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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 佐々連鉱山の変遷

 佐々連鉱山

 伊予三島市金砂町小川山乙二一二一に位置した佐々連鉱山は、三波川結晶片岩帯に属し、富郷・三縄・小歩危の各層が分布しており、緑色片岩・珪質片岩・泥質片岩・砂質片岩を主な構成岩石としている。鉱床は三縄中部層の上位に位置する点紋緑色片岩層を母岩として、層理に整合的に胚胎した層状含銅硫化鉄鉱床である。判明している鉱床は東から金立𨫤・金剛𨫤・佐々連𨫤・金泉𨫤・新泉𨫤・金泉E14号𨫤・第二新泉𨫤・金砂𨫤などの一〇鉱体である。鉱床面の広がりは走向延長二五〇〇m、傾斜延長二四〇〇mに達し、試錐による鉱床の確認は海面下八五〇m付近へと及んでいる。鉱石は塊状鉱と縞状鉱のニ種が見られ、組成鉱物は主として黄鉄鉱・黄銅鉱からなり、他に班銅鉱・閃亜鉛鉱を混じえる。
 佐々連鉱山の歴史は古く、元禄二年(一六八九)と伝えられている。明治年間には数人の手を経て経営されていたが、大正七年(一九一八)北宇和郡下灘村出身の岩城卯吉の手により旧佐々連坑の採掘を以って実質的採掘作業の開始といえる。岩城商会は岩城鉱業㈱を設立し、金砂・金立𨫤を発見し、索道の架設など鉱山経営の基礎を築いた。その後昭和一一、二年ころ住友との売山交渉がおこったが、一時交渉は中断され、その間岩城は朝鮮製錬と提携して出鉱の大部分を朝鮮鎮南浦で製錬していた。卯吉の死後再び住友との商談が進み、同一四年完全に住友の経営となった。一方、これと前後して金砂坑の開発が、金砂坑外に機械選鉱場建設により手が打たれ、同一七年、佐々連鉱業㈱として一五〇万円の資本金で住友鉱山の子会社として発足したのである。時あたかも太平洋戦争突入に当たり、数百人の韓国人が使役され、軍の要請で増産増産へと追いまくられ、出鉱成績優良により表彰され、住友付属の一鉱山として注目された。そのため坑内の乱掘、索道の酷使等各部面で無理な操業が行われ、終戦後は荒廃がみられ、二五年までは暗黒の時代といわれた。二五年三月には住友金属鉱山㈱佐々連鉱業所として新発足した。井華鉱業の金石分離の一着手として井華鉱業㈱と佐々連鉱業㈱との現物出資により新しく別子鉱業㈱を設立し、後住友金属鉱山㈱に変更した。その後、佐々連鉱業㈱は解散の処置をとり、井華鉱業から住友石炭が誕生して井華鉱業の名は消滅した。会社としての体制が整備されると、二五年から二七年にかけて坑内整備、選鉱場拡張、坑外施設整備改良等の第一次復興起業がなされ選鉱一二〇トン/日体制がなされた。二七年から二九年にかけての第二次復興起業では金砂新・金泉発見もあり、選鉱三〇〇トン/日体制に整備された。三〇年から三一年にかけては採鉱関係拡張、選鉱関係拡張、付帯工事、福利施設等の拡張起業がなされ、六〇〇tpコンプレッサーの設置や重選工場の建設により選鉱六〇〇トン/日体制へと拡張した。三二年には二七年から開削していた三〇〇斜坑(六~一八L)が完成し、それはさらに一八~二四Lに延長工事が着手され、中央立坑も開削に着手した。こうした三二年から三六年にかげての維持整備起業により選鉱八〇〇トン体制か確立され、三四年には金鋼𨫤、三六年には新泉𨫤が相次いで発見された。三七年には中央立坑が6SL~24Lの間に完成し、三九年には三〇〇斜坑の延長が完成した。こうした拡大生産発展に備えて、三二年以降三五年までの四年間、生産量を固定しながら極力坑内の合理化整備に努めると共に鉱量の獲得に努力し、一日当たり八〇〇トンという飛躍的生産がなされた。合理化の具体的対策としては坑内運搬の合理化、採鉱法の改善、採鉱管理の改善などであった。
 昭和二五年からの三回にわたる本格的、総合的な復興及び拡張計画の強力な実施によって出鉱量は飛躍的に増え、三七年の粗鉱八二七トン/日、年間二三万九〇〇〇トンをピークに四九年まで約二〇万トン体制が維持された(表6―8)。一方、鉱脈の深まりに対処すべく下部開発が多額の投資と高度な技術によって起業に着手したのである。すなわち四〇年には第一先進斜坑の完成、四一年には索道輸送に併用してトラック輸送の実現、四二年には下部立坑三三Lの完成、四四年には第二先進坑の完成と相次ぐ投資がなされた。ところが四七年には索道輸送廃庄のやむなきに至って不振状態になった。それでも四八年には第三先斜坑開削起業に着手し、五一年には下部立坑を完成した。このように、何とかして立ち上がるべき振興策を講じ、輸送もトラック輸送のみに切り替え、鉱石を直接新居浜星越へ運搬して処理するなど、再建と発展を期しての合理化経営で当たった。しかし、第二次オイルショックや電気業界の銅需要の激減で需要が減少し、無理な運営が生産に対するコスト高や作業上の危険を伴うなど、次々に経営上の悪条件が山積し、更には世界的不況の波が打ち寄せて、経営継続は困難となり、ついに昭和五四年六月三〇日をもって出鉱を中止し、全山閉鎖するに至ったのである。全盛期の昭和三八年には一〇〇〇戸、三八九四人を擁する一大社宅も今は一部にブロックやレンガを残すのみとなった(写真6―11・図6―4参照)。

 新宮鉱山

 新宮鉱山は宇摩郡新宮村馬立にあり、含銅硫化鉄鉱を産した。発見はつまびらかでないが、元禄舗という旧坑道の名称があり、この時代といわれている。明治四四年(一九一一)、伊予三島市中之庄の佐藤宰相が鉱区を設置し、昭和一四年に東予金山㈱から日本鉱業㈱に経営権が代わった。日鉱が三〇年までに採鉱した量は、精鉱量八万四〇〇〇トン、産銅量一万七〇〇〇トンで、三〇年には産銅量一九六トンで四国で第六位であった。三七年には貿易自由化をひかえ、非鉄各社の企業整理にあい日鉱から離れて新宮鉱山㈱を創立した。四八年の石油危機、銅価低落のため業績が悪化したのと斜坑下底部の通気、排水、運搬費の増大が目立ち、五二年の第二次石油危機で銅価はさらに下落し、コスト増により欠損を大きくした。さらに鉱量枯渇もあり、五三年三月末をもって休山を発表し、現在に至っている(表6―9・写真6―12)。





表6-8 佐々連鉱山出鉱量

表6-8 佐々連鉱山出鉱量


図6-4 佐々連の鉱山住宅

図6-4 佐々連の鉱山住宅


表6-9 新宮鉱山年表(沿革)

表6-9 新宮鉱山年表(沿革)