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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

三 観光客数の変化

 県内客の増加

 愛媛県の観光客は、県内と県外を合わせて昭和三六年に五二四万人、四〇年には一〇〇〇万人を超え、四八年に二〇〇〇万人の大台を超えた。この増加は、経済の高度成長期の所得増加と余暇時間利用の観光志向、加えて交通の改善、モータリゼーションの普及などがあずかっていた。しかし、四八年の第一次石油危機とその後の安定成長により観光客が減少して、ついに一八〇〇万人台となって伸びなやんでいる(図8-2)。観光客の行動も、四〇年代からは団体によるものから少数グループや個人、家族単位による主体的なものへと移ってきた。これによって、今まで秘境とされていた辺地の景勝地や集落を訪ねたり、文学作品やテレビドラマに登場した町が一時的にせよ観光ブームをよび起こしたり、最近では教養コースに関心が集まったりしている。大洲市がNHKテレビのドラマ「おはなはん」(昭和四一年)で、あるいは宇和島市が同じく「花神」(昭和五二年)で全国的に知られ、観光客が多くなったことがある。これに対して松山市道後温泉は、夏目漱石の小説「坊っちゃん」の舞台となったことが、いぜんとして知名であることは、温泉観光地に文化的要素を加えた最も代表的な場所である。
 観光客のうち県内と県外との割合は、ほぼ二対一で、これまでに観光客が最も多かった四八年では、合計二〇五一万のうち県外客も同じく最高記録となり七八四万人(三八%)であった。観光客数の推移では、総数と県外客のそれとはほぼ同じ傾向を示していて、県外客の変化が及ぼす影響は大きい。また、県外客は松山道後地域への客数とほぼ同じで、この地域が本県の観光地としてもいかに重要なところとなっているかがわかる。
 県内客は、しだいに増加している。三六年にはわずか二八六万であったものが四八年には一二二三万に増加し、五五年では一一七七万へと減少したものの、三六年に比べて四倍となっている。これは、県外客が瀬戸内海を渡ったり、あるいは空路を利用するなどして遠いところから来るために、経済の変動の影響を強くうけるのに対して、県内客は移動距離が短く、しかも、各地で観光開発が行われてきたために、観光の主体となってきたことを物語っている。しかし、県内客は、日帰り型が多く、消費額も少ないために、観光産業にとっては県外客の増減が大きく響くことは当然である。五五年度の観光消費額は、六三九億円のうち県内客によるものは僅かに八四億円(一三%)にしかすぎず、県外客への依存が著しく大きい。

 県外客の利用交通機関 

 県外からの入り込み観光客は昭和四〇年代に増加をみた。それは大阪市での万国博覧会(四五年)や山陽新幹線の岡山駅までの開通(四七年)など西日本の本州側での大規模な催しものや、新しい大量高速輸送機関の登場などによる波及効果であったが、その伸びは予想外に低かった。これは、愛媛県をふくむ四国が瀬戸内海を隔ててなお日本の大きな離島の一つであって、交通時間の短縮が本州や九州に比べてなお遅れていることによる。
 しかし、県外客にとっては、とくに本州や九州との間でフェリーボートの発達によるバス航走台数の増加と定時輸送の実現、水中翼船や高速艇による時間短縮、さらには松山空港の中四国地方最初のジェット機就航など、交通機関利用の多様化と大量高速輸送化が著しい便利さを与えることとなった。最近の県外客の交通機関別利用をみると、海上航路全体が五三%であることは当然のこととして、鉄道が二五%、貸切りバス八%となっているが、航空機が一二%(七九万人)を占めてしだいに増加していることが注目される(五五年)。なお、海上航路のなかで旅客フェリーボート利用が全体の三八%を占めているのは、自家用車の利用が増加していることを示す。
 県外客は、同じく五五年の例では、四国三県と京阪神がともに二五%ずつで、中国地方二一%、九州一五%などがこれについでいる。四国三県からの観光客には八十八ケ所巡礼客が多いといわれるが、観光客が全体として伸びなやみの傾向があるなかで、距離的に近く滞留型である四国の他県からの入り込み客を増加さす必要に迫られている。
 航空機利用の県外客は、ジェット機就航によって遠距離にまで愛媛県の観光圏(ヒンターランド)を拡大させた。五五年の航空機利用県外客七九万人のうち、大阪空港との間が四一%で最も多く、ついで東京(羽田)空港が三六%に達している。このほか福岡空港九%、名古屋空港七%などで、宮崎・鹿児島の両空港との間は合わせて五%ほどである。

 地域別観光客

 愛媛県内は、市町村を単位として六つの観光地域に分けられ、観光客数や観光施設利用者数などが毎年公表されている(図8-3)。昭和三六年以降の地域別観光客数の推移をみると、松山・道後地域が県内最大の観光客吸引地域となっていて、四八年までは順調な増加をつづけ、これが県全体の観光客増加に大きく寄与してきた。今日なお松山・道後地域は全体の三分の一ほどを占めていて、その入り込み客の変化が全体に及ぼす影響は大きい。これに対して、南予・宇和海地域をはじめ石鎚・面河地域、肱川流域などは新興の観光地域として増加をみせ、東予地方の東部や今治地域は停滞したところである(前掲図8-2)。
 松山・道後地域は、これまでにもふれたように温泉や史跡をもった都市型の観光地であって、観光客の季節変動も比較的少ない周年型である。それは、月別にみて四月の二九万人を最低に一一月の四三万人の間にあって、しいていえば初夏から秋にかけて観光客が多い(五〇年国鉄調査)。これに対して、新興の南予・宇和海地域は、鹿島をはじめ海岸景観がすばらしいことから観光客は夏季に集中する。同じ自然的資源でも対照的な石鎚・面河地域では、初夏と秋の二つの季節が多い。
 観光地域の県外・県内客の割合をみると、松山・道後地域では県外客が四六%も占めていて、他地域に比べ圧倒的に多い。同じく県外客が多いのは石鎚・面河地域と東予・今治地域でともに三分の一を占め、南予・宇和海地域が約四分の一、東予・東部と肱川流域では県内客が圧倒的に多い。石鎚・面河地域で県外客が多いのは、石鎚山の山開きと山岳信仰のほかに国道三三号線と石鎚スカイラインを利用して、松山・道後地域との連けいした観光地域となっていることによる。

図8-2 愛媛県の観光地域別観光客数(昭和36―55年)

図8-2 愛媛県の観光地域別観光客数(昭和36―55年)


図8-3 愛媛県における地域別観光客数と観光施設利用者数(昭和55年)

図8-3 愛媛県における地域別観光客数と観光施設利用者数(昭和55年)