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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 周桑平野の新田集落

 新田集落の分布

 周桑平野の地形図をながめてみると、新田・新出などの地名が随所に見られる。これらはいずれも近世に開拓された新田集落であり、地名からして、集落の親子関係のわかるものも多数ある。
 周桑平野の地形は、西部の高縄山地の山麓部に、大明神川・新川・関屋川の形成する扇状地がみられ、その東方に扇状地性の氾濫原がみられる。JR予讃本線あたりが扇状地性地形の扇端部にあたり、この付近に地下水の湧水帯がある。ここから東方は、ほとんど傾斜のない三角洲平野に移行するが、その前面には近世の干拓地が帯状に連なる。氾濫原と三角洲上には旧流路跡と考えられる凹地が多数見られ、また旧流路が形成した自然堤防状の微高地も至るところに見られる(図2―23)。
 新田・新出など近世に成立したと考えられる新田集落が多数分布するのは、扇状地上、氾濫原及び三角洲上の旧流路付近、それに旧干拓地の沿岸部である。扇状地上が近世まで開発がもち越されたのは、砂礫質の地形で水に乏しかったことによる。大明神川右岸の扇状地は、かつて千町ヶ原と言われたが、そこには高知の子村新町や、安用の子村安出などが見られ、扇頂の親村から扇央の乏水地域に子村が派生されていることがよくわかる。氾濫原及び三角洲上の旧流路付近に新田集落が多いのは、そこが低湿な地形であり、洪水の被害の多い低湿地であったことによる。このような地点に立地する新田集落には新川ぞいの徳能出作・古田新出・周布新出があり、中山川ぞいには長野の新出、吉田の新出、石田の新出などがある。徳能出作・古田新出・周布新出の親村はそれぞれ、徳能・古田・周布であり、それぞれ親村と同じ大字を構成している。臨海部の干拓地は干潟の地形が干拓されたものである。隧灘沿岸は干潮時に海底の露出する干潟の地形がよく発達し、ここが近世以降、進んだ土木技術によって干拓されていく。干拓地上に立地する新田集落には、北条の子村北条新田、壬生川の大新田などが著名であり、他に石田の子村広江、玉之江の子村今在家なども近世初頭の新田集落である(図2―24)。

 北条新田の開発

 東予市の北条新田は、燧灘の干拓地に立地した新田集落の典型である。北条新田は又四郎新田・北新田・御助新田・塩浜新田の四つの地区からなり、前後四回に分けて干拓されたものと考えられる(図2―25)。大正三年(一九一四)編集の多賀村郷土史には、「北条新田八四回二之ヲ開発セシコト地形上に於テ見ルコトヲ得レトモ、之ヲ証スルニ足ルベキ書類ノ遺リシモノナク、左二古老ノ伝フル所ヲ記シテ後日ノ参考トス」と記し、以下のような記事が記載されている。

又四郎新田 吉井村大字石田ノ人大頭屋又四郎ナルモノ之ヲ築キ、越智伊之助ノ祖某ヲシテ先ツココニ移住セシメ支配ヲ托セリト、今尚世ニ其家ヲ納屋ト呼ベリ、開発ノ年月不詳。
北新田 当村人字北条中村喜右ヱ門ナルモノ又四郎ノ遺志ヲ継ギ、又四郎新田ノ北方二接シテ一新開ヲ築キタルト言フ、此ノ人ノ墓長福寺ニ在リ、碑面ニ元禄一一年寅六月九日死亡トアレバ蓋シ本新田ノ竣エセシ其以前ナルベシ。
御助新田 領内貧民救助受産ノタメ藩主之ヲ築キタリト、其年月不詳。
塩浜新田 コレ亦御助新田開発ノ後二於テ藩主之ヲ築キタルトロ碑二伝フレドモ其年月等不詳。

 近年、北条新田の開発年代を考察した武田三郎は、又四郎新田と北新田は元禄一〇年(一六九七)前後に開発され、お助新田と塩浜新田は元禄一四年春に開発されたと推察している。それは、広江村庄屋『久米政右ヱ門通定一代記』の中に、「元禄一四年春北条沖新田出来ル……同年二月広江村ノ沖御用新田二仰付ケラレ候」の記事から、元禄一四年に開発されたのは小松藩営のお助新田と塩浜新田であり、それ以前に又四郎と北新田が開発されたとしているが、各新田の開発年代を断定する資料とはいえない。
 なお、又四郎新田を開発した大頭屋又四郎、北新田を開発した中村喜右ヱ門は、共に酒造業を営んだ郷士であり、当初の開発が、有力農民の請負った百姓寄合新田の形態をとったという。

 北条新田の入百姓の分布

 北条新田は地名からして隣接の北条の子村であることが推察される。昭和二四年古老から聞き取り調査をした愛媛大生の石丸のレポートによると、北条新田の入百姓の多くは北条から移住して来たものであるという。又四郎新田が開発されて、まず移住して来たのは北条の人越智家の祖であったという。彼は当初は本宅を北条におき、納屋を新田に置いたので、今日も屋号を納屋という(写真2―25)。昭和二四年現在では、その一族は北条新田に一四戸も数えた。次いで有力な岡田家は、河野家の家来岡田彌十郎の子孫が入植したものという。岡田家の当主の話によると、その出身は旧桜樹村の臼坂であるという。昭和二四年現在の一族は一〇戸であった。他に川原・黒河・平木・藤岡などの家があるが、これらは北条の出身ではないかといわれている。讃岐の国伊吹島から移住してきた梶家、土佐より移住してきた山内家など、遠隔の地から入植したものもあるが、入百姓の多くは隣接の北条から移住してきたようである。
 集落のなかに一族が多いのは、入植後分家を重ねていった結果によるものである。本家と分家はいちまきといわれ、氏神を祀り、一年に一回は当夜に集まり、酒宴を開くという(図2―26)。

 北条新田の集落景観

 北条新田は旧防潮堤ぞいに二列の列状集落を形成する。集落が旧堤防ぞいに立地するのは、低湿な干拓地のなかであることによる。北条新田は干拓地の常として、満潮時には海面下にある低湿な土地である。水田は近世中期の干拓以来一毛田であり、裏作の麦の作付けはほとんど不可能であった。昭和一〇年ころに暗渠排水工事がなされるまでは、稲刈りは台刈りといわれ、一二条の稲の両端四条ずつをまず刈り取り、それを中央の四条に立てかけて乾燥させる方法がとられた。稲の脱穀は、水田のなかで比較的乾燥したところに、藁を敷き、その上に薦と筵を敷きつめて、その上でなされた。束ねた稲の運搬には田舟が利用された。田舟には長さ一間程度の一間田舟と、長さ二間程度の二間田舟があった。一間田舟は田植や稲刈りなどの農耕用に使われ、二間田舟はばか貝やのり採取などの漁業用に使われた。集落が堤防ぞいに立地したのは、地形がこのような低湿地であったことに由来する。
 堤防ぞいに立地する北条新田の集落は、堤防上を走る道路の外側に片側路村を形成した。住宅が堤防の外側に並んだのは、堤防の内側には、汐沼といわれる排水路が走り、低湿であったこと、北条新田の南と北を走る一ッ橋川と、前川の堤防がしばしば決潰したが、その洪水のたびに堤防の内側がよく浸水したこと、冬季の石鎚颪の烈風を防ぐのは、風陰にあたる堤防の外側が適していたことによる。住宅の南西側、堤防ぞいに第二次世界大戦前に杉の防風林が仕立てられていたのは、冬季の石鎚颪を防ぐためであった。
 堤防の外側に並ぶ住宅は、その前面に展開する水田よりは一m程度高く盛土されていた。それでも海岸ぞいの防潮堤が決潰すると、床上浸水程度はまぬがれ得なかった。このような時には、庄屋の屋敷や草分け百姓などの特に高く盛土した家がまず避難場所に選ばれた。各家に、田舟・しけ台・ガンカンが備えつけられていたのも、洪水への備えであった。田舟は平常時には農耕用や採貝用などに使用されたが、洪水時には避難用に利用され、非常時に備えて軒下に田舟をつるしている農家もあった。しけ台は床上浸水程度のときに、畳や箪笥などを積み上げる台であり、各農家に備えられていた。ガンカンは縦七五㎝、横六〇㎝程度の長方形のブリキの罐であり、米や衣装などの格納用に使用された。北条新田の干拓地が水害の危険から解放されたのは、第二次世界大戦後であり、昭和二二年その前面に燧灘の国営の干拓工事がなされて以降である。田舟やしけ台、ガンカンなども今は姿を消し、わずかに古老の記憶の中にのみ生きているのみである。




図2-23 周桑平野地形分類図

図2-23 周桑平野地形分類図


図2-25 東予市の北条新田

図2-25 東予市の北条新田


図2-26 東予市北条新田 越智家と岡田家のいちまき

図2-26 東予市北条新田 越智家と岡田家のいちまき