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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

第一節 概説

 この地域は、吉野川の支流銅山川が、険しい山間地を西から東に流れる地域である。領域内には、西から別子山村、伊予三島市の富郷・金砂地区、新宮村が含まれる。宇摩地方のなかでは、法皇山脈の南にあるところから、嶺南と呼ばれてきた地域である。
 銅山川は南の石鎚山地、北の法皇山脈の間をぬって流れる。南北の山地は共に一〇〇〇mを超える険しい壮年期の山地であり、その間を流れる銅山川はV字谷をうがって流れるので、この地域には、まとまった平坦地はみられない。集落は狭小な谷底平野か、地すべり地に由来するわずかな山腹斜面に立地している。住民の生業は、集落周辺の常畑耕作とその外側にひろがる林野を焼畑にひらき、雑穀の生産を行うのが主体であった。
 銅山川流域の住民は、北方にそびえる法皇山脈を越えて、宇摩平野の諸集落との交流を深めてきた。宇摩平野と銅山川流域の水平距離は五~一〇㎞にすぎないが、その間の険峻な峠道を徒歩で越えるには、近いもので片道四時間、遠いものでは片道六時間も要した。山間部のこうぞ、みつまた、木炭、用材などは、いずれも「仲持」といわれる担夫によって平野部に搬出されたものであり、この交通の不便さが、この地域の開発をはばんだといえる。豊かな林産資源に富む銅山川流域で、林業が盛んになってきたのは、昭和八年土佐大川村の白滝銅山から銅山川の諸集落を経由して三島に索道が架設され、さらに同一一年に掘切峠に自動車道が開通し、同三五年に法皇隧道が開通して以降である。
 自給的な畑作農業を営打銅山川流域で、ひときわ異彩を放つのは、その源流地帯の別子銅山であった。別子銅山は元禄四年(一六九一)から住友家によって採掘が開始される。明治中期の最盛期には、別子山村の小足谷地域には一万三〇〇〇人もの住民が居住し、その鉱山集落は県下屈指の大集落であった。そこには商店、旅館、料亭が賑わい、大劇場や住友家の経営する病院、小学校は県下で最もすぐれた施設であったという。現在、旧別子といわれるこの鉱山集落は、明治三ニ年(一八九九)の大水害を契機に衰退に向かい、大正五年(一九一六)には採鉱本部が銅山峰の北側に移勤しかことから廃墟となる。しかしながら別子山村にある筏津坑は、昭和四八年まで稼動し、別子山村に活況を与えるものであった。
 別子山村は別子銅山の閉山によって一挙に過疎の村となるが、その他の銅山川流域の山村、伊予三島市の富郷・金砂の両地区、並びに新宮村も、昭和三五年以降の高度経済成長期以降は、人口流出に悩み、典型的な過疎の村となる。山間地の集落のなかには、平家の落人伝説を伝える隔絶山村も多いが、これらの集落は無人の集落廃村となったり、廃村寸前にたち至っているものが多い。
 銅山川流域の過疎をおし進めた大きな要因には、銅山川のダム開発もあずかって大であったといえる。銅山川流域のダムには、上流から別子ダム(昭和四一年完成)、柳瀬ダム(昭和二八年完成)、新宮ダム(昭和五二年完成)があり、さらに現在富郷ダムが建設されている。これらのダム開発は、銅山川の豊かな水を水不足に悩む宇摩平野に灌漑用水・工業用水として供給するものであり、また、そこで発電した電力も平野部の諸都市に供給するものであった。しかしながら、そのダム開発によって、銅山川流域の住民の多くが家と耕地を失い、やむなく宇摩平野の諸都市に流出していかざるをえなかったのである。