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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 工業用地と用水

 臨海埋立地造成の経緯

 西条市は市制施行(昭和一六年)前から遠浅の海岸部を埋立造成して工場を誘致し、加茂川に黒瀬ダムを建設して工業用水を確保することが、地域発展の為の百年の大計と考えてきた。大正一四年(一九二五)、西条町発足の初代菅町長は、遠浅で干拓に都合よい海に着目し、その第一歩として船屋海岸の干拓を行った。昭和九年(一九三四)には倉敷絹織㈱の誘致に伴う西条港湾修築工事が始まり、港の西側も日本発送電㈱の発電所用地として造成された。又、氷見地区の海岸も飛行場用地として造成された。他に農地造成も戦後の食糧不足時代に小規模なものは行われたが、埋め立てによる大規模工業用地造成計画は第二次世界大戦で中断し、戦後その実現をめざすことになる。それが具体化するのが、三九年の新産業都市建設促進法による東予新産業都市指定であった。三九年四月に地方港湾であった西条港が重要港湾東予港の一画に指定され、その港湾計画での土地造成が位置づけられ、臨海部の土地造成が具体化へ動きはじめた。しかし四八年一一月に瀬戸内海環境保全臨時措置法が施行され、このために設置された瀬戸内海環境保全審議会が打ち出した瀬戸内海における埋め立てについての基本方針で、「瀬戸内海の埋立ては厳に抑制すべきである」と明記された。しかも、面積五〇haを超える埋め立ては環境庁長官の同意を必要とすることになった。これに対し地元は、漁業補償の解決後、自治体あげての運動の結果、五〇年七月に環境庁長官の同意をえて運輸大臣の埋め立て認可がえられ、西条市の悲願実現へ向けて事業費約四〇〇億円の大工事が始まった。

 臨海用地の現況

 現在までに西条市で造成された主要工業用地は、西条臨海一号地と二号地(西ひうち、図3―10)である。他に鉄工団地などの造成もあるが、規模が小さいので、「新しい工業」の項で併せて述べる。
 同市がこの臨海用地造成に着手したのは五〇年で、燧灘に向かって約一二〇〇m、海岸線に沿って新居浜市境まで約四四〇〇mの広大な海域に一号地(一四七万六〇〇〇平方m)と二号地(一七六万六〇〇〇平方m)を造成した。一号地は六四年に完成予定で住友グループが買いとる契約になっているが、二号地は市が直接売却するもので、五五年に完工した。企業誘致は当初(1)低公害、(2)雇用力のある大型企業、をめざしたが、二度の石油危機を経て大きな変更が進められた。特に市内企業については、市街地の工住混在解消へ中小企業団地も設定し、分譲価格や資金面での優遇措置をとっている。その結果、四国鉄鋼㈱を皮切りに、図3―10のごとく、全体の九〇%、一二〇万平方mの売却を終えた。進出企業は、大手は三菱電機㈱くらいで、他は食品、金属、電機、輸送機械などの各製造業や卸売業など多様で、中小企業も多い。しかも二号地全体の四〇%強を買収した今治造船㈱が造船不況により、当面工場建設の見込みが立たない状況である(写真3―10)。しかし立地決定企業六二社の内、操業開始した企業三七社で、二〇〇〇名以上の雇用拡大が確実に図られており、五八年策定の「西条市都市整備基本構想」にみられる六五年の工業出荷額目標の三五〇〇億円は、表3―13の工業統計のごとくすでに達成されている。
 残された課題は、一号地は住友グループへ売却ずみとはいえ、アルミ不況等構造転換に苦闘する住友の一号地への立地問題と、工業専用地として干拓地(九六万五〇〇〇㎡)の利用問題である。

 水資源の開発とうちぬき

 西日本の最高峰、石鎚山をはじめ瓶ヶ森など四国の屋根に源を発し、支流の谷川や市之谷川を合せて北流して西条市を貫く加茂川は、流域延長約六六㎞、流域面積一九一・五k㎡におよぶ県下有数の二級河川である。この水が伏流して自噴化する水を利用するため、人口約五万七〇〇〇人の都市でありながら、周辺部の山に近い地域に簡易水道があるだけで、市街地を含む大部分に上水道がない。この自噴水を利用する水道の役割をするものが「うちぬき」である(写真3―11)。地中にパイプを突き剌すと水が噴き出す現象を地元で「うちぬき」と呼ぶが、全国の都市で上水道のない都市が西条市と八女市(福岡県)という原因となっている。西条の地層は表土層の下が砂利層、次に粘土層があり、更に砂利層になっている。この二つの砂利層にそれぞれ地下水が含まれている。上の層からは五、六mのパイプで水が噴き出るが、水質の良い下の砂利層から取水するには二〇、三〇mのパイプが必要である。三六年の西条市の調査によると、自噴の地域は図3―11のごとく、標高三・〇m又は三・五m付近から下流地帯で、加茂川右岸側では六〇〇~九〇〇mの幅で東西に細長く、左岸側では二㎞程度の幅で約二〇〇〇本の自噴井が分布している。また、臨海部には潮汐の干満の差による自噴井も多数ある。被圧地下水の先端は、市役所の南側を東西に通じる市道を境として潮汐による自噴帯を含む海岸寄りの非自噴帯と、市街地を含む自噴帯とでは明瞭に相違しており、前者は室川、後者は加茂川を涵養源とする地下水系と考えられている。この水は生活用水や農業用水に主に使われるが、他に自噴量の最も多い上喜多川にある観音水では、江戸時代からにしき絵の用紙もこの水で漉き、捺染工場も操業し本陣川へ排水している。しかし四九年から自噴水の衰えがめだちはじめた。原因は地下水の浸透源である加茂川河床にシルト(粘土質の細かい砂)が堆積し目詰まりして流水が浸透しにくくなったのが大きな原因といわれている。更に生活排水による汚染など資源としての水以外に、環境としての水のあり方にも「水の都」にふさわしくない問題が発生している。このため四九年以後下水道事業に着手、六四年度には市内中心部はすべて公共下水道につながる。更に六〇年に環境庁の「名水百選」に選ばれたのをはじめ、同じ環境庁の「アクアトピア(親水都市)」、「アメニティタウン(快適環境都市)」に指定されたのを機会に、六一年から湧水源の観音水(写真3―12)から陣屋跡堀までの二・四にmを中心に「水の都」の名声回復のための事業に取り組んでいる。

 黒瀬ダムと工業用水道

 黒瀬ダムは最初、昭和一四年に加茂川の河水統制事業として新居郡大保木村大字黒瀬山(現、西条市大字黒瀬)にダムを築造し、耕地六三ha、人家八五戸の水没、農業用水、工業用水の確保と洪水防止、及び発電を行う計画が発表されたが、戦争のため中断された。三二年に調査が再開され、四一年に着工、四七年末に完成、四八年一月から湛水を開始した(図3―12)。
 ダムは直線越流型重力式コンクリートダムで、堤高六一・七m、堤頂の長さ二〇七・七m、総貯水量は三六〇〇万トン、有効貯水量では県下最大の三四〇〇万トンのダムである。総事業費は四六億円余でダム建設に伴い田畑など一八五haの土地と一〇九戸の民家が水没した。ダム建設に関連する愛媛県西条地区工業用水道工事は臨海埋め立て造成の遅れや、工業用水の一部を新居浜へ回すという当初計画が加茂川流域住民の反対で大幅に遅れ、ダムの完成が先行した。しかし、県の新居浜分水計画は白紙に戻されて、西条市とその周辺工業地への供給を目的に、五九年四月から一部給水を開始した。この工業用水道は黒瀬ダムの下流約四㎞の西条市長瀬に取水堰を設げ、浄水施設を通って給水する。現在、取水能力は日量二二九〇〇〇立方mで、主に臨海工業地の三菱電機㈱や四国電力㈱西条火力発電所に供給しているが、これら新しい企業以外に、市内既存企業の地下水依存型の工業用水を工業用水道に転換させる計画であるが、前項の「うちぬき」のごとく豊富な地下水のため転換は進んでいない。西条市工業化の条件は臨海用地の造成、黒瀬ダムの建設、工業用水道の三つの柱がそろったとき、軌道に乗るといえる。






図3-10 西条臨海2号地(西ひうち)企業立地図

図3-10 西条臨海2号地(西ひうち)企業立地図


図3-11 西条市の自噴地域

図3-11 西条市の自噴地域


図3-12 黒瀬ダム流量配分の概要

図3-12 黒瀬ダム流量配分の概要