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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

六 宇摩地方の水産業

 漁業の歴史

 宇摩地方では藩政時代から小規模な沿革漁業が営まれていた。「西海巡見志」(一六六七)によると、宇摩地方には余木・長須・河野江・三島・寒川・八日市・天満の七村の記録がある。わずか二〇㎞の海岸線の村々は、天領の川之江のほか、西條藩・今治藩等によって、入りくんだ領有・支配を受けた。
 藩によっては漁業政策に、若干の相違がみられたが、地先海面は各村浦の専用漁場として確保され、沖合いは入会漁場となっていた。川之江などは、早くより漁師まちが形成され、東は観音寺沖から、西は天満沖まで出漁していたことが記録されている(『役用記』天満沖入会漁業申渡書-文化八年)。川之江は阿波街道・土佐街道の玄関口として、瀬戸内にのぞむ海上輸送の中心でもあった。
 藩政期、瀬戸内各藩の漁村には、長崎俵物としての煎なまこの生産を請負わされていたが、宇摩地方は遠浅の海岸であったので良質のなまこが採取された。川之江・寒川は特産地として、多くを請負っている。
 明治になって封建的支配体制は撤廃されたが、漁場の使用は旧慣行が継承されたので、宇摩地方では漁場をめぐり紛争が続発した。こうした中で注目されるのは、二名地区(余木・長須)の漁民による遠洋出漁である(表5-15)。余木は旧天領時代から海運業で栄えており、長須も海運業を営む家が多かった。村上節太郎は『愛媛県新誌』のなかで次のように述べている。「明治二〇年から朝鮮に出漁し、島根・佐渡とともに草分けである。漁場は東シナ海で、タイ網、延縄がおもで春から秋に出かけた。初めは帆船で往復、後には漁船を預け汽船で通った。機先を制したのは、余木が天領で特権をもち、維新当時すでに行商に活躍していたからである。」
 二名地区の漁業の衰退は、明治から大正にかけて若い船頭の冒険から、遭難があいつぎ、そのつど青年を五〇人も失ったことや、資本の不足から漁船の機械化に対処できなかったことなどがあげられる。

 漁業の現況

 宇摩地方の漁場では小型底曳網と刺網の経営体が圧倒的多数を占める(表5-16)。漁獲量、漁獲金額をみると、パッチ網漁業が首位を占めているが、どの漁種とも漁獲量、漁獲金額ともに停滞、もしくは減少している(表5-17)。特に伊予三島・川之江を中心とする製紙工業の発達に伴う工場排水は、魚介類の生態に多大な影響を及ぼしており、海水の有機化が進行する中で外洋からの回遊魚であるさわら・たい・すずきといった高級魚が次第に減少した。
 パッチ網漁業では昭和四〇年代後半より脂肪過多の油いわしが増加して、漁獲物の大半がいりこ加工できずに、はまち等の飼料にまわされた時期もあった。
 小型底曳網漁業は年間を通して操業されるが、中心となるのは、一二月から三月までの操業が許可される戦車漕網である。五トン、一〇馬力以下の小型動力船を使用し、海底の魚を鉄製の桁についた「ツメ」でかき出し、後の袋に入れるもので、えび・かれい・えそなどが漁獲される。川之江と寒川地区が中心であるが、資源の減少によって経営は苦境にあり、四月から一一月の間は、さわら流網やさより機船船曳網の兼業によって補っている。 (図5-15)。
 刺網・小型定置網漁業は経営体数は多いが、規模も零細であり漁獲量・漁獲金額ともに少ない。
 のり養殖も全国的な生産過剰により、経営は悪化しており、農業との兼業が多い土居地区において生率が維持されている。しかし土居町でも、ピークの昭和四七年に七二経営体あったのり養殖業が、同六一年には三五経営体に半減している。
 土居町は海岸線も一〇㎞と、宇摩郡においては一番長いにもかかわらず、漁業は資本装備等、低調である。許可漁業の状況などをみても、土居地区は八三件と川之江地区の四四二件、寒川地区の三六五件に比べて圧倒的に少ない(西条地方局調、昭和六二年度)。沿岸膠着性の強い土居町の水産業は、刺網、小型定置網、のり養殖等に依存せざるを得ないが、他地区の底曳網漁業の侵入によって被害を受けることになる。冬の季節風を直接受ける燧灘にあって、新居浜市大島の島かげとなる土居町天満沖合いは、海が荒れた際の格好の漁場となった。

 パッチ網漁業といりこ加工

 パッチ網漁業(瀬戸内海機船船曳網漁業)は昭和五年徳島県津田町の地曳網業者が、権現網という袋網二つを有する曳網を動力化して操業したのが始まりとされる。もも引、パッチの形に似ている網から名付けられた。全国的には瀬戸内海と伊勢湾が主要漁場となっている。漁場は砂質の平坦地がよく、水深は二〇~二五m内外がよい。遊泳力の弱いかたくちいわしが漁獲対象となる。
 燧灘のかたくちいわしは、四月から夏季にかけて東は紀伊水道、西は豊後水道から外海域で発生した魚族が、内海に入り込み、燧灘で中・大羽いわしに成長して濃密群を形成して漁獲対象資源となる。
 宇摩地方のいわし網が地曳網を中心とする寄魚漁法から、積極的な沖取漁法に発展したのは戦後のことである。伊予三島地区を中心とした製紙業の排水が地先海面を汚染しはじめて、地先海面へのいわしの回遊が減少すると、地曳網は急速に衰退し、かわって昭和二六・二七年パッチ網の導入が相次いだ。
 パッチ網の漁期は制度上は五月一五日から翌年一月一五日まで操業できるが、燧灘の場合は水温が低下する一一月から一二月にかけて、かたくちいわしは、燧灘北部に移動し、徐々に東西に分かれて散逸するので、漁期は一一月には終わる。またパッチ網は網船二隻と手船兼運搬船三隻の編成であったが、運搬船として用船された小型底曳網の漁船が一二月から戦車漕網に向かうために、パッチ網の漁船編成をくずさざるを得なかった事情もあった。
 パッチ網の操業区域は、燧灘の東部海域に限定されている(図5-16)。燧灘の西部海域は、越智郡魚島等に代表されるいか巣漁業やたこつぼ漁業などの、小規模付設漁業を保護するために、操業禁止区域となっている。
 かたくちいわしの濃密群が形成される香川県の伊吹島を中心に漁場が集中している。この海域は香川、愛媛両県漁民による共同入会漁場であり、ここで漁獲されるかたくちいわしは煮干し(いりこ)に加工される。
 燧灘の海域の富栄養化による過脂肪いわしの出現は、いりこの品質を低下させ、加工生産の大幅な後退をまねいた。特に昭和四七年から五三年にかけては、かたくちいわしは、宇和島を中心とするはまち養殖の飼料に向けられた。
 川之江のパッチ網業者は、高速艇(一〇〇〇~一五〇〇馬力)やフィッシュポンプの導入、或いは煮たきから乾燥まで、ほとんど自動化した製造機の設置を心がけ、鮮度を落とすことなく、良質のいりこ加工を行うようになっている。昭和六二年現在、川之江地区のパッチ網は九統が操業され、それらはいずれもいりこの加工業を兼ねている。
 福神水産・川兼水産・川熊水産・東文・豫州興業・西鶴水産・日吉水産・伊吹勝・東久水産の九社であり、川之江漁港に隣接集中し、加工団地を形成している。今では全国屈指のちりめんいわし、煮干しいわしの生産地として、全国に販路をもつに至っている。








表5-15 宇摩地方の遠海出漁成績一覧

表5-15 宇摩地方の遠海出漁成績一覧


表5-16 営んだ漁業種類別経営体数

表5-16 営んだ漁業種類別経営体数


表5-17 漁業種類別漁獲量 漁獲金額(川之江市・伊予三島市・土居町合計)

表5-17 漁業種類別漁獲量 漁獲金額(川之江市・伊予三島市・土居町合計)


図5-15 伊予三島市寒川地区の漁業種類別漁業暦

図5-15 伊予三島市寒川地区の漁業種類別漁業暦


図5-16 パッチ網漁場(漁期と漁獲体長)

図5-16 パッチ網漁場(漁期と漁獲体長)