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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 川之江市の形成と発展

 川之江市の人口

 川之江市は愛媛県の東端に位置し、東は徳島県、北は香川県、南は新宮村を経て高知県に接する。こうした地理的位置から将来計画とはいえ、四国縦貫自動車道と四国横断自動車道の四国唯一のジャンクション(交差点)が川之江市に建設されることになっている。このため、西隣の伊予三島市と共に四国中央都市圏構想実現に向け、陸海両面の交通体系の確立、整備につとめている。
 川之江市の面積は六九・〇五平方kmで県下一二市のうち伊予市についで狭くて一一番目であり、可住地面積は二七・六七平方kmで隣りの伊予三島市に次いで狭く、一二市中、一一番目である。川之江市の人口は、合併直後の昭和三〇年には三万六三三四人であったが、四〇年には三万四六八四人にまで減少した。その後、漸増傾向にあり、五五年には三万七二一三人となり、六〇年には三万八五三八人で、過去最高の人口数となり、ほぼ伊予三島市と肩をならべた状態にある。
 昭和六〇年の国勢調査による産業別就業人口の比率をみると、第一次産業人口比は六・三%と県下では四番目に低く、逆に第二次産業人口比は五一・一%で一二市中一位で、紙の町としての本市の特色をよく示している。これに対して第三次産業人口比は四二・六%で県下一二市中最下位にある。このことは、川之江市の純生産においてもみられ、第二次産業の比率が六三・三%で一二市中群を抜いてトップにある。一二市の第二次産業比の平均が三七・一%であるのに比べて二六・二%も高い。これに対して、第三次産業の純生産比は三四・二%で最下位で、一二市の平均より二四・六%も低くなっている。以上のことから、川之江市は商業都市よりも工業都市的色彩が強いといえる。

 都市機能の分化

 図5-32は川之江市の都市的土地利用図である。これによると、川之江市の都市的機能は主に川之江、金生・上分・金田を結ぶ線上、すなわち旧国道一九二号沿線に集中している。商業機能は、川之江地区のJR川之江駅から西方にのびる駅通りと駅通りから南に伸びる栄町通りに沿って集中が著しく、それぞれ駅通り商店街、栄町商広街を形成している。南部では金生及び上分の旧街道に沿って商店が分布している。また、国道一一号沿いや金生の市役所前の旧国道一九二号沿いにも分布をみているが、これらは道路の改良や自動車交通時代になり発達してきた新しい商店街である。
 工業機能は金生川河口両岸に造成された埋め立て地や金生川沿い、西よりの国道一一号沿いに多い。金生川下流左岸には丸住製紙・三木特殊製紙・トーヨなどの比較的規模の大きい製紙工場が立地している。一方、川之江港東岸から駅の北部にかけての塩谷から濃人町、金生・上分地区では中小零細規模の工場が多く、古くからの製紙工場が住宅や商店と混在している。近年、沿岸部の埋め立て地や川之江港東部の富士紡跡地などに工場、倉庫、資材置場などが建設されている。ここに立地した工場のほとんどは、川之江や金生・上分において住宅と混在し、工場拡張の余地のなかったものが、広い敷地を求めて移転または新規立地をみたもので都市計画上からも好ましい傾向である。川之江市の製紙業界を代表する丸住製紙のように下分から井地、さらに埋め立て地の大江へと新工場を派生させたのを典型として、内陸部から海岸埋め立て地への移転例が多い。
 製紙工業に関連して、その原材料や製品の輸送あるいは保管をする運輸業兼倉庫業者が国道一九二号バイパス沿いの妻島町南部や上分町南部に進出例が多い。
 都市の顔ともいえる業務官公庁は、川之江、金生、上分と市域内に多核的に分散しており、まとまりに欠ける。あえて中心業務地区をあげれば、商工会議所、農協会館、保険・銀行、市民会館が集まる国道一一号と旧国道一九二号の交差点付近といえる。一方では、金生地区の旧国道一九二号沿いに市役所や郵便局、NTT、文化センター、農協、銀行などの集中をみており、市域の中心的位置への施設の再配置がみられる。

 都市化とその方向

 川之江市の可住地面積は二七・六七平方kmで、県下一二市中伊予三島市に次いで狭い。そのため地価が高く、工場の香川県西部を中心に市外への移転流出が目立っている。工場用地は海岸部の埋め立てである程度確保されたが、住宅用地は農地の転用に依存する傾向が大で、農地転用の半分近くを住宅用地が占め(四八・三%)、工業用地(二四・二%)、倉庫などのその他の建物用地(一五・四%、四六~五四年の資料)と続いている。
 図5-33は川之江市の市街地がどのように拡大されてきたかを、新旧の地形図を対比することによって図示したものである(図5-34・35・36参照)。明治末年から昭和初期にかけては、大正五年(一九一六)の予讃線開通を契機に、川之江駅の西の道路整備が行われ、旧市街地と川之江駅間の市街化が進んだ。当時の川之江町の中心街は現在の国道一一号を南北に金生川が流れており、金生川沿いの河口までの約四〇〇mであった。街道沿いに谷口集落として発生をみた上分は、当時は川之江・三島に相当する規模の集落であった。また、川之江と上分の中間に位置する下分や、川之江と三島の中間に位置する妻鳥村の綿市、平本あたりの市街化もみられた。戦前から戦後にかけては、金生川のつけかえにより川之江港が建設され、同時に旧河川敷が道路および宅地として利用された。市街地の急激な拡大は最近三〇年間にみられた。特に金生町下分の旧国道一九二号沿いの発達が著しい。また新国道一一号の開通にともなう井地や新浜あたりの都市化が顕著で、今では伊予三島市との連接都市と化している。これまで鉄道によって宅地化が阻害されてきた駅東部一帯の都市化は、四国中央病院(三四年)、北中学校(四一年)、川之江小学校(四七年)などの立地、移転を契機として急速に進み、四七年から五一年にかけては天生津に二五〇戸の分譲住宅用地が造成され、東部の市街化に拍車をかけた。
 一般住宅や商店立地にとって道路整備に起因するところは大である。国道一一号や国道一九二沿線の市街化はいうにおよばず、市内の幹線県・市道の整備がすすむにつれ、大規模住宅団地や流通関連施設などが立地し、それがさらに商店や住宅を派生させている(図5-37)。

 川之江地区の都市景観
 
 川之江市の北西部にあたる川之江地区は、面積七一七ha、中央を金生川が西流し、燧灘に面している。東部は丘陵、西部は平地であり、海岸部は埋め立て地が広がっている。人口は市全体の約三分の一を占め、その多くは川之江駅西の市街地に集中している。大正期までの川之江は、図5-34のように、城山の東、旧金生川とその河口の港に沿った地域に市街地を形成していた。大正五年の鉄道の開通と、大正末期の農道の改修によって新しい市街地はより東へと広がり、現在では駅通りと栄町通りとしてアーケードを持つ中心商店街となっている。
 金生川改修は川之江の都市発達上、画期的な出来事であった。金生川はもとは図5-36に示すように現在の港通りを北流していた。藩政時代には城の防御の面において重要な機能をはたした。幕末から明治初期にかけて、金生川河口付近は港として大いに利用されていた。明治以降、上流部での道路改修、山林伐採開墾、宅地造成等により、洪水のたびに土砂が流出し、これが河床に堆積して川床を浅くした。このため船舶の出入りが不可能になり、河港として全く利用ができなくなったのみならず、洪水のたびに堤防が決壊し、家屋や耕地、耕作物に多大の被害を出した。特に大正元年(一九一二)九月の大水は、流域全体に未曽有の被害を出した。この水害を契機として、特に水害の大きかった下流の住民から金生川下流の付け替えの声があがった。改修工事は昭和一五年七月に着手され、二二年ようやく完成した。旧河道は埋め立てられ、それまで川之江町内を屈曲して通っていた国道を(図5-35参照)、旧河道上に付け替え、道路の両側に余った家一軒分の土地を一般に払い下げ、港通り商店街が形成された。河口部分は新たに港湾として拡張改修された。このように金生川改修工事は、川之江地区の市街地発展の上で大きな事業であったといえる。また、新国道一一号の開通は(昭和四〇年整備完了)、井地付近の水田を住宅地、工場用地として次第に変え、伊予三島市との連接都市化を促した。
 川之江地区の市街地は、国道一一号や栄町通りを中心とする南北に走る道路と、川之江駅通りと、川之江高校前の県道川之江山田井線など東西に走る道路を中心に展開している。城山の東麓の古町の通りは、川之江では一番古い通りである。現在でも町並みは古く、商店が点在している。この通りから北へ浦町、川原町へ行くに従って住宅はより密集し、町並みも古くなってくる。また、港町らしく水産加工場や漁家も多くなってくる。前述したが、金生川改修により港通り商店街が形成されたが、ここは住宅の混在した商店街で、南に行くに従って、事務所や銀行、公共機関が多く業務官公庁街的色彩が強くなり、川之江の北の中心業務地区としての機能をはたしている。その港通り(一一号)と栄町通りの間は、住宅とともに商店、病院、社寺、旅館などが混在している。街路も狭く、南部の山下あたりは不規則な町割りである。その南の金生川右岸にはもとの北中跡に市民会館や図書館などの公共機関が整備されている。
 栄町通りは、駅的通りとT字形の川之江随一の商店街を形成している。ここには住宅兼商店が多い。川之江の商店街にはスーパーフジを除いて百貨店や大手スーパーの進出はなく、個人商店が多い。栄町商店街と予讃線の間は、川之江小学校が四七年に駅の東に移転し、駅前から南に道路が開通してから飲食店を中心に商業機能の充実がみられる。駅通り商店街は、栄町商店街につぐ川之江第二の商店街である。川之江駅の開通により、当時の中心地古町・浦町・川原町と駅を結ぶ通りに発達してきた商店街である。この商店街を境に南は栄町などの商業、商住混在地区を、北は工場、住宅混在地区をなしている。
 予讃線の東から斤陵にかけては川之江北中、川之江小学校の移転を契機に、県道川之江山田井線沿いを中心に住宅地化や商店、工場の移転立地をみて発展が著しい。川之江地区の都市化の方向は、主にこの東部へ向かってであるが、その他金生川河口北部の都市計画による都市化や、国道一一号沿線への工場や倉庫建築に伴う都市化がみられる。

 上分地区の都市景観

 上分は川之江市を貫流する金生川の谷口に位置し、川之江市では川之江に次ぐ商業集落である。土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝で、近世以降背後の山間部の物資の集散地として栄えてきた典型的な谷口集落といえる。明治四四年(一九一一)の商業六〇戸のうちわけが雑貨商五戸、呉服商四戸、穀物商一〇戸、履物商三戸、荒物乾物商二戸、小売商三四戸と区分されている。製紙業は明治初期よりみられたが、明治四四年には五二戸を数えた。製紙業の中には工場制手工業に移行していたものもあるが、多くは問屋に支配された農家が副業として紙漉する問屋制家内工業の形態をとっていた。
 現在の上分は、街道筋以外に、その西側に新町の商店街が形成され、さらにその西側の旧国道一九二号沿いにも商店街が形成されつつある。新町は大正一五年(一九二六)に新道が開通して以降の商店街であり、旧国道一九二号沿いの商店は戦後に進出してきたものである。金生川沿いには服部製紙、宇摩製紙、城山製紙などの機械すき製紙九社と手すき製紙が立地し、紙加工場の中小工場は町内各所に散在している。新町北部から旧国道一九二号に出た所にJR上分バス停があり、池出・新宮・伊予三島・川之江各方面への分岐駅となっている。なお、国道一九一号バイパスが南部に完成し、そこから国道一一号バイパスが四国縦貫自動車道の三島インターへの取付け道路に接続され、運輸、倉庫業者の立地が多くみられ大きく変化をとげようとしている。

 金生地区の都市景観

 金生町の中心は下分地区で、金生川が、東寄りに迂回した部分に形成されている。当初、中心集落は、金生川の自然堤防上の微高地を連ねて走る旧阿波街道沿いにあった。明治末年、その西側に新しい街道が通じ、ここに大正年間に市街が形成された。戦後開通した国道一九二号沿いに昭和三二年に市役所が新築移転してきて以来、商工福祉会館(三九年)、川之江郵便局(五〇年)、NTT(三八年)などが進出し、川之江の南の新しい行政地区となっている。それらに刺激されて、旧国道一九二号沿いには新しい商店街の形成がみられつつあり、さらに国道一九二号バイパスの完成により、今ではその沿線への進出の動きが著しい。
 こうした南北に走る新旧三本の道路沿いの商店街らしきところを除けば、金生地区の市街は住宅地と製紙工場、紙加工場、商店などが混在しており、雑然とした環境をなしている。また東部の街路は迷路状をなし、今日の車社会に対応できていない。

 両市間の都市機能の競合
 
 伊予三島市と川之江市のように同一規模の都市が隣接して立地する場合には、両都市間に都市機能面で競合または補完関係にあるものが多い。四国では丸亀市(七・五万人)と坂出市(六・七万人)に例をみるが、伊予三島・川之江両市間ではどのような関係がみられるであろうか。
 表5-35は両市の主要指標を対比したものである。両市は、人口規模、人口集中地区面積(市街地)、人口集中地区人口、事業所数、商店数等で拮抗しているといえる。工業においては、工場数は川之江市の方が多いが、製造品出荷額等においては伊予三島市の方が約四〇%も多い。川之江市には中小工場が多いのに対して、伊予三島市では大企業の大王製紙の比重が大きいことを示している。商業では、卸売機能において伊予三島市が川之江市の三・二倍も圧倒している。これは、伊予三島市では製紙関係の卸売業が発達しているのに対して、川之江市ではそれが遅れ、小規模であることを反映しているといえる。また、事業所数・産業別純生産において、伊予三島市の公務の割合が高いのも注目される。これは川之江市には県製紙試験場以外に官公庁の出先機関が今はみられず、それが伊予三島市に集中立地していることを反映しているのである。
 川之江・伊予三島の両市は同一規模の都市で、対抗意識も強く、都市機能の面で競合している点が多い。大正一二年(一九二三)に三島町に県立中学が設立されると、川之江町には県立高女が設立されたのは、その一例であり、県立三島病院に対し、四国中央病院を川之江に誘致した。ただ、卸売機能と行政機能では伊予三島市が優位に立ち、川之江市のそれらの機能を補完しているといえる。
 行政機能を例に、いつごろから伊予三島市が優位に立つようになったかその経緯を解明した。明治初期には、天領の代官所のあった名残りで、川之江が小市街地を形成していたのに対して(図5-34参照)、三島は寒村にすぎなかった。したがって、郡役所・警察署・税務署等宇摩郡一帯を管轄する行政機関はいずれも川之江に所在しており、川之江が宇摩郡の行政の中心であった。しかし、川之江は県境の町であり、位置的に宇摩郡の東に偏っていたので、明治二八年(一八九三)郡役所は宇摩郡の中心地に近い三島に移転することを決定した。これに対して、川之江村・上分村の住民が猛反対し、騒動状態となり松山から警察官が出動して鎮圧したほどであった。結局役所の移転は明治三〇年四月に強行され、両村の役職にあったものは責任をとって辞職した。時を同じくして、川之江警察署も三島に移転し、三島警察署と名称を変更した。このため県下一二市で警察署をもたないで派出所であるのは北条市と川之江巾である。さらに川之江税務署も明治四〇年三島に移転し、三島税務署と名称を変更した。このように、宇摩郡の行政の中心が川之江から三島に移転するのは、実に明治三〇年の郡役所の移転を契機とするものであり、以後三島は宇摩郡の行政の中心地として発展していくのである。客観的にみて、当時の宇摩郡の中心的位置に行政諸機関を移転または新規立地させることは妥当な判断であり、川之江が圧倒的な支配力を持ち得てなかったことと、県境の町という地理的ハンディはいかんともしがたいことであった。
 伊予三島・川之江の両市などを統轄する官公署などの立地点とその移動を示したのが前述の表5-34・図5-31である。食糧事務所のように、一時的に三島から川之江にその所在地を移したものもあるが、他のすべての官公署は川之江から三島に移ったか、または、設立当初より三島に所在するものである。三島に立地したり、三島に移転した要因は、伊予三島市が旧宇摩郡の中心地に近く、川之江より位置的に優位にあるためである。なお、伊予三島市内では、既述したように、官公署は施設の改善・拡充ごとに、より広い土地を求めて、旧市街地から鉄道南方の新興市街地へと立地移動している(図5-31参照)。











図5-32 川之江市の都市的土地利用(住宅地を除く)

図5-32 川之江市の都市的土地利用(住宅地を除く)


図5-33 川之江市街地の拡大

図5-33 川之江市街地の拡大


図5-34 明治23年測図の川之江

図5-34 明治23年測図の川之江


図5-35 明治39年測図の川之江付近の5万分1地形図

図5-35 明治39年測図の川之江付近の5万分1地形図


図5-36 昭和3年測図の川之江付近の5万分1地形図

図5-36 昭和3年測図の川之江付近の5万分1地形図


図5-37 伊予三島・川之江両市の地形図

図5-37 伊予三島・川之江両市の地形図


表5-35 川之江市・伊予三島市の主要指標の比較

表5-35 川之江市・伊予三島市の主要指標の比較


表5-34 伊予三島市内の官公署及び主要金融機関等の移動

表5-34 伊予三島市内の官公署及び主要金融機関等の移動