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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 都市化と西条市の変容

 工業化と臨海地域の変容

 西条は藩政時代初期に成立した西条藩の陣屋を中心として、周囲に武家屋敷今町屋が形成された。当時の市街地はこの陣屋町七町と、これに隣接する明屋敷・大町・神拝の一部であった。このほかでは、金毘羅街道に沿った大町と氷見に商業機能をもった地域がみられたが、その他の地域はほとんど農・山村や漁業集落であった。
 こうした集落分布の状況は昭和初期にもみられた。西条の市街地の拡大は明治以降もあまり進んでおらず、また村落も藩政期に起源する自然村がほとんどそのまま存続していた(図3―20)。このような西条の集落分布に大きな変化を与えたのが工業の発達である。
 良質な地下水に恵まれた西条では、大正三年(一九一四)に織物染色加工業の関西捺染㈱が神拝に立地した。また、藩政期の西条奉書の伝統をいかした製紙業の伊予製紙㈱が大正五年(一九一六)、同じく神拝で操業を開始した。しかし、これらの工場は既製市街地に隣接しており、その規模も集落の分布に影響を与えるほどのものではなかった。
 西条の大規模な工業化は、市制施行(昭和一六年)前後の企業誘致と工業開発構想に始まる。これにより、昭和一一年に化学繊維の倉敷レイヨン㈱が臨海地域に用地を造成して進出し、人造絹糸の製造を開始した。また一五年には日本発送電㈱が電力供給の最適地として、海岸の埋め立て地に火力発電所の建設に着工した。
 特に倉敷レイヨン工場の進出は北部の臨海工業地域形成の第一歩となり、西条市の工業発展に大きく貢献した。同工場の昭和一五年の従業者は一七三八名に及び、工場の拡充とともに従業員のための社宅が建てられた(表3―20)。社宅は旧市街地と工場の問(朔口市)を中心に建てられ、その後一部は取り壊したり売却したものもあるが、総戸数四七八戸に及んだ。
 西条陣屋の濠から流れる本陣川河口には、埋め立て地が造成されて右岸にクラレ西条工場、左岸に四国電力西条火力発電所が立地した。さらに、発電所の西側から加茂川河口にかけて、戦後間もなく干拓地が造成された(表3―21)。これは昭和二三年に国の干拓事業として計画された燧灘沿岸の六工区(のち工区変更により五工区)のうちの二工区で、旧西条工区とその北側の西条西工区から成っている。
 この二工区は二三年及び二六年に旧自作農創設特別措置法の規定に基づいて区画漁業権・定置漁業権・専用漁業権の買収を行った。一期工事で干拓された旧西条工区は二九年六月一一日付、二期工事で干拓された西条西工区は三六年一二月一八日付で、それぞれ西条市に編入された。これが大字港で、両工区の境界の堤防に沿って入植した農家の集落が列状に形成された。また、旧西条工区は新地、西条西工区は北新地とよばれ、両地区を合わせて港新地という。
 港新地は昭和四八年末に市街化区域に編入されたが、翌年一月に農地が工業専用地域に指定され、既存集落の区域は工業地域となった。そのため農地を一般住宅の建設に使用することができず、港新地の人口は停滞している。
 この港新地の南東端に鉄工団地が形成され、一四社か西条鉄工団地協同組合を結成している。この鉄工団地は、新居浜鉄工業協同組合の泉源作理事長(当時)が中心となって建設したもので、製品の大型化に対応するため、市街地の既存工場の移転を目指したものであった。昭和四四年六月に西条鉄工協同組合を設立し、西条市の支援を得て翌四五年に総面積約一三万九〇〇〇平方mの工場用地を確保した。四六年一二月には一二社の工場が完成して操業を開始し、残り二社も四七年に操業開始に至った。
 鉄工団地への進出企業は、新居浜市から八社、今治市と土居町から各一社で、地元の西条市からは四社が参加している。新居浜市から進出した企業のうち五社は、従業員の通勤を改善するため工場の建設と並行して従業員アパートを建設した。このアパートは渦井川に近い新田字市塚にあり、他の二社及び西条市の一社も後に従業員住宅を建築している。
 この鉄工団地の東隣りには、四国電力西条火力発電所跡地に愛媛臨海重工業団地協同組合が進出し(昭和五八年)、その他の港新地にも鉄工業が立地してきている。
 西条市は三九年に東予新産業都市の指定をうけ、その拠点となる重要港湾東予港の建設、埋め立て地による広大な工業用地の造成を計画した。また、加茂川水系の水資源利用として黒瀬ダムを建設し工業用水の確保をはかった。臨海地域では四二年にプリマハム㈱四国工場の誘致が決定し、四四年に操業開始した。四三年には船屋に住友金属鉱山㈱東予精錬所の誘致、クラレ西条工場のクラベラエ場建設などが決定した。
 さらに五〇年には東部臨海土地造成事業に着手し、五五年に二号造成地が完成した。この二号造成地は西ひうちと名づけられ、五六年に進出した四国電力㈱の太陽光発電実験プラントをはじめ、三菱電機㈱のIC工場や各種中小企業の進出により臨海工業団地が形成された。
 西ひうちにはまた、六一年七月に西条青果の新市場が開設したほか、西条市が計画している総合運動公園の中心施設として西条市総合体育館が六一年三月に落成した。このように西ひうち地区は工業を中核としながらも、多様な土地利用が進められている。

 ドーナツ化現象と東部地域の変容

 昭和四○年と六〇年の地区別人口を比較すると、古い市街地を含む西条地区の人口は大きく減少している(図3―21)。同地区の全人口に占める比率は、四〇年の二〇・七%から六〇年には一ニ・七%になり、逆に神拝地区が一六・七%から二〇・ニ%に増えて人口最大地区となった。南部の山間地域を除く平野部で、人口増加率がマイナスとなったのは西条地区(三二・二%減)と禎端地区(八・三%減)の二地区である。加茂川以西では、神戸地区が一二・四%増で漸増しているほかは、橘・氷見の両地区がそれぞれ三・一%増、一・二%増にすぎない。
 これに対し加茂川以東では、大町地区ニ七・七%増、神拝地区三三・七%増、玉津地区四六・二%増となっており、加茂川以西と好対照をなしている。特に西条市東部の飯岡地区は八三・四%増に達し市内で最も人口増加が著しい。
 飯岡地区の人口増加率がこのように特に大きいのは、昭和五〇年に区画割工事が完成したオレンジハイツをはじめ、大規模住宅団地が相次いで形成されたからである(表3―22)。これらの住宅団地は低い丘陵性山地を開発して造成したもので、新居浜市に隣接しているので西条・新居浜両市から居住者が集まった。
 大町地区の中では特に福武の市街地化か著しい。昭和三九年に国道一一号沿線に松下寿電子工業西条事業部が進出し、従業者数では朔日市のクラレ西条工場と共に市内有数の企業となっている。また、地内の若葉町・錦町・春日町などには新しい住宅地域が形成されている。
 このような周辺地区の住宅地化は神拝地区の古川でも著しく、市営古川住宅平同古川北住宅など市営住宅団地が作られた。地内の砂盛町や富士見町では住宅地化か著しく、また県道壬生川新居浜野田線に沿って、しだいに商店の進出がみられるようになった。
 西条市東部では、県道壬生川新居浜野田線バイパスの延長工事が六一年に完成し、途中で国道一一号バイパスとも連絡している。これらのバイパスが通る船屋・下島山地区は渦井川と新居浜市境に囲まれた地域で、その約六〇%が丘陵性山地である。西条市は六〇年三月に「西条市丘陵地開発計画報告書」を作成してこの地域の開発に着手し、住宅団地や墓地公園などの建設構想が立てられた。住宅団地の建築計画戸数は七〇〇戸で、東部臨海土地造成事業の一号造成地完成後に立地する企業の従業員住宅地としても想定されている。このように船屋・下島山地区は今後の変容が最も大きい地域となっている。

図3-20 地形図にみる西条市街地の発展

図3-20 地形図にみる西条市街地の発展


表3-20 クラレ西条工場の社宅

表3-20 クラレ西条工場の社宅


表3-21 燧灘沿岸の干拓

表3-21 燧灘沿岸の干拓


図3-21 西条市の地区別人口の変化

図3-21 西条市の地区別人口の変化


表3-22 西条市の大規模住宅団地

表3-22 西条市の大規模住宅団地