データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 氾濫原・三角州の集落

 集落立地の特色

 河川の氾濫によって土砂が堆積して形成された平野が氾濫原であり、わが国の谷底平野にはこのような性格の平野がきわめて多い。また、かなり広大な沖積平野でも、三角州の部分などでは、しばしば河川の氾濫をうける。このような観点から、三角州平野なども広義には氾濫原に含めることができる。氾濫原における集落の立地では、洪水の防止が可能かどうかということによって決定される場合が多い。一般的には、山麓の高燥地、河川ぞいの微高地である自然堤防、あるいは河岸段丘などに集落が立地し、水利の便利な平野を水田耕作する村が多いといえる。
         

 大洲盆地の集落
         
 肱川流域の大洲盆地は昔から水害の常習地として有名であった。大洲盆地は海面下三〇m以深の陥没帯に肱川の堆積作用で形成された沖積平野で、海抜高度は一〇m程度にすぎない。肱川は流域面積が広く、しかもその大部分が降水量が多い地域からなっている。豪雨のときには本支流の水が一気に大洲盆地に集まるが、その下流の伊予灘に出るところは狭い谷で水はけがきわめて悪い。満潮時には盆地の出口付近まで海水が遡ってくるので、そのような時にはなおさら排水不良となる。このような洪水をひき起こしやすい地形・気候条件をもっている大洲盆地では、年間二回から三回は冠水するのが常であった。また五年から一〇年に一度は盆地全体が湖水と化すような大洪水をこうむることもあった。近年の大洪水としては昭和一八年と二〇年が有名で、ともに増水位は八m余にも及んだ。昭和三四年に完成した鹿ノ川ダムは、大洲盆地の洪水防止を最大の目的に建設された。ダム完成後は大洪水は見られなくなったが、低地の水田が浸水するような洪水は現在でもしばしば見られる。  
 地形図から大洲盆地の集落立地をみると、盆地底には集落はほとんどみられず、山麓の台地に集中している。盆地底にある集落は大洲市街と若宮のみであるが、大洲市街のうち旧城下町の部分にあたる肱南地区は高い石垣の堤防に守られ、肱北地区の常磐町から若宮にかけては自然堤防の微高地上に立地する。
 大洲盆地の田口から市木にかけての集落はすべて山麓の台地上に立地し、大洲盆地の集落立地の典型を示す。低い土地に立地する家屋は平野より二m程度の高さであるが、高いところに立地する家屋は平野より二〇mから三〇mも高い。前者は大洪水には床下浸水をまぬがれない位置にあるが、井戸水を得たり、前面の水田耕作には便利である。それに対して後者は、どのような大洪水からも安全ではあるが、井戸水が得られず、谷底の共同井戸まで飲料水を汲みに下りなければならない不便がある。また前面の水田耕作で得た穀物を収納するには、道路の発達していない時代にはすべて人力でかつぎ上げねばならず、その苦労は並大抵ではなかった。鹿ノ川ダムの完成後は、家屋が低い台地に下りている例が多くなっている。
 若宮は大洲盆地のなかでただひとつの盆地底に立地する農業集落である。その立地点は自然堤防上にあるが、少しの洪水でも床下浸水はもちろんのこと床上浸水もまぬがれ得なかったほどである。家屋のすべてが二階建であるのは水害への対応であるが、その特色は、床が高いこと、浸水をよくうける部分の壁は板ばりであること、一階は板間である家が多かったことなどである。また、納屋や倉の天井には切抜があって、洪水時には荷物を天井裏に上げることができるようになっていた。
 住民は豪雨に際しては、水位の高まる井戸水によって洪水を予知することができた。肱川が増水すると、井戸の水位はどんどん上がり、やがて地下水が地表に噴き上げてくる。これは洪水の前兆でもあるので、住民は家財道具一切をはじめ穀物などを二階に上げて水害に備えた。二階では座という高台をつくり、この上にたんすなどを乗せる場合も多かったという。
 洪水に際して逃げ道のない若宮では、上組・中組・下組ごとに、二ヶ所ずつ水防場があり、また非常時に備えて避難用の舟があった。水防場は普通の住宅にくらべて一・五m程度高く盛土した上にある家で、その中には、神社・寺院・庄屋の屋敷などが含まれていた(写真7―1)。昭和一八年と二〇年の大洪水の時は普通の家は二階まで浸水したので、多くの住民が水防場で難をのがれた。水防用の舟も、上組・中組・下組にそれぞれあり、上舟・中舟・下舟とよばれた。各組にはふだんから舟当番がいて舟の管理をしていた。平常は肱川につながれている舟が洪水になると集落近くにまで引き寄せられ、住民の避難用に使われることがあったという。

 重傷川流域の集落

 扇状地性の松山平野を貫流する重信川もまた洪水の頻発する川として知られていた。重信川は平常  時は伏流水が多く、表流水をあまり見ないが、ひとたび豪雨にあうと洪水をもたらし、荒川に変貌する。谷口から河口の間で有史以来幾たびか流路の変遷もあり、平野の至るところに旧流路ではなかったかと思わせるところがある。流路の改修では近世初頭の足立重信によるものが有名で、旧名「伊予川」が重信川と呼ばれるようになったのはこれによる。
 重信川の水害は明治二三年(一八九〇)から昭和二四年の六〇年間に六七回も数えるが、このうち明治一九年(一八八六)・大正一二年(一九二三)・昭和一八年・同二〇年の水害が被害甚大なものとして知られている。昭和一八年七月の豪雨は連続降水量五六五㎜にも達し、松前町徳丸、重信町下林など八か所の堤防が決潰し、耕地の流失・埋没は一七三〇ha、家屋の浸水が一万二〇〇〇戸にも達した。重信川の流域で水害の脅威が去ったのは、第二次大戦後の近代的土木技術による築堤工事が完成して以降である。
 水害の脅威に常におびやかされていた重信川流域では、集落は水害から少しでも安全なところに立地しようとした。重信町の下林や上村は山麓の河岸段丘上に、松山市の河原(現大橋町)は自然堤防上に立地し、松山市の中野は集落の周囲に竹藪の防水堤防をめぐらし、松前町の中川原は二重堤防に守られていたなどの事例は、いずれも水害への備えであったといえる。また水害に伴う集落移転も随所に見られた。重信町の牛渕は碁盤目状の地割を施している集落として有名であるが、これは天和二年(一六八二)から天保八年(一八三七)の間に、浮嶋神社南方の「古屋敷」と呼ばれている地区から移転したものである。また、松山市の中野は慶長九年(一六〇四)に開発された新田集落であるが、貞享元年(一六八四)・元禄二年(一六八九)と二回にわたって、安住の地を求めて集落移転をしている。
       
 重傷町上村

 重信町の上村は重信川左岸にある一〇〇戸余の集落である。藩政時代から明治二二年(一八八九)までの行政村であり、村落共同体の実態をなした。集落は山麓にあり、背後の山地が林野として、また前面の氾濫原が水田として利用された。山林は山頂付近が村有林で入会採草地、その下が私有の薪炭採取地であったが、村有林は明治末年以降植林化され、昭和三一年の重信町の誕生と共に共有山組合有に移行する。水害の多いところではあったが、「上村は月夜でもやける」といわれるほど、水不足に悩まされた。灌漑水を田に引水するのは水引の仕事であり、干ばつ時には歩植と称して、灌漑水のまかなえる範囲内で各個人の水田が一定割合で田植されることもあった。昭和四一年に道前道後農業水利事業が完成したことから水不足は解消したが、共有林と灌漑水を通じて集落運営が行われてきた松山平野の典型的な農村であった。
 上村の氾濫原は、昔から重信川の堤防決潰とともにしばしば水害をうけたので、集落は水害をさけて、山麓の河岸段丘上に立地するものが大半であった。この段丘上の集落を上ノ段とよび、段丘崖下の集落を下ノ段といった。上村は八つの小組より構成されたが、もともと上ノ段の住民で構成された小組が五つ、下ノ段の住民で構成された小組が三つあったので、段丘上の上ノ段が集落の主体であったことがわかる。上ノ段は氾濫原より一五m程度の高さの段丘崖でへだてられているので、洪水からは安全である。地下水も五mから六mの深さで得られ、各戸井戸をうがって清冽な飲料水を得ていた。しかし水田の主力が氾濫原上にあるので、耕作には不便であった。とくに農業用トラックの普及する前には、収穫物を荷車やかついで家まで運び上げるのは大変な重労働であった。一方、下ノ段は水田に近く、営農上は便利であったが、鉄分を含む赤茶けた地下水しか得られず、飲料水を得るのには不便であった。氾濫原には、重信川に近い低位の氾濫原と山麓に近い高位の氾濫原があり、下ノ段の集落の主体は高位の氾濫原に立地していた。したがって、下ノ段の集落といえども水害の常習地ではなかったが、希有の大洪水には浸水を受えるのではないかとの不安はあった。
 このような水害の脅威も、第二次大戦後は重信川の堤防の強化によって去った。また水道の普及は下ノ段の飲料水取得の不便をも解消した。集落は水害をさけることを第一に考えて、上ノ段に主体があったが、営農上の利点を重視するにつれて、下ノ段に家を移したり、そこに分家を出す家が多くなっている(図7―3)。昭和五七年現在では段丘上に立地する家が五六戸、段丘崖下に立地する家屋は六〇戸となり、段丘崖下の戸数の方が多くなっている。集落が段丘上から段丘崖下にしだいに移動している例は、上村に隣接した下林でもみることができる。

図7-3 重信町上林の集落

図7-3 重信町上林の集落