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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 伊予三島市・川之江市の港

 伊予三島市と川之江市の港
 
 愛媛県の東部に位置する伊予三島・川之江市には重要港湾である三島・川之江港のほか、地方港湾の寒川港、それに川之江漁港等の港がある。このうち三島・川之江港は七三八万㎡にも及ぶ港湾区域を有し、本県を代表する港湾の一つに成長しているが、当港は昭和四五年に従来の三島港と川之江港とが合併し、新たに発足したものである。
 従来の三島港(現三島・川之江港のうち村松、金子地区)は江戸時代から物資の集散が盛んな商業港として発展するとともに、海陸連絡の要衝ともなってきた。記録によれば、寛政一一年(一七九九)に改築されたことが記されているが、その後も部分的な改修は行われてきた。しかし、明治から大正にかけては、まだまだ水深が浅かったため満潮時に入港し、干潮になるまでの間に物資の積みおろしをしなければならなかった。三島紡績所や三島火力発電所が操業を始めたのに伴い、貨物量が多くなり従来のままでは狭あいとなってきた。このため、大正一五年(一九二六)に本格的な港湾整備事業として三島港修築工事が起工された(表5-29)。
 戦後、市制を施行したのに伴い、新市の基本方針の一つとして、製紙工業の将来の発展等も勘案して、港湾整備を掲げ、積極的に港湾施設の改修整備事業を実施した。二九年には西埠頭と物揚場の築造に着手し、三五年には東埠頭と物揚場の築造に着手した。四〇年代に入ると、成長を続ける製紙業界では、紙の需要増に対応するために次第に海外依存度を高めるようになり、外材を受け入れるためには大型外航船が入港できる施設が必要となってきた。このため四三年以来受け入れ施設が順次整備され、臨海の造成地には地元の大企業である大王製紙も進出し、輸送船から製紙原料を直接工場内に搬入できるようになるなど、効率的な工場運営も可能となってきた(写真5-11)。当時、外材等は新居浜港に輸入し、これを三島港へ回航しなければならない状態で、時間的、経済的損失は少なくなかった。こうした状況の中で、関係者の強い要望が実を結び、四四年に開港に指定されるとともに新居浜税関支署三島分室が伊予三島市に設置された。
 川之江港(現三島・川之江港のうち川之江、大江地区)は、平安時代からその名が知られているなど、古くから天然の良港として発展してきた。江戸時代には土佐藩主が参勤交代に際して川之江を利用するほか、嶺南地方をはじめとする後背地の物資を中国、阪神地方へ輸送する交易港としても栄えた。明治三六年(一九〇三)に東予運輸の「東予丸」が寄港を開始し、また三九年には住友汽船部の「御代島丸」が寄港し始めるなど、定期船の寄港が相次ぐようになると、航行の安全確保のためにも港内の浚渫や接岸施設の築造が緊急に必要となってきた。明治から大正にかけて港湾の改良工事は行われているが、いずれも部分的であり、問題点を根本的に解決するまでにはいたらなかった。ようやく昭和三年になって総工費一三万七一〇五円による川之江港修築工事が起工され、東、西防波堤及び内港護岸の築造浚渫、埋め立て等が施工された。同工事は六年に竣工し、これによって川之江港の機能は著しく向上した。
 終戦直後の港湾の状況は、戦時中港湾の整備を行うことなく放置してきたことが原因して機能は著しく低下していた。産業を振興し、地元の経済を活性化させるためにも新たに港湾を整備することが不可欠となっていたため、浚渫及び造成を行い、船舶の接岸及び荷役作業が容易に行うことができるよう、三三年から川之江港の改修工事が総工費四六七一万三〇〇〇円をもって施工され、三六年に竣工した。これによって東埠頭と荷揚場が整備され、現在もフェリー発着場周辺の港湾施設として利用されている。さらに川之江市では地元の産業を飛躍的に発展させるためには近代的な施設・設備が整った港湾を建設することが必要であるとして、三九年から産業関連港湾の建設を行った。総工費一億九一七四万円を投じたこの工事によって、四二年には、大江海岸に臨海土地造成を行うほか近代的な設備をもった新港湾が姿を現した。

 三島・川之江港の発展

 三九年一月に東予地区六市七町三村が新産業都市の指定を受けたのに伴い、伊予三島・川之江地区においても工業開発はもちろん、基盤整備の一つとして港湾の改修が積極的に行われてきた。しかし、これらはいずれも両市が別々に行ってきたものであった。両市の基幹産業の共通性、さらにその拡がりが両市にまたがってきた等の状況は、三島、川之江両港の一本化を促進するものであった。四九年九月両港は合併し、相互に補完しつつ本県東部における一大流通拠点となるべく新生のスタートを切った。同年には中距離フェリーが就航し、貿易の拡大とも併せて入港船舶総トン数は激増していった(表5-30)。さらに四六年には県下七番目の重要港湾にも指定され、名実ともに本県を代表する港湾として発展するための条件が整うことになった。四〇年代後半は公害問題が社会的にクローズアップされた時期であり、産業優先主義に対する反省が求められるようになった。三島・川之江港第一次港湾整備計画はこのような当時の社会状況を反映し、しかも重要港湾としてふさわしい港湾づくりをめざして四七年に策定された。この計画の中で特筆すべき事項は、従来には見られなかった大規模な埋め立てとそれに伴う工業用地の造成である。造成の目的は海底に沈澱堆積した汚泥を吸い上げ、土砂と混合して埋め立てを行うとともに、計画に基づいて港湾整備を行うことであった。海底汚泥除去が第一の目的であったが、同時に住工分離の工業用地を確保することも目的としており、以後伊予三島・川之江市の埋め立ては工業用地や都市環境整備用地の造成という大規模埋め立てに移行するようになった。第一次港湾計画は五五年を目標年次としたものであったが、製紙業界の順調な発展によって海上出入貨物量等が当初の予定より大幅に増大したため、五三年に計画の見直しを行い、目標年次を六五年とする改訂港湾計画を策定した。
 港湾整備の基本方針は①堆積汚泥及び廃棄物の処理用地を確保する、②背後市街地における住工分離及び再開発に資するための用地を確保する、③港湾取扱貨物の増大に対応して港湾施設の整備拡充及び既存港湾施設の再開発を行う、①港湾における安全の確保と良好な環境の整備及び保全に十分配慮する、⑤漁船と一般船舶の分離並びに漁業振興に資するため漁船用施設を整備するなどであった。四七年以来、相次ぐ整備事業によって近代的設備を備えた港湾として成長し続けているが、なかでも海域の環境浄化を図る埋め立てや用地の造成は急速に進展しており、六二年現在金子地区四四万平方m、村松地区四五万平方m、大江地区五四万平方m、川之江地区二〇万平方mがほぼ完成しており、埋め立て総面積は一六三万平方mに達し、そこに立地する近代的工場群は我が国の製紙業界をリードする地域にふさわしい偉容を誇っている。

 三島・川之江港の内外貿易

 戦後、伊予三島、川之江の製紙業界は全国に先がけて近代化を推進し、パルプから洋紙までの一貫生産を開始した。経済成長の波に乗り、紙類の需要が高まるとともに、洋紙の生産は増大し、三〇年代には和紙の生産を追い越すまでになった。四○年ころまでは製紙原料はほとんどが国産材でまかなわれていたが、その後、紙の需要増加に対応しきれなくなったため外材を輸入するようになった。開港に指定された翌年の四五年には外材等の輸入量は六三万トンであったが、五〇年には一八七万トン、六〇年には二二六万トンに増加し、業界の発展に伴い輸入量も順調な伸びを示している(表5-31)。近年は原木のまま輸入することは少なくなり、六〇年にはチップが総輸入量の九八・六%を占めている。移入で最も多いものは原油二七%であり、次いでチップ二一%、砂利等一五%となっているが、故紙類も比較的多く一二%を占めており、輸移出では紙・パルプがほとんどすべてを占めている。なお、最近は輸移入品目の中に石炭が含まれるようになってきたが、これは燃料の安定確保をめざして、年間四〇万kl消費している重油の半分を石炭に切り替えようとするものであり、大王製紙ではすでに一八〇億円をかけて石炭ボイラーや荷役、貯蔵施設などを完成させている(写真5-12)。

 三島・川之江港の海上交通
 
 三〇年代以後入港船舶数は次第に減少しているのに対し、総トン数は急激に増加している。これは船舶の大型化や、四五年からフェリー航路が開かれたことが大きく原因している。フェリー航路は四国中央フェリーボート(通称バンパックフェリー)によって開かれたが、当初は川之江-神戸間を結び九九九トン級船舶が一日三往復していた。その後、四八年からは三〇〇〇トン級船舶二隻で一日二往復しており、五〇年には新居浜までの航路延長が実現したが、六二年現在、新居浜港では施設の関係上人のみの乗降が行われている。フェリーによる自動車航送量は年を追うごとに増加しており、四五年には一二一万トンであったものが、六〇年には三一二万トンに達しており、三島・川之江港の海上出入貨物全体の三五%を占めるまでになっている。
 阪神地方との海上連絡は川之江に発着するフェリーによって実現したが、中国地方との連絡は依然として実現しておらず、本県東部地域の不便性は著しかった。このため、五八年に伊予三島市や新居浜市の関係者を中心に㈱ニュー三福高速ラインが設立され、伊予三島-福山-新居浜航路が開かれた。当初は高速艇「シーバード」・「スワロー」で一日三往復運航していたが、艇の構造上強風や高波に弱いという欠点があり、冬の季節風が強く吹きつける時などはしばしば欠航しなければならなかった。このためニュー三福高速ラインでは荒天時にも揺れがきわめて少ない新造船SSB型高速艇「サンライン」を六二年二月から就航させ、多くの人々が安心して利用できる航路づくりに努めてきた(写真5-13)。また、同航路に接して燧灘の中央部の魚島村には、六〇年八月から福山行、新居浜行ともに一便ずつ寄港し、村の活性化に大きく貢献してきた。しかし、「瀬戸大橋」の開通など、社会環境の変化に伴い、同航路は六三年三月末で廃止されることになった。






表5-29 三島・川之江港関係年表

表5-29 三島・川之江港関係年表


表5-30 三島・川之江港における入港船舶総数等の推移

表5-30 三島・川之江港における入港船舶総数等の推移


表5-31 三島・川之江港における海上出入貨物量の推移

表5-31 三島・川之江港における海上出入貨物量の推移