導坑の西側を三六・五m掘さくして第二迂回路を設ける方法で対処した。また工事を請負った鉄道工業㈱の経営難が発生したので、工事契約を解約し、残工事を地元の井原建設工業㈱があたった。この残工事は鉄道工業㈱関係の技術者および技能工の協力を得て、変則的技術陣体制の下、施工したものである。こうした苦難の末、昭和三五年八月に一六六三mの法皇トンネルは一応の完成をみた。

 内側は幅四・五m、高さ四・七m、待避所四か所、照明は三〇mおきに四〇wの蛍光灯五四個を設置していた。総工事費はニ億五〇〇〇万円に上り、開通当時は、道路トンネルとしては全国第四位の長さであった。なお、開通当初は有料トンネルとして通行料を徴収し、五トン積みのトラックやバス、特殊車両五〇〇円、普通トラック四五〇円、小型トラック・オート三輪二五〇円、乗用車二〇〇円、オートバイ・スクーター二五円、従歩や自転車は無料とされていた。

 法皇トンネルの地質は、中央構造線に接する黒色片岩が主たるもので延長一六六三mは開設時に全面的に巻立を完了すべきであったが、財源との関係もあって特に軟弱な危険部分五〇四mについて巻立を施工した。残り一一五九mは素掘りの状態であり、岩質的に見ても落石落盤等危険のおそれがあり、交通安全の確保を図るために巻立施工の必要が指摘されていた。そこで、昭和四一年二月に、愛媛県及び林野庁に対しトンネル改良事業を陳情した。この改良事業により推定される経済効果として次の諸点が指摘された。まず、金砂町の銅山川に架設してある平野橋(つり橋)は昭和二七年に建設省が金砂町の柳瀬ダム建設の際、存立補償として架設したものであるが、嶺北平坦地域との問に東西に走る法皇山脈により交通が遮断されていたのでその効用見るべきものがなかった。法皇トンネルは同三五年に法皇山脈を南北に貫通し開設したものであるが、その後平野橋及び法皇トンネルが一体となって山林資源の開発及び地下資源の開発に大きい役割を果している。同四一年に森林開発公団が富郷町より高知県長岡郡本山町に通ずる白髪隧道を開設したことにより、本山町方面の山林開発に役立つところが多く、期待されていた。
 しかし、豊富な資源に比べて通行量の増加率が低い。その最大の原因は、つり橋である平野橋の重量制限が六トンであり、橋梁不完備による交通不安、法皇トンネルの未巻立部分による落盤落石と路面悪化による交通不安によるものと考えられる。したがって平野橋を永久橋に改良整備すること、法皇トンネルの巻立、既巻立分の一部補強及び路面の補修整備の完成により、その利用が飛躍的発展をみることは明らかである。
 平野橋の改良整備は、前述のような効果の期待をになって、交通量の増加、特に重車両の増加に伴い、市道三島―金砂二号線の改良工事として、昭和四二年から四年の歳月と一億四七六〇万円を投じて架設された。完成した平野橋の構造は、ランガー桁一連、合成桁二連を架設した橋長一六八・八m、全幅六mの橋梁で、合わせて二四一mの取り付け道も改良して架け替え工事を行った。
 法皇トンネルの巻立と、それに伴う拡幅工事は四二年一二月から四三年三月の間に行われた、工事費は約一億円で、鹿島建設が請負った。なお、四九年四月に市道から県道に移管されたことによって料金徴収は廃止された。法皇トンネル開通以後、四九年三月末までの通行台数及び徴収料金は表6―10に示した。

 堀切トンネル

 愛媛県の東端に位置する川之江市・伊予三島市・新宮村は、香川・徳島両県に接し、南は四国山地を隔てて高知県に連接している。県域を越えた交流の歴史は古く、永年にわたる地縁の絆がこの宇摩地方の特異な地域性となり、今日の地域社会を築いたものである。歴代の為政者においては、四国山脈を隔てて瀬戸内と高知を結ぶ幹線道路の整備を宿願として、たゆまぬ努力が引き継がれ、重ねられてきたものである。昭和ニ五年には川之江・大杉間県道敷設国営自動車期成同盟会が近隣一八か町村をもって結成された。以来その名も川之江・大杉間路線開通期成同盟会に改組され、四二年四月には、懸案の笹ヶ峰隧道(四五八m)の完成をみるに及んだ。
 四国総合開発の一環である新宮ダム建設を契機として、宇摩一円の総合開発の観点から二市一村の機運が盛り上り、いま一つ隘路となっている堀切峠山頂付近における冬期の路面凍結や霧の発生による通行困難を解消するために、四三年一二月に堀切隧道建設促進期成同盟会が結成された。これは川之江市・伊予三島市・新宮村を構成団体とし、高知県の大豊町、徳島県の山城町のバックアップを受けて愛媛県の積極的な取り組みがなされ、四六年度から五五年度に至るまでの九か年の歳月をかけ、二八億七八五〇万円の巨費を投じて完成した。工事は、特異な中央構造線をかかえ、さらには石油ショックに端を発した建設資材の高騰など、様々な難関を突破してなされた。
 川之江市金田町から新宮村を越えて高知県大豊町を結ぶ県道川之江大豊線の堀切トンヌルは、金田町平山から新宮村川淵に抜ける長さ一二五九・五m、幅員七・五mの二車線対面通行道路で、このトンネルの開通によって川之江・新宮間の距離が五・一㎞、時間にして峠を越し中山口を経由するより約三〇分程度短縮されることとなった。旧道の堀切峠は標高四九〇mであるが、トンネル中央部の標高は三六八・四mで、川之江市側の長さは六五七・五mで、新宮村側の長さは六〇二mである。トンネル内の事故に備え、五〇mごとに押ボタン式発信機、一〇〇mごとに非常用電話を設置するなどの防災対策も十分設備されている(写真6―16)。






表6-10 法皇トンネルの通行料収入

表6-10 法皇トンネルの通行料収入