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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 東予地域の都市

 都市の共通性

 燧灘沿岸に立地した新居浜・今治・西条・伊予三島・川之江・東予の諸都市には、その立地や発展、機能などのなかに幾つかの共通性がある。
 その第一は、東予地域が古代から国府や太政官道があったことから、歴史的に県内では発展が早かったところで、各都市の中心集落(発生の核)は、燧灘の海岸よりに、しかも、これらを結ぶ道路に間隔を置いて立地し発展したことである。現在では、ほとんど市街地が連なっている伊予三島と川之江の両市の間も、明治期には集落の外縁とのへだたりは三㎞を越えていた。都市に共通することは、道路交通が優先して、現国道一一号や一九六号が市街地を通って、あとから開通した国鉄予讃線は、いずれも市街地の南側を通り、国鉄駅前が新しく発展したところとなっている(写真7―9)。
 第二は河川との関係である。新居浜市は国領川、今治市は蒼社川、西条市は加茂川など、東予地域の大きな川の沿岸に発達した諸都市は、いずれもその河口部をさけていることは、これらの川が水無し川で、また荒れ川でもあったことによる。なかでも西条市は、加茂川の下流にあり、地下水が豊かで自噴する井戸(泉)の多いところであるが、工業開発には黒瀬ダムまで建設して用水の確保にあたったほどで、他の諸都市はいずれも上流域にダムを建設している。とくに伊予三島市や川之江市では、用水を多く必要とするパルプ・紙工業の立地にとって、銅山川からの給水が死活にかかわるほど重要であった。
 第三は、都市機能が工業都市へと偏っていることで、新居浜市の重化学工業、今治市の繊維と造船、伊予三島と川之江市のパルプ・紙工業、そして西条市や東予市までも機械工業を主とした工業化への歩みをつづけている。
 工業化は、地場産業の発展した業種や、新居浜市、西条市、東予市などの移植された重化学工業の立地など、その発達は異なっているけれども、都市化が工業化によって進んだことは共通している。従って、今治市を除くと商業や文化など都市機能のある局面が充分ではなく、偏っている。この意味では、距離的に近い都市が、互いに機能を補完しあって連合して発展する余地を残している。
 とくに小売商業機能では、都市の商圏がせまく、互いに競合しているものがある。これは、東予地域が近世において、松山・今治・西条・小松の諸藩に加えて、新居浜や川之江が幕府領であったという分割統治の遺制が影響しているという見かたもある。壬生川や丹原などが在町として建設された歴史の名残りはなお強い。
     
 今治市
    
 今治市は、人口の順位では新居浜市につぐが、都市性や都市の魅力という機能では県内二位、東予地域で一位にある。この都市の発展は、市制施行(大正九年)に先だっての理由書に「四国四県中町制施行地トシテ、人ロニ於テモ町予算二於テ将タ商工業二於テ、貨物旅客ノ出入数量二於テ第一位ヲ占メ、瀬戸内海ノ要港トシテ、工業地トシテ、四国ノ大阪トノ世評ヲ受ケツツアル事久シ」とあるように、港による海陸交通の結節地の機能に商工業が加わったところで、この都市機能は現在に至るまで変わっていない。また、明治初期には今治県と石鉄県の県庁所在地となったことは、その後、愛媛県の地方局が置かれ、地方行政機能を維持するもとになった。
 今治市は藤堂氏、ついで松山藩主久松氏の分家のもとでの城下町に起源をもつが、海岸低地の城郭と海水を導いた濠は、高松市の玉藻城とよく似ている。濠と海とを結んだ入江は、今治港の改修によって内港となっている。城下町の町筋は、戦災をうけたにもかかわらず市街地の中央部に残っているが、中心商店街が港に通じ、市役所が国道一九六号線沿いにあり、しかも共栄通りによって港と結ばれていることなどは、市の発展にとって港がいかに重要であるかを示している(図7―23)。これに対して、国鉄駅前は場末的で、とくに市街地の内陸部への拡大にともない鉄道の高架化が計画されるに至ったのは当然のことといえる。港を中心に半円状に広がった市街は、国道沿いに蒼社川を越えて東へ、また南へは玉川村に至る平野部へと延びている。肥沃な内陸の農村地帯は地価が高く、新しい住宅団地が東部の桜井や唐子台に飛地のように建設され、人口の郊外化を促している。
 都市性が県内第二の水準にあるものの、人口は一二万台にあって増加が鈍い。これは、工業化において中小企業を主としたタオル・縫製・造船などが多く、雇用拡大に限度があったこと、農村地帯は労働集約的な工業を支えた労働市場であり、沿岸部には来島海峡による海流の流れが速くて陸地を造成する適地に恵まれず、大規模な工業を誘致するには限界があることなどによる。タオル製造業のなかには、延喜や託間、さらに三芳など郊外へ移動したものが多く、市街地周辺は地価が高いことによる。
 商業都市としての今治は、東予地域では最も広い商圏をもち、松山市と対抗するほどであるが、大型量販店の立地は、全国的にも有名なほどの過当競争をみせている。市役所周辺は、この大型店の立地で景観を大きく変えているが、都心部特有の中央業務地区の形成をみるまでには至ってない。今治城も復元され、文化施設として整備されているが、これは都市として象徴的建造物(モニュメント)をもちたいという最近の地方都市の動きの一つでもある。また、本州四国連絡橋の今治・尾道ルートの架橋地点であることから、都市機能や環境の整備に迫られている。

 新居浜市

 新居浜市は、県内の都市のなかでは、城下町起源によらず重化学工業化によって、人口一三万を超すほどに成長したところで、大規模な工場の集積が人口増加をもたらした例の一つである(図7―24)。
 一七世紀の中ごろは、燧灘に面した漁村であったが、別子銅山の開発と銅の積み出し港、ついで精練所の立地にはじまる住友系企業の進出が新居浜市の発展の基礎となった。市内には、従業者五〇人以上の企業一一一社のうち六〇%、従業者二万人強が住友関係で占められ、それは第二次・三次産業就業者の五分の二にも相当する(昭和五〇年)。工業に限ってみても、下請企業は多く、住友重機系列の新居浜鉄工協同組合加入が三七社、住友化学系列の日新機工組合加入が三一社、二次下請企業が集まった新居浜工業組合のそれが二八社を数え、文字通りの「企業城下町」をつくっている。これら企業の立地は、地方税に占める固定資産税の割合を高め、新居浜市の地方税収入の約二分の一、歳入額の二五%ほどに達している。このように、住友系企業の景況の変動は市民生活に大きな影響を与えている。
 同市を都市性や都市機能からみると、典型的な工業都市で、山陽地方の呉市や加古川市などと似ている。従って、都市としての中心地をつくりあげる機能には乏しく、ただ小売商業や通勤通学の圏域が西条市や土居町に及んでいるにすぎない。とくに、最近のアルミ生産や化学工業などの不況で、消費の不振をみていることから中心商店街の登道や昭和通りでは商店の休閉業が目立っているばかりか、地価の下落さえみている。
 新居浜市は、昭和一二年に新居浜町を中心に金子村と高津村を合併して成立したのが最初で、金子村には惣開の精錬所や星越の選鉱場、社員住宅などがあって工業地区が先行したところであった。その後、沿岸部の漁村が多い垣生・大島・多喜浜や神郷を合併、さらに内陸の農村地帯の中萩・泉川・船木・大生院、三四年には別子銅山の稼行で発展した角野町を合併した。このように、新居浜市は、合併町村が多く、それぞれの旧村地区には喜光寺・角野など中心的な集落があり商業集積をもみてきたことから、旧市街の中心地機能が成長しなかった。旧市街地区は全市の小売販売額の三分の二を占め、人口が約三分の一であることと比べると小売業の中心性は高いが、社員住宅の人口減少と郊外の人口増加、スーパーマーケットの立地の増加などによって、その多中心性は強まっている。
 重化学工業化は、主として公有水面の埋め立て地への工場立地で進んだ。それは、大正二年(一九一三)の住友化学新居浜製造所用地の四・一haから始まって昭和五一年までに合計三七八haに達し、さらに一四六haの造成中の土地がある。新居浜市では旧多喜浜塩田跡地を主に工業団地(八〇ha)と東部臨海工業地(三〇〇ha)の造成を行って、市内の中小工場の集団化、公共埠頭による交通整備をはかっているが、その実績は期待したようには進んでいない。海岸部の土地造成によって、残された海岸は垣生地区など狭い範囲に減少し、また地下水の汲みあげで塩水の増加、地盤沈下の傾向もみられる。さらに、大気汚染による公害も発生し、かつての四阪島の煙害問題の再発かとまでみられたが、防止対策が進んでいる。
 新居浜市は、道路網が複雑で、国道一一号線と市街地を結ぶ県道や国鉄駅前道路などは最近完成をみたほどである。これは、旧村地区を合併したものの道路計画や土地利用計画の遅れがあったことによる。東部地区の開発はこれからの効果を期待される状況にある。働く場としての新居浜市が、都市機能の偏りをどのように修正し、環境をより整備するかは、なお相当の時日を必要とする。

 西条市

 東予地域の都市のなかで、西条市は公務の就業者が多く特化係数が最高である。これは、同市に東予東部地域を管轄する県の西条地方局や教育事務所、保健所などのほかに裁判所・法務局・検察庁・刑務支庁などが設置されていることによる。このような行政管理機能が集まったことは、旧西条町が徳川家の連枝である松平氏三万石の西条藩の陣屋があったことに由来する。その中心商店街を「あおいロード」と名づけたのは、町の歴史と気ぐらいの高さを示すものであろう。
 西条とは、奈良時代の条里制によったもので、中世に西条荘となってから引きつがれたものである。市制は、昭和一六年に西条町のほか氷見町・橘・神戸・飯岡の諸村を合併して成立、のも現在に至るまで大保木・加茂の二村を編入した。中心市街地は、加茂川の右岸にあって陣屋と濠をかこんでつくられた旧城下町を核に広がっている(図7―25)。城下町は加茂川からの水を引いた本陣川に沿う明屋敷をはじめ、町屋を周囲に建設し、東北の隅には鬼門を鎮めるために風伯神社や万福寺を置いた。陣屋の跡は県立西条高校となり、大手門は残っている。また明屋敷には官公庁が集まって業務地区となっている。
 西条市は、水道普及率が三四%で、県内では新宮、別子山、美川などの山村についで低く、県平均の八九%にはるかに及ばない(五五年度)。これは、加茂川の扇状地による伏流水が豊富で、井戸水の利用が多く、自噴井まであることによる。しかも、この水は、最近、臨海部の造成地に三菱電機の大規模な集積回路製造工場の進出が決まったように、質がよいことで知られている。
 市街地のほかの集落は、広い西条平野に立地した農業集落が多く、とくに氷見や禎瑞は水田地帯で、新田として近世に大規模な干拓をみたところである。市街地の西の神拝や東の飯岡には、製紙や捺染をはじめ工場の立地が進み、都市化地域となっている。加茂川の河口は広い干潟となるが、この沿岸を造成して広大な臨海工業地区が出現した。一部には電力・化学繊維・鉄工業・セメントなどの工場が立地し、港湾の整備が進んでいる。さらには、さきにふれたように三菱IC工場の進出が五六年に決定し、操業開始をまつばかりである。
 国道一一号線とそのバイパス、国鉄予讃線が市域を東西に走っているが、四国山地を横断する国道一九四号線も分岐し、これは改築に着工している。さらに、四国縦貫自動車道の建設が近く、新しい陸上交通の要地になりつつある。農村地域の中心都市である西条市が、工業化と交通変革の新しい段階に入って、その都市機能の整備のありかたが注目される。

 伊予三島市と川之江市

 県内の東端地域にある伊予三島と川之江の両市は、中央構造線に沿う山地が燧灘にせまって、山麓に発達した扇状地が数多く重なりあってヽ東西に細長く僅かな低地をつくっているところに接して発達した都市である。地形的に背後地が極めてせまく、パルプ・紙工業の立地は、この自然的環境に適応した産業で、水と技術を生かした発展をとげたところだといえる(図7―26)。
 川之江市は、金生川の河口部右岸に市街地が発達し、近世は、幕府直轄の領地(天領)となり、別子銅山をも監視した代官所があり、上分は高知と徳島とを結ぶ交通の要地として宿場町となっていた。伊予三島市は、かつて、松山藩をはじめ西条、今治の諸藩、さらに川之江の代官所の支配など領有の変転が目まぐるしいところであったが、これは、伊予の国に大きな藩がなく八藩による分割統治下にあり、その東部の小地域があたかも辺境のように取扱われたことを示す。三島は、大三島の大山祇神社を勧請したことに由来し、寒村にすぎなかったところが農漁業で発展した。山麓に溜め池が多くつくられているのは農業にとって必要な施設である。
 製紙業の発達は、金生川の水、四国山地の林産物である三椏や楮の供給、それに技術革新への努力と住民の勤勉さなどが加わったもので、手すき和紙から機械すき和紙、これらの加工、さらにパルプ生産や洋紙生産へと発展したのは、県内の地場産業地帯としてすぐれたところである。伊予三島市には、王子製紙をしのぐという意欲で社名となった大王製紙、川之江市には丸住製紙がそれぞれ大企業として立地し、紙の町として全国的に知られるほどになった。
 両市の市街地は、国道一一号線が通っているが、最近はバイパスが一部開通し、川之江市では国道三二号線に通じる一九二号線が分岐する。さらに両市の港湾整備が進み、大型貨物船や川之江港には東神戸との間にフェリーボートが就航し、海陸交通の要地として復活した。また四国縦貫自動車道が着工をみ、その横断道と交差するところとなっていることから、四国の中央都市としての発展への期待がある。しかし、この両市は、人口規模も同じく、製紙工業都市としての機能も同じで、姉妹都市というよりも競争都市、連担都市となっている。伊予三島市は寒川に臨海工業団地を造成したが、工場立地はまだ進んでいない。両市が互いに都市機能を補完するまでには発展していないことから、新たな交通要地としての整備が、連担関係にどのような機能を加えるのかが課題となっている。
   
 東予市

 県内で最も新しい市として登場した東予市は新居浜や西条の両市よりもいっそう田園工業都市の性格が強い。都市機能でもフジボウ壬生川工場についで住友重機や住友東予アルミなどの工場の立地によって、工業化が始まった状態にある。東予市よりもその中心集落である壬生川町がまだ知名度が高く、これに三芳町が加わって市となった(図7―27)。壬生川は松山藩が周桑平野の中心的な集落として建設したところで、その港も藩米の積み出し港となっていた。市街の吉岡新町は在町で、このほか一部は西条藩や小松藩の領地で、豊かな穀倉地帯が分割をみたところでもあった。とくに沿岸は中山川をはじめ土砂の堆積で広い干潟があるため、近世から各藩が新田を開発し、大新田や北条新田、壬新田などが大きなものとしてある。
 東予新産業都市地域のなかでは、燧灘が深く入りこんだ西岸にあって、中山川河口の広大な造成地には工場の進出が遅れた。住友系工場の立地でようやく新産都市の一つとなり、東予港の建設で大阪とのフェリーボートが発着するようになった。また、国鉄壬生川駅前の区画整理で新市街が登場しつつある。しかし、商業活動では今治市の商圏が拡大し、通勤通学でも今治市への流出が多く、西条・新居浜都市圏との競合地域になっている。

図7-23 今治市街とその周辺

図7-23 今治市街とその周辺


図7-24 新居浜市の市街地

図7-24 新居浜市の市街地


図7-25 西条市の市街地とその周辺

図7-25 西条市の市街地とその周辺


図7-26 伊予三島市と川之江市の市街地

図7-26 伊予三島市と川之江市の市街地


図7-27 東予市壬生川の市街地周辺

図7-27 東予市壬生川の市街地周辺