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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

5 干拓地の集落

 集落立地の特色

 西条・周桑平野の燧灘沿岸は干潟の発達が良好で、江戸時代以降干拓が盛んに行われて来た。干潟とは、三角州前面の浅海底の地形をいい、干潮時には海底の露出する部分である。干拓地とは、このような海底に堤防を築き、人工的に造成した土地をいう。燧灘沿岸の干拓地で最も有名なものは江戸時代の中期に完成した禎瑞であるが、このほか西条市には、元和年間(一六一五~二四)に開発されたと伝えられる西泉新開、万治三年(一六六〇)以前に開発されていた市塚・北・摺鉢・中・古川の五つの新田、藩の援助によって寛政年間(一七八九~一八〇〇)に完成したという新兵衛・蛭子・大黒・二人・十人・三十人新田などがある。また東予市には、万治二年(一六五九)完成の壬生川の大新田、寛文五年(一六六五)完成の広江の江口新田、享保一二年(一七二七)完成の北条新田などがある。干拓地は土地全体が低湿地であるので、集落は干拓に際して築造された堤防ぞいに立地するものが多い。燧灘沿岸の新田集落のなかにも、堤防ぞいに細長く列状に並んだものを多くみることができる。
       
 西条市禎瑞

 西条市の禎瑞は県内で最も有名な干拓地である。西は中山川、東は加茂川にはさまれた三〇〇haにわたるこの干拓地は、安永七年(一七七八)に起工、五年の歳月と延べ五〇数万人に達する労働力と二万両の経費をかけて完成した。入植者は伊予の国内のみならず、讃岐・阿波・備後・備中などから集まっている。明治維新には、藩主松平家の私費による干拓と認められ、全域が松平家の私有地となった。この私有地が小作人の希望によって、三八万五〇〇〇円で小作人に払い下げられたのは昭和三年であった。
 禎瑞は、八幡・高丸・難波・禎瑞上・禎瑞中・禎瑞下の六集落からなる。うち前三者は中山川の堤防ぞいに立地し西禎瑞といわれ、後三者は加茂川の堤防ぞいに立地して東禎瑞とよばれる。集落が堤防ぞいに立地するのは、堤防ぞいに微高地があること、そこは水害に際して最も安全な避難場所であったことによる。周囲を海と川に囲まれ、しかも満潮時には海面以下になる干拓地では、水害は最も恐るべき災害である。明治以降の禎瑞の水害で最大のものは明治二六年(一八九三)の海岸ぞいの堤防の決潰による海水の浸入であった。耕地は水没し、住宅は軒を没し、住民は堤防の応急修理ができるまでの九〇日間を堤防上で過ごしたという。また大正年間には加茂川の堤防が決潰し、床上一m程度まで浸水した家が多かった。このほか新兵衛新田との間を流れる猪狩川もよく堤防が決潰し、床下浸水程度は枚挙にいとまがないほどである。
 高丸と八幡の集落についてみると、家屋は水害に備えて四〇㎝から五〇㎝程度の盛土の上に建っている。しかし、この程度の盛土では堤防が決潰するたびに床下浸水の被害はまぬがれなかった。したがって各農家とも「しけ台」という高台を用意しており、浸水に際しては床上に「しけ台」をひろげ、その上に畳から家財道具まで積み上げて、浸水をさけたという。そのほか避難施設としては「箱舟」があった。「箱舟」は長さ二mから三mの箱型の船で、平常時は貝の採取や水田からの収穫物の運搬などに使用したが、非常時には避難用にも利用した。
 低湿地の禎瑞は洪水に悩まされたが、一方では、灌漑水と飲料水の取得にも苦労した。禎瑞の灌漑水源は元来加茂川に近い安知生付近の二つの湧泉に依存していたが、昭和九年に西条市に進出してきた倉敷レイヨンが地下水を揚水しだして以降は加茂川の水に依存している。灌漑水は豊富ではあるが、灌漑水路と水田とでは前者の水面が三〇㎝程低く、水路から水田への揚水は踏み車に頼らざるを得なかった。昭和二一年の南海地震による地盤沈下の対応策として、昭和二九年から三〇年にわたって客土工事が行われたが、この際に灌漑水路が水田面と同じ高さになるまで、踏み車の揚水風景が残っていた。
 飲料水は「打抜」といわれる被圧地下水の自然湧水と、水路の流水を利用した。八幡や高丸の集落の例では、八幡には「打抜」はなく、もっぱら流水に頼った。高丸では「打抜」のある家と、流水に頼っていた家があったが、その打抜は鉄分を含んだ赤茶けた水で、こし瓶で濾過して使用しても炊いた米は黒くなったという。したがって、この集落でも灌漑水路の流水が最も重要な飲料水源であった。高丸・八幡の両集落の家屋は灌漑水路に沿って並んでいるが、それは流水飲用の便を考えてのものと思われる(写真7―3)。水路に沿っては、水汲み場である「くみじょ」があり、流水が澄んでいる早朝に飲み水を汲むのは婦女子の重要な日課であった。飲料水を兼ねた灌漑水路は厳重に管理され、その水路で洗ってもよいものは、野菜・食器・洗濯物のすすぎなどであり、汚水は堤防ぞいの排水路に流すことが義務づけられていた。昭和二七年に簡易水道が普及してからは「くみじょ」の利用は低下したが、「分家は水上に出すな」といわれるほど灌漑水路は重視された。
 昭和三五年ころまでの禎瑞の住民を悩ませたのは薪の採取であった。干拓地である禎瑞には薪炭備林はなく、五㎞から八㎞も離れた現在の黒瀬ダムの付近の山まで枯れ枝を採取しに行った。平野に臨む前山は付近の住民の薪炭採取の権限が強かったので、このような奥山まで薪炭採取に行かざるを得なかったのである。禎瑞の住民に天恵の薪を与えてくれたのは加茂川と中山川の洪水であった。洪水の去った後の両河川の河口には、上流から流れて来た木切れが山のようになって住民はわれさきにそれを拾って薪として利用した。薪炭に不足したこの地では、すくも(もみがら)や麦わらなども重要な燃料であった。すくもを燃料とする「すくもくど」などがあったのは、薪炭不足に悩むこの地方を特色づけるものであった。