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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 都市化と新居浜市の変容②

 市街地の展開

 昭和三五年当時の人口集中地区(DID)は、旧市内の北部から西部の地域と上部の喜光地・山根を中心とする地域(旧角野町北部)とに分断されていた。旧市内のうち、もとの金子村の東部と旧泉川、中萩の地域には市街化はあまり進行していなかった。やがて、四五年までに旧金子村東部の市街化が進んだことから、予讃本線以北の川西地区がすっぽりと人口集中地区におさまってしまった。上部地区では、この間に喜光地・山根から西への広がりがみられ、旧中萩町の北部中村を中心とする地域の市街化が著しく進行した。その後も引き続いて周辺への拡大が進んでいる。この間に川東地区では旧神郷村北西部で市街化が進行した(図4-27)。
 このことは農地の転用状況、住宅の建設戸数にもよく現れており、特に中萩(五九年には萩生で大きな転用があった)、泉川での転用が大きい。上部地区では五〇年以後六〇年にかけて、中筋、角野新田(住友金属鉱山の社宅地域)を除くすべての町で世帯数の増加があった。特に萩生町では五〇年の人口一二四八、世帯数三四二に対して、五五年には七〇七三人、二一四九世帯、六〇年には七六〇三人、二三九二世帯と急増した。ほかには、松原、泉川、北内、西蓮寺などでの増加が目立っている。
 これらの市街化の過程の中で、川東の多喜浜駅前、上部中萩の西ノ端を中心とする新興商店街の成長が認められる(古4-33・34)。

 住宅団地

 新居浜市は「社宅の町」といわれてきた。現在ももちろん住友系企業の多くの社宅や体育施設などが市のいたるところで目立った存在となっている。とりわけ新居浜市の都市形成・都市化の中で前田・星越・高津・山根などに広大な地域を占めて形成された社宅街の意義を見逃すわけにいかない(写真4-22)。それらは明治・大正・昭和と長年の間、市街地のかなりの部分を占めた木造の平屋あるいは二階建、または長屋形式の社宅街であった。しかし、それらの地域の多くは、後述するように撤去され、あるいは無人家屋群として改廃を待つ状況となっている。
 新居浜市には現在一六五四戸の市営住宅がある。昭和二七年以来漸次建造されたもので、最初の南小松原に続いて、四〇年代中ころまでは上部地区に集中的に造られ、その多くが木造平屋あるいは二階建で、2Kや2DKである。四五年以後は建設の中心が川東地区に移り、耐火構造四階建がほとんどで、型式も3DKが多くなった。
 五七年以後の建設は、上部の坂井一二戸のほかはすべて(一〇八戸)川西地区で、ドーナツ化現象への対応がみられる。耐火構造二階建から五階建まで様々で、すべて3DKである(図4-28)。
 民間による住宅団地の開発は、地価、環境、交通条件等によって郊外化がすすんでいる。
 そのうち規模の大きいものは、昭和四九年以降協和開発㈱によって船木・泉川に建設された三〇六区画で、これが船木・泉川地区の人口急増と大きくかかわっている。
 四〇年代の開発は松神子と船本に集中しており、五〇年代には萩生と船木での開発が進んだ。高津での二か所一二三区画は住友系社宅の再開発による宅地分譲である(図4-28)。

図4-27 新居浜市の人口集中地区の変遷

図4-27 新居浜市の人口集中地区の変遷


表4-33 新居浜市の地区別農地転用状況

表4-33 新居浜市の地区別農地転用状況


表4-34 新居浜市の建築確認申請による住宅建設戸数

表4-34 新居浜市の建築確認申請による住宅建設戸数


図4-28 新居浜市の公営・民営住宅団地

図4-28 新居浜市の公営・民営住宅団地