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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 断層海岸の漁村

 漁村の特色

 伊予市から佐田岬半島にかけては、急峻な山地が直線状に海に接する断層海岸である。その前面の伊予灘は、小型機船底曳網漁業、ローラ五智網漁業などが盛んであるが、昭和三〇年代まではいわし網漁業も盛んであった。この地域の漁業活動の最大の難点は、直線状の断層海岸が漁港の発達を阻害したことである。宇和海沿岸のような天然の良港には恵まれず、また燧灘沿岸のように砂浜に掘込式の港を構築することも困難であった。したがって、沿岸の集落も海に背を向けた農業集落が多く、宇和海のように漁村が連続する景観は見られない。代表的な漁業集落には、双海町の小網・豊田、長浜町の沖浦・出海、三崎町の二名津・松・与侈・串などがある。これらの集落で漁業を営むものは、程度の差はあれ農業を兼業とするものが多く、半農半漁村が多い。漁業や漁村の特色から伊予灘断層海岸は燧灘沿岸と宇和海沿岸の両地域の特色がまじり合った漸移地帯とみることができる。

 双海町小網

 双海町の小網は伊予灘断層海岸に立地する典型的な漁村である。この集落は慶長年間(一五九六~一六一四)に隣接の町浦(上灘)の漁民が仮小屋を作って季節的漁業を経営したのに始まり、のち享保年間(一七一六~三五)までに長州(山口県)の揚ケ浜・大島郡、伊予郡松前、温泉郡の中島・怒和島などから漁民が移住し、これら内外の漁民が混合して漁村が形成された。
 漁業は藩政時代以降いわし網が中心である。いわし網の形態は、明治三五年(一九〇二)までは地曳網、それ以降は巾着網である。地曳網には、谷網・うね網・新網の三つがあり、それぞれ一株ずつ所有する一五戸の漁家によって共同経営されていた。網代は高岸から小網にかけての四㎞の間に亀の森・町浦・大堀・小網の四か所があって、くじ引きで操業場所を決めていた。網代の背後の山には、それぞれ山見(魚見やぐら)があり、ここからいわしの回遊して来たことをむしろ旗を振って集落の漁民に知らせた。背後に急峻な山地のそびえる断層海岸は魚見やぐらの設置にはきわめて好適であった。巾着網は明治三五年(一九〇二)と翌年にそれぞれ一統が導入され、旧網・新網と名づけられた。当初はそれぞれ五一株で別個に経営されていたが、昭和一八年から両者は統合されて、一〇二株の共同網協栄網として現在に引きつがれている。いわし網以外には、小型底曳網、さわら流し網、磯建網などがあって漁業の主体は現在もいわし網である。
 海岸からすぐその背後に急峻な山地がそびえる小網は、集落の立地する適地に乏しい。集落は海岸ぞいの狭い砂浜上と、その背後の海岸段丘上にひな壇のように並ぶ。海に面した北向斜面に家屋が密集するこの集落は、港がなかったこと、用地が狭く煮干の干し場が得られなかったこと、飲料水の取得に不便を感じたこと、冬の季節風を防ぐすべがなかったことなどが立地のうえできびしい条件であった(写真7―8)。
 港のないこの集落では、集落の東西両端の砂浜上が「船つけ」で、ここにすべての船を陸揚げした。台風時には一〇㎞も離れた郡中港まで船を避難したこともあった。昭和二八年に隣接の上灘に港が建設されてからは、そこが漁船の繋留地となり、船の陸揚げの苦痛は解消した。水産加工品の煮干は、昭和四〇年に加工場が建設されるまでは各漁家で製造していたが、その干し場の用地の確保に住民は苦労した。各漁家は屋根や道路、畑の上などに「ひやま」という棚をつくり、そこを煮干の干し場としていたが、それは用地不足への対応であった。
 この集落では、飲料水や煮干し加工用の用水の取得にも住民は不便を感じた。井戸水が得られるのは、海岸ぞいの家だけで、海岸段丘上の家は背後の山地を流れ下る小網川の谷水を利用した。大正初期に竹樋で集落内の二か所の水槽に水が引かれるまでは、各自が谷川まで水を汲みに行かなければならなかった。冬の北西の季節風にともなう風波も、また住民を悩ませるのであった。防風林や防風石垣など、防風施設が何一つ見られないこの集落では、住民はただ冬の烈風に耐えるのみであった。窓の小さい家屋、焼き杉の壁板で壁面をくまなく被っていたこと、屋根瓦を一枚ずつ銅線で固定していたことなどは、いずれも冬の烈風から家屋を守る対応策であった。
 戸数一五〇戸の小網はその三分の二が漁家であるものの大小の差はあっても背後の山地に農地を所有している。昭和三〇年代までは、自給作物として甘藷・麦・野菜を栽培し、また耕地の背後の山林は住民の薪炭採取林として重要であった。いわしの漁期は五月から一一月の間で、漁閑期にあたる冬期は、煮干し製造のための薪炭採取が住民の最も重要な仕事であった。