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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 卸売業の近代化

 松山市中央卸売市場の開設

 卸売業界における統合や集団化による活動の近代化の必要性は、業界のもつ古い体質からの脱皮をはじめ、道路の混雑による輸送のうえからの商品の入出荷難、取扱量の増加による敷地の狭さと、駐車場の確保難などの理由によって早くから認識されていた。県内における卸売業の近代化への努力の例としては、松山市中央卸売市場の開設と松山卸商団地の設立がある。前者は、これまで土橋をはじめ新立・三津・古町などに分散していた青果市場と、三津の水産市場を統合した総合市場として計画され、松山市久万ノ台に面積九万一三二七㎡、駐車可能台数一〇〇〇台の規模の施設が建設される予定であった。しかし、水産市場は三津に分離して建設されることになって、青果市場は昭和五〇年に全国で三九番目の中央卸売市場として開設された(写真6―14)。この中央卸売市場は、県内の青果卸売市場取扱金額の約六〇%を占め、年間取扱量約一五万トン、その供給圏は松山市はもちろんのこと、伊予郡や温泉郡をはじめ遠くは上浮穴郡にまで広がっていて、その供給対象人口は約五五万人に達している。
 四国で最初の花卉の中央卸売市場は、水産市場の予定地に、松山市内の二つの花卉市場を統合して五六年に建設された。敷地面積一万四五〇〇㎡、昭和六〇年の見通しでの年間取扱量約三六〇〇万本、供給対象人口は約八九万人におよび四国最大の花卉市場となっている。

 三津の朝市と水産市場

 松山の名物として伊予節にまでうたわれてきた「三津の朝市」の魚市場は、元和二年(一六一六)に、三津の下松屋が藩主の許可を得て開設したのが始まりといわれている。その後、明治・大正期には三津魚市商会社として、昭和三年には町営として、一五年には三津浜町が松山市に合併されたために、市営魚市場として二七年に再建された(写真6―15)。
 このように三六〇有余年の伝統をもつ「三津の朝市」も、取扱量の増加に対して、市場の老朽化と狭さのために荷さばきに不便となり、早急に近代的な市場の整備の必要に迫られてきた。昭和四〇年に、松山市久万ノ台に青果部と同じところへ総合市場として建設する計画があったものの、久万ノ台が三津港から内陸にあることや、「三津の朝市」の伝統を守りたいなどの理由によって、地元や業者の反対が生じ、ついに五五年に旧市場か七五〇m離れた松山外港第二ふ頭の埋め立て地に建設をみた。新しい水産市場は、その供給圏も拡大し、六〇年の見通しでは松山市をはじめ、伊予市、北条市、伊予郡、温泉郡など周辺の一六市町村、約五〇万人に年間約三万五〇〇〇トンの水産物を供給できるようになる。

 松山卸商団地

 松山卸商団地は、卸売機能の合理化をはじめ、流通機構の近代化、本業の共同化を目的として、昭和四七年に松山市内の卸売業者三一社が共同で山越地区の約一〇万㎡の用地に建設された。この団地は、食料・飲料・機械器具・荒物・金物・建材・衣服・身の回り品、その他の卸売業など多様な業種で構成されていて、集団化する前には、その多くが松山市の都心地区に立地していた(図6―20)。これは、移転した卸商が都心の道路混雑や、駐車禁止区域の拡大に伴って業務の支障が多くなり、また広い敷地を求めての移転であった。卸商団地の設立後は、このような問題は解消されて、大型トラックで商品を仕入れ、小型トラックや商用車などで、都心地区の小売業者に商品を配達できるようになり、商品の搬出入は飛躍的に改善された。
 大都市地域における卸売業者のなかには、取引部門だけが都心地区に残って、流通業務部門が郊外に移転するという例がよくみられるけれども、松山市の場合には都市域がそれほど広くないこともあり、この卸商団地では、ほとんどの商店が旧所有地を処分して移転してきたのが特色である。現在の卸商団地の規模は、企業数五九社、従業員一二〇〇名、年商額一三〇〇億円に達していて、町名も問屋町と改め、文字通り県内最大の卸商流通業務の集積地となっている。      

 卸売業の郊外化

 都心地区における敷地の手狭さや、駐車場難からの卸商の郊外への移転は、前述のような集団的な移転の例のみではなく、個別的な商店の移転の例も数多く見られる。松山市にその例をとると、昭和三八年には、卸売業の多くが都心から半径二㎞の範囲に立地していたが、四七年には郊外への分散化がみられ、それも都心から二㎞以上も遠くへの立地が目立ってきた。三八年には、都心から半径二㎞以遠の商店数は、松山市の八二七の全卸商店のうちわずか四五店であったが、四七年には、これが八七一商店のうち二二三店へと増加した。これと反対に、都心から二㎞以内の商店数は四八三店から二九九店へと減少した。(図6―21)。
 このように卸売業の立地の郊外化が著しくなってきたが、ここで注意しなければならないことは、郊外化に反して都心地区への移転もあったということである。ちなみに、四四年から四七年の間に移転した卸売業は一三二店を数えたが、このうち都心地区に向けての移転は二七店と約二〇%もあった。卸売機能には、伝票操作によるものと物流が伴うものがあることはすでに述べたが、もし取扱商品が小口で、顧客である小売業との接触がきわめて重要な場合には、小売業が集積する都心地区が、その卸売業にとってはより望ましい立地環境となる。都心地区への移転現象は、卸売業の立地が郊外化をみせているなかで、逆の流れもあるという点で注目したい。

図6-21 松山市における卸売業の郊外化

図6-21 松山市における卸売業の郊外化