データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)
3 松山地域
商業都市松山
松山市は愛媛県の中心都市としてあらゆる機能が集中しているが、県内最大の商業都市でもある。その卸売業と小売業は、商店数、従業者数、年間販売額のいずれも県内最高で、その商圏は県内全域に及んでいる。卸売業の年間販売額は約六五〇〇億円で、県内の五二%を占め、商店数、従業者数でもそれぞれ四一%、五一%を占めている。
このように、松山市の卸売業は県内では最大の集積を示すが、高松市などに比較すると卸売機能の集積は弱い。それは、高松市に四国の中枢管理機能が集中していることから、四国全体を商圏とする卸売業が同市に集積していることによる。さらに松山市の卸売機能の集積を低めているのは、小売業の古くからの商習慣である。同市の小売業者は、明治以後、大阪商船(現関西汽船)の阪神航路を利用して、直接的に大阪や京都、さらに名古屋などの卸商から衣服や呉服などの商品の仕入れを行うことが多かった。交通手段は船から鉄道や飛行機に変わったが、この商習慣は現在まで続いていて、これが松山市の卸売業、とくに衣服・身の回り品卸売業の成長を妨げる結果となった。ちなみに、愛媛県の衣服・身の回り品小売業の県内からの仕入れはわずか一三%で、これに対し大阪府二九%、京都府二四%、東京都一九%となっている。この割合は愛媛県全体のものであるが、松山市の小売業の仕入先もこれとほぼ同じ傾向とみてよい。
卸売業の近代化を目ざして、昭和四七年に卸売業者三一社が松山市山越地区問屋町に松山卸商団地を設立したが、いぜんとして小売業の大阪・東京指向にはあまり変化ない。また、松山市には全国で三九番目の中央卸売市場の青果部門が五〇年に設立され、後に花卉部門と水産物部門が新たに加わった。
松山市の小売業は、およそ年間販売額三一〇〇億円、商店数五五〇〇店、従業者数二万四〇〇〇人を数え、それぞれ県内の約三八%、二三%、三〇%を占め最高である。小売業の集積が大きいのは、同市の人口規模の大きさが一因であるが、それ以外に松山市が周辺部に対して商業活動の中心地的役割を果たしていることから、周辺部からの購買流入があることも大きな理由である。ちなみに、小売中心性は一四五と県内最高であって、年間販売額の約三分の一が市外からの購買者で占められている。また、その小売業の商圏は、買回り品については半径約四〇㎞の範囲であるが、とくに高級で高額な商品については県内全域に及ぶ。
松山市は県内で最高の大型店の集中地域で、三越や「いよてつそごう」などの百貨店、フジ、ダイエー、ニチイ、イズミなどのスーパーが立地している。第一種大型店は九万㎡余、第二種大型店は四万㎡余の売場面積があって、小売販売額の約二五%を占めている。松山市における大型店と地元商店街の対立は、「松山流通戦争」と言われ全国的にも有名であるが、現在二四店、売場面積五万八〇〇〇㎡余の全国でも例を見ない大型店の新設・増床の申請があり、第四次流通戦争が展開されている。
松山市の商店街
松山市の中心商店街は、都心地区にL字型に位置する大街道と銀天街商店街であるが、同市にはこのほかに数多くの近隣商店街があって地区的商圏を形成している。中心商店街が買回り品を主体とする専門店で構成されているのに対して、近隣商店街はおもに最寄り品(日用品)主体の商店で構成されている。これら近隣商店街は、中心商店街に連なる商店街をはじめ、かって繁栄を競った商店街、ならびに戦後新しく進展してきた商店街の三つがある。
中心商店街に連なる商店街には、松山城の東側のロープウェイ(大街道三丁目)、千舟町、花園町、柳井町、河原町などがあるが、隣接する中心商店街との競合で顧客をうばわれ、経営的にはきびしい状態におかれている。かって繁栄を競った商店街には、三津をはじめ道後、萱町、立花町などがある。三津は、松山藩の外港としての機能をもち、古くから商業地として栄えたが、松山市の中心商店街の発展に伴って次第におとろえた。しかし、同商店街は現在も三津地区をおもな商圏として、近隣商業性の強いまちとなっている。道後商店街は道後温泉を基礎に発展したが、現在はおもに観光客相手のみやげものからなる商店街の特性をもつ。萱町商店街は、家具や木製品を中心とする商店街で、かつては山口県の柳井などから嫁入道具の家具を買いに来る者も数多かった。最近は家具の街としての特性のほかに、生鮮食料品店などの進出が目立ち、同商店街の新たな特色となっている。
戦後新しく発展してきた商店街としては、国鉄駅前通りや新立の商店街がある。これらのほかに、天山や朝生田、石井町などの環状線沿線の地区では、最近ではスーパーマーケットを初め各種の商店が立地し、新たな商業集積を見せつつある。この新しい商業集積は、各店が広い駐車場をもつため、広い範囲から顧客を吸収していて、これまでの商店街にとって新たな競合相手となりつつある。北の中心商店街に対してこれらは南に位置するので、「松山南北戦争」ともいわれている。
大型店の郊外化
最近の大型店立地の顕著な変化は、都心地区を避けて郊外に立地するようになったことで、とくに松山市ではこの傾向が著しい。郊外化のおもな理由としては、人口の郊外への分散化と自動車を利用した買物客の増加、これらに対応した広い駐車場を確保して顧客吸収力を高めたいという大型店の経営方針などがある。松山市では、いわゆる人口のドーナツ化(郊外化)が著しく、加えてモータリゼーションの進行ですでに一世帯当たり一台という自動車の普及をみていることから、大型店の郊外立地を促す条件がそろってきた。
松山市の場合、昭和四五年までは、大型店一四店のうち、一二店までが都心から半径二㎞以内に立地していた。ところが、四六年から五〇年の間に、新規に立地した一一店のうち四店、五一年以降では同じく二二店のうち六店としだいに都心地区での立地が減少してきた(図6―27)。郊外に立地した大型店は、ほぽ例外なく広い駐車場をもっていて、なかには五〇〇台を超える大型店もある。将来とも人口郊外化とモータリゼーションの進行がいっそう強められることを考えると、この傾向はさらに助長されるものとみてよい。