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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

第一節 概説

 この地域は大明神川・中山川の潤す沖積平野からなり、松山の道後平野に対して道前平野といわれてきた。東予のほぼ中心に位置するこの平野には、北から東予市・丹原町・小松町の領域が含まれる。
 三角形状の周桑平野は南を石鎚山前面の山地に限られ、西を高縄山地に限られる。南方の山地は全般的に急峻であって、その中を東西に走る中央構造線以南は特に急峻な壮年期の山地である。地質は中央構造線以南が結晶片岩、以北が和泉砂岩となっている。一方、西方の高縄山地は、石鎚山地前面の山地と比較するとなだらかであり、一OOOm以卜の中・低山性の山地が卓越する。地質は全域花崗岩からなり、その風化土は大明神川・新川・中山川などによって運搬され、周桑平野に堆積している。
 周桑平野はJR予讃本線の沿線、ほぼ標高五m程度までが扇状地性の地形で、その前面が低平な三角州平野となっている。平野の西方の高縄山地前面には、北から大明神川・新川・中山川の支流関屋川などが典型的な扇状地を形成している。扇状地の発達が良好なのは、西方の高縄山地が風化・浸食の著しい花崗岩山地であり、そこから流下する河川の砂礫の供給が多いことに起因する。平野前面の燧灘は、干潮時に海底の露出する干潟の地形が発達している海域としては全国屈指である。これら干潟の地形は、近世初頭以来干拓地の対象地となり、周桑平野の前面の平地はいずれも干拓によって造成された土地である。
 周桑平野の中央部には、碁盤目状に走る道路網が広く見られるが、これは律令時代の耕地整理の跡である条里制の遺構を示す。このことからもわかるように、周桑平野の中心地の開発は古くから行われて来たが、一方では近世の開拓になる新田開発も盛んであった。それは干潟の発達が良好であったのみでなく、乏水性の扇状地や河川の乱流の跡を示す湿地が多く見られたという地形的条件と関連するものである。
 県下でも松山平野に次ぐ広大な面積を誇る周桑平野は、米・麦の生産の多い県下の代表的な穀倉地帯であった。現在も米・麦の生産では、県内で松山平野に次いでその生産量が多い。域内に大消費地を持だないこの平野の農業は、米・麦の穀物生産を主体とし、野菜・花卉・果樹などの商品作物の生産はそれほど盛んではなかった。しかし、昭和四五年から米の生産調整が始まると共に、水田には米の転換作物として、きゅうり・いちご・たまねぎなどの作付けが多くなってくる。特にきゅうりといちごは、周桑農協の指導のもとにその生産量を伸ばし、現在きゅうりといちごでは、県下最大の産地となっている。
 果樹栽培は、平野南部の小扇状地や洪積台地上、関屋川扇状地などで盛んである。これらの地域では、昭和初期からみかんや柿の栽培が盛んとなり、特に昭和三〇年代になって、みかんブームにのって、その栽培面積を急激に伸ばす。しかしながら、石鎚颪や中山颪の吹きすさぶこの地域は、みかん栽培には適さず、昭和五〇年代になって、その栽培面積を減少させている。一方、愛宕柿や富有柿はその風土に適しているので、安定した生産量を誇り、内子・大洲地区と共に県下の二大産地を形成している。
 山間部では西部の高縄山地に集落がみられないのに対して、南部の石鎚山前面の急峻な山地には多数の山地集落が点在していた。それは後者の地質が結晶片岩で、その風化土が地味良好であり、畑作農業や焼畑農業が盛んに行われてきたことによる。焼畑には明治中期以降みつまたが導入され、山中で生産されたこうぞ・みつまたなどは、木炭や用材と共に山間地の住民の重要な現金収入源であった。しかしながら、これらの山間地の集落では、高度経済成長期をむかえると挙家離村が続出し、多数の集落が無人の集落廃村となっていった。
 周桑平野の三市町の産業別就業人口の構成をみると、昭和四〇年には第一次産業四五・五%、第二次産業二三・五%、第三次産業三一・〇%となっており、新居浜市や今治市と比べると格段に第二次・第三次産業の人口比率が低かった。しかるに、昭和五〇年には第一次産業二四・五%、第二次産業三六・五%、第三次産業三八・九%と、第二次・第三次産業就業人口が急激に増加し、就業人口の面から急激な都市化・工業化の様相を見せるに至った。それはこの間に、臨海地区に、昭和四八年に住友重機械東予工場が、同五〇年には住友共同電力壬生川火力発電所と住友東予アルミニウム製錬東予工場が、それぞれ操業を開始し、そこへの通勤者が増加したこと、また隣接の今治市・西条市・新居浜市などの工場や会社に勤める通勤者が増加したことなどによるものである。
 しかし、この地区の工業は昭和五七年ころをピークに停滞あるいは衰退傾向をみせてくるようになる。まず、昭和五七年には住友共同電力が、次いで五九年には住友東予アルミニウム製錬東予工場が、いずれも操業を停止し、住友重機械東予工場も昭和六一年以来合理化をすすめている。わが国の重工業の不況の波が、この地域を直撃しているのである。
 周桑平野には、東予市の壬生川や丹原町・小松町などの小都市が分散立地するが、市街地の人口は昭和六〇年で、壬生川が五四三八人を数えるが、丹原・小松は五〇〇〇人に満たず、いずれもその都市の規模は小さく、その都市機能はそれぞれの行政区域内に及ぶのみである。域内には広域的都市機能をもつ都市はなく、住民は高級商品の買い物や通勤・通学・通院など、今治市・松山市・西条市などに出向くものが多い。豊穣な平野に恵まれながら、周桑平野には地域全体を統轄する都市がみられず、そこに地域構成上の問題点があるといえる。