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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 伊予三島市・川之江市の製紙業

 宇摩の和紙のはじまり

 森実善四郎著『紙と伊予』によれば、「宝暦年間(一七五一~六三)に、嶺南の奥地にかくれて、豊富な水と、自生する楮を伐って、誰かが紙を漉き始めたという伝承があるが……裏づける資料は何もない」とある。さらに、「宝暦も中頃、村松村太師付近で高橋家、川之江村井地で篠原家、川滝村長持で川井家などが、それぞれ紙屋を始めたようである。これが、今のところ宇摩郡製紙の元祖と言える人たちである。下って文化(一八〇四~一七)のころになって、金生村下分でも、角川吉左衛門という人が紙屋を始めた。金生最初の紙屋である。文政年間(一八一八~二九)になると、小川山村中ノ川(現伊予三島市金砂町)の人、小川利平が、駿河半紙の製造を伝習して、従来の楮の外、周囲に自生する三椏を原料として半紙の製造を始め、小川半紙と銘打って、自家用程度から、わずかながらも市販されるまでになった(『土佐藩札史』)。」とある。
 また、下柏村庄屋『藤枝家文書』に次のように記されている。「安永七年八月十七日御代官様馬立村へ御登山勇助紙楮運上被仰付候……(中略)……天保九戌年正月二十六日御廻見様御宿庄屋時蔵真鍋条太郎真鍋伊作三軒へお手代郡役人入込宿改方のこと、天保十二丑年正月五日 紙役所始テ相立」と記されており、安永七年(一七七八)代官は宇摩郡馬立村(今治藩領)へ行き勇助に紙楮の運上をおおせつけている。天保一二年(一八四一)今治藩は、真鍋伊作の屋敷の一部を買い上げて紙役所を設置している。今治藩が紙の生産に目をつけ、保護奨励に乗り出したのである。

 その後、天保から安政(一八五四~五九)・文久(一八六一~六三)・元治(一八六四)の幕末のころには、金砂村や新宮村の銅山川流域では、盛んに楮や三椏の栽培が行われ、自生のものと合わせて、年間四〇〇〇~五〇〇〇貫のものが、隣の三島や川之江地方に出荷されるようになった。そして交通の要路の上分には商店が発達し、楮・三椏を扱う商人が誕生した。

 明治時代に県内最大の紙産地へ

 慶応から明治初期には、宇摩郡の製紙業者は二十数戸であったが、明治四年(一八七一)には八○戸となった。上分村の薦田篤平は、同五年に、漉桁の二枚漉きを四枚漉きに改良して能率を倍加した。そのため、同八年には、大洲地方に次いで県下第二位の生産額となった。生産量が増して原料の楮が地元で不足するので、同一〇年に薦田篤平は、同志を糾合して、楮苗を上山・新立・金田・上分地方の農家に配布して栽培を奨励した。同一三年には、彼は三椏、麦藁・稲藁などの繊維原料の研究に乗り出した。また明治一七年には漂白剤としてカルキ(晒粉)を導入し、同二一年には苛性ソーダを使って原料の煎熟に成功し、それで三椏や藁スベの使用を容易にした。さらに四枚漉きを八枚漉きに改良して能率をあげた。明治二七年(一八九四)の農商務省の統計をみると、宇摩郡の生産額は、愛媛県の紙の総生産額の四九%を占めるに至った。このころから製紙業は農家の副業から、次第に専業化している。
 明治三四年(一九〇一)には、宇摩郡の製紙家は五二〇戸、生産額六四万八〇〇〇円で、愛媛県の産額の六〇%を占めている。翌三五年には、川之江の篠原朔太郎が、化学パルプを和紙に混抄することに成功し、その上、床締めジャッキを工夫して、能率が一層アップした。明治三四年ころ、三島の住治平・石川高雄・前谷久太郎・石崎九真、上分の薦田篤平らは、宇摩地方の製紙業の発展向上させるために業者を集め、同業組合を結成するよう働きかけた。組合が中心となって、製品技術の向上、品質の安定、原料の確保、製品の販売・宣伝等に努力することとなった。こうして、宇摩地方の製紙は、薦田篤平・篠原朔太郎らは技術開発を、住治平や石崎九真らは製品の販売を、石川高雄らは原料の確保を、それぞれの長所を生かし、各分野で努力を重ね、相協力して発展の基礎をつくった。住治平や石崎九真らは、大阪・東京はいうに及ばず、東北や北海道にまで出かけて伊予紙の販路拡張に尽力している。このころは、安価な西洋紙の輸入に圧倒されて和紙の需要が減退し、わが国の和紙の生産は低落の極に達している。この時期における幾多の努力は、西洋紙に対抗してコストダウンと紙質の改善をめざし、生産の効率化・機械化を図ったものである。
 明治三九年(一九〇六)の宇摩郡における製紙業者は、六四三戸で、その分布は、川之江八〇、金生一四四、上分三六、金田一七、川滝一五、上山三、新立四○、妻鳥三八、松柏六〇、三島一五〇、中之庄三、寒川四三、津根一、富郷三、金砂一〇であった。明治四〇年、妻鳥村の近藤又太郎は、近藤式蒸気乾燥機を発明した。また、篠原朔太郎も、ビーター(叩解機)の動力であるボイラーから出る廃蒸気に着目し、鉄板製回転式三角型乾燥機を発明し広く使用をすすめた。こうして、晴雨にかかわらず紙を生産することができるようになり、技術的にも大きく飛躍した(表5-19)。

 技術革新と企業化の進む大正・昭和

 明治末期以来、手漉き工業を機械化しようとする機運が高まってきた。なかでも、明治三九年(一九〇六)に篠原朔太郎は、和紙の原料叩解にビーター機を導入して、本県製紙業界における産業革命の口火を切った。ビーター機の導入以来、原料叩解に費やしていた労働力を抄紙部門等に転換させることができるようになった。その上、手打ちではできなかった藁、麻、苧、反古、布、パルプ等を原料として自由に混合できるようになった。したがって、楮や三椏のみにたよる必要はなくなってきた。篠原朔太郎は乾燥機に続いて、明治四三年に、球形の蒸気釜を回転しながら原料を煮沸する回転式蒸気釜を考案した。こうして、原料調整の合理化が図られ、原料の烹煮、漂白、混和、撰別等に要する労力を省力することができ、これにより生産性を二倍に向上させることが可能になった。
 大正二年(一九一三)川之江町の薦田順二郎は、宇摩製紙㈱を創立し、スウェーデン製の長網式抄紙機を設置した。これが宇摩地方で初めての機械抄製紙であった。翌三年、村松の森実棟太郎は小幅の丸網式抄紙機を導入し、大元製紙工場に設置した。これが機械抄第二号であった。大元製紙では、これで元結や水引の原紙を抄造し、好成績をあげ、機械抄の優秀さを広く人々に知らせた。大正六年ころの宇摩郡の紙は、美濃半紙・半紙・半切紙・仙貨紙・雁皮紙・コピー紙等で、東京市場を中心に伸張し、高知・静岡・岐阜を抑えて注文が殺到してきた。これは宇摩郡の製紙技術が優秀で紙質が良く、安価であったためである。さらに、和紙を中心に紙種も豊富になり、合羽・油紙・状袋・紙帽子・紙糸・紙織物・水引と内容も多種にわたるようになる。
 第一次世界大戦後の不況時には、今や手漉きをもっては機械力に抵抗することあたわずという認識で、新しい設備投資を積極的に行っている。昭和八年には三島の東町に町内二番目の機械抄紙工場の篠原製紙が創業し、さらに村上梅太郎・石川宅美らがこれに続き、寒川町にも機械抄工場が立地した。しかし、日中戦争から第二次世界大戦へ突入していく中で、企業合同が進められた。三島町の製紙原料商井川伊勢吉は、海難沈没等による濡れた紙、パルプ等を故紙として引き取り、利益を上げた。昭和一五年西条の丸菱製紙を譲り受け、製紙業界に進出し、翌一六年には三島の丸栄製紙、上分の予州製紙、西条の四国製紙、丸菱製紙の四社を合同させ、伊予合同製紙を発足させた。さらに一八年五月企業整備統制令により、彼は伊予合同製紙のほか一三社を合同させ大工製紙㈱と名づけた。同年七月には、三島町では、大西久太郎が大西製紙を中心に白川製紙など一三工場を合同して大西製紙㈱を誕生させた。また、村松製紙と西条の伊予製紙など数社が合併して伊予製紙㈱が、川之江では丸井製紙・丸住製紙・井川製紙などが合同して丸井製紙㈱が誕生する。こうして県内の製紙工場は四社に統合されたのである。

 戦後の復興と日本的製紙業地へ

 戦後復興のきざしがみえ始めた昭和二二年、大王製紙は長網式抄紙機を設置した。これは四国で初めての洋紙抄造機であった。このころは生活必需品としての紙製品は、品不足のためどんな紙でも飛ぶように売れた。特に、宇摩郡の仙貨紙はいくらでも売れ、仙貨景気と呼んだ。しかし、二三年の秋になると、最大手の王子製紙などが次第に立ち直って良質の紙を生産し、市場に出回り始めたため、つくれば売れるという考えで安価で粗悪な仙貨紙を製造していた四国の紙は、急速に評判を落とし、売れ行き不振となり、翌二四年ころからは倒産が続出した。昭和二四年の愛媛県の機械漉和紙生産量の品目別内訳をみると、故紙をすき返した粗末な片面紙であった仙貨紙が四二%、ちり紙が三八%で、この両者で全体の八割を占めていた。なお、当時の宇摩の仙貨紙は全国の三〇%を占め、全国一の産地であった。その後、洋紙の復活とともに衰退し、家庭用薄用紙と雑種紙の生産が中心となっていく。
 昭和二四年末から全国紙が夕刊を発刊することになり、新聞用紙の需要が急増した。これに大王製紙は会社生命をかけて設備投資を行い、月産能力三二〇~三三〇トンの抄紙能力の設備を備えた。この年はまた、宇摩地方の製紙業の発展に大きく貢献する銅山川の揚水燧道工事が完成し、通水が開始された年でもあった。さらに、大王製紙は二九午夏に三島工場にクラフト・パルプ設備を新設し、パルプから製紙に至る一貫設備を完成させ、日本的な製紙業地形成のリーダー格となるが、当時すでに、従業員一七〇〇名を擁する日本第三位の新聞紙メーカーに成長した。
 昭和三四年からの岩戸景気で製紙業界でも多額の設備投資を行った。特に大王製紙は過剰投資がたたって、昭和三七年に会社厚生法の適用となった。しかし、労資協力して再建に全力を投入した結果、わずか二年一〇か月余で黒字に転じた。その後の大工製紙は、順調な業績を示し、四二年にはチップ専用船大王丸(二万八〇〇〇トン)を北米に就航させ、四四年には第二船愛媛丸、四六年には大海が就航する。また、四四年には国鉄大王駅が竣工し、三島港が出入国港の指定を受けるまでになった。四八年には、年間一〇〇万トンの大型プラントが完成し、単一紙工場としては王子製紙の苫小牧工場を抜き、世界第二位の規模をもつ工場となり、パルプ九万二〇〇〇トン、洋紙八万トン体制が整えられた。この間、四五年ころから発生した海水汚染ヘドロ問題に対処するため、大王製紙では八〇億円を投人して公害防止対策に全力をあげている。また、四九年には三島・川之江の製紙会社三三社が協同組合クリーンプラザを設立し、製紙スラッジ焼却場を建設した。
 この大王製紙以外にも、宇摩地方の製紙工場で、戦後の仙貨紙ブームの時期に創業し、今日の日本的製紙業地形成の一翼をになった企業は多い。丸井製紙から分かれた丸住製紙は、二六年に三和パルプ金生工場を買収して丸住製紙第二(金生)工場とし、さらに第一工場に長網抄紙機を新設して新聞用紙の生産に乗り出した。この川之江工場に加えて、埋め立て地に大江工場を新設して、今や大王製紙に次ぐ企業となった。その他、三木特殊製紙・森実製紙・国光製紙・丸三製紙・長優製紙・オリエンタル製紙・服部製紙・泉製紙・四国製紙などが新聞巻取紙のほか、印刷用紙・包装用紙・薄葉紙・家庭用薄葉紙(トイレットペーパー・生理用紙・ティッシュペーパー・タオルペーパー・ちり紙など)、雑種紙(奉書紙・書道用紙等)などを生産している(表5-18)。

 立地要因とその変化

 増岡喜義は、『伊予和紙の研究』(一九四三)で、宇摩郡の和紙業発展の要因を次の八つにまとめている。

 ①本郡和紙業の中心地である三島・川之江両町は、瀬戸内海に面して港湾設備早くより整い、阪神・中国・九州方面との海上交通が至便であったこと。②近県に原料の生産地(土佐・阿波等)を控え、しかもこれ等との陸上交通も早くから拓けていて原料輸送に便したこと。③郡内に金生川の清流あり、水質良く原料の洗滌・漂白等に適したこと(手漉製紙工場が金生川の河岸に集中している事実はこの関係による)。①土地の風俗が純朴であって生活程度低く、しかも住民は勤勉であり、職工賃銀が他地方に比して低廉なりしにも拘らず、その能率は増進し、かつ傭主と職工の間は主従・師弟の情義によって結ばれ、これら両者の和を得たこと。⑤種々なる紙加工業が本郡において発達したこと。⑥先覚者にその人を得たこと。⑦製造業者が進歩的で、研究心も旺盛であり、技術の練磨、工程の機械化に努め、かつ先覚者の指導に協力したこと。⑧生産と販売が独立し、生産者は生産に専念し、三島・川之江の紙商人は製品の販売につき独特の手腕を発揮し、市場開拓に努力したこと。

 このほか、宇和島藩や大洲藩のように藩の保護奨励のなかったことがかえって業者の独立企業心と技術的研究心を培った。明治後期から大正・昭和と製紙業の発展に併せて紙加工業をはじめ関連産業を派生し、一大製紙業地の形成をみた。さらに、大量生産時代に入り、製紙業に不可欠の用水を銅山川分水により得られたことは、今日の産地存続の最大の要因といえる。

 現在の生産状況

 昭和五八年の伊予三島・川之江両市の機械すき製紙業の生産額は、二九六八億円で、内訳は伊予三島三一工場、一八七一億円と川之江市三四工場、一〇九七億円である。紙種別生産量の構成をみると、新聞巻取紙が四七%、印刷用紙が二六%と上位二種で七三%も占める。このうち新聞巻取紙は大王・丸住製紙の大手企業が生産し、印刷用紙は大王・丸住と四国製紙が生産している。これに対して、中小メーカーでは家庭用紙(ちり紙・ティッシュ・トイレットペーパーなど)・包装用紙・雑種紙(各種加工原紙・感光紙・書道半紙など)を生産している。なお、本県の紙・パルプの地位はパルプ一七%、新聞紙二四%、印刷用紙二一%、家庭用紙一七%と高い。
 伊予三島市の機械漉製紙工場については図5-17に示した。工場分布は村松町七、紙屋町二、宮川五、寒川町一四、その他三である。紙屋町の大王製紙の規模は別格に大きく、三島・川之江両工場を合わせた従業員数は二八一〇名、資本金六五億五〇〇〇万円で、四国製紙(八五七名)、愛媛製紙などがこれに続く。
 川之江市の三四工場のうちでは、丸住製紙が最大で、資本金一二億円、従業員八二八名で川之江・大江・金生の三工場を持つ。これに次ぐのはトーヨ(一七三名)、国光製紙(一六四名)、イトマン(一三七名)などである。工場分布は図5-18に示したが金生町一二、川之江町九、上分町六、妻鳥町六である。なお、愛媛パルプ協同組合(四二名)は、伊予三島・川之江地区の中小製紙業一三社が出資して昭和四四年に組織しており、原料(故紙パルプ)を供給している。川之江市の三四社の創業時期をみると、戦前が六、昭和二〇年代一〇、三〇年代一四、四〇年代以降三となっており、新興産業のイメージがある。








表5-19 宇摩郡の製紙戸数・職工数及び和紙生産額の推移

表5-19 宇摩郡の製紙戸数・職工数及び和紙生産額の推移


表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)①

表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)①


表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)②

表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)②


表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)③

表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)③


表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)④

表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)④


表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)⑤

表5-18 宇摩地方の製紙関係年表(戦後)⑤


図5-17 伊予三島市の製紙業及び紙加工業の分布

図5-17 伊予三島市の製紙業及び紙加工業の分布


図5-18 川之江市の製紙業及び紙加工業の分布

図5-18 川之江市の製紙業及び紙加工業の分布