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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 東予地域

 伊予三島・川之江地域

 この地域は、古代における太政官道や近世における讃岐街道・土佐街道が通っていたところで、県内でも最初に国鉄が進出をみ、早くから陸上交通が整備された地域であった。陸上交通の幹線は、国鉄予讃線と国道一一号線で、これらは燧灘と石鎚山脈にはさまれた細長い平野を東西に走っている。
 最東部に位置する川之江市は、伊予・讃岐・阿波・土佐の四国の国境に近く、古代より北四国における交通の要地であった。そのため藩政時代には幕府の天領となり、土佐藩の参勤交代は土佐街道を利用して川之江市に出て、同市の港から海路をとるのが一般であった。このように歴史的に交通の要地であった同市は、現在においても国道一一号線と徳島市へ通じる一九二号線が交差し、重要な交通結節地である。さらに、同市には国鉄バスの営業所が置かれていて、国鉄川池線が同市と池田町の間を結んでおり、内陸部の幹線交通の役割を果たしている。国道一一号線は重要な幹線道路ではあるが、昭和四〇年以降本格的な改築が行われず、また道路が市街地を貫通している。このため一一号線のなかでもとくに混雑した区間となっていて、この隘路打開のため、伊予三島市と川之江市の間ではバイパスが計画されている。
 過去・現在におけるのと同様に、川之江市はまた将来においても交通の要地となろうとしている。すなわち、四国で最初の高速道路である四国縦貫・横断自動車道が同市で交差するため、高速道路交通体系における新たな結節地となる可能性がでてきた。このため同市では、将来における一大流通拠点都市を目ざしての構想が考えられている。
 三島・川之江港は、これまで三島港と川之江港として独立していたもので、前者は江戸時代初期から商業港として、後者は天然の良港で、前述の土佐藩主の参勤交代の乗船地としての歴史をもつ。両港湾は、地場産業としての歴史をもつ製紙工業の飛躍的な発展とともに整備されてきた。昭和四五年に両港は合併し三島・川之江港となり、四六年には重要港湾に指定された。同港は製紙工業にとって重要な役割を果たしていて、原料のチップの輸入と、製品の紙・パルプの輸移出が多いのが他に見られない特色である。この港湾のもう一つの特色は、貨物港としての利用に比べて、旅客港としての利用が少ないことである。昭和四五年に、四国中央フェリーにより川之江―神戸間にフェリーボート航路が開設されたが、旅客港としての利用はこれのみである。

 新居浜・西条地域

 新居浜市は別子銅山の銅の積み出し港としての発展の歴史をもっていて、その後の住友系企業の立地によって四国でも有数の工業都市として発展した。市街地は北部の臨海部にあって、南部の国道一一号線との間には国鉄が東西に走っている。このため鉄道はその南部への発展にとって大きな障害となっていて、同市は市街地と国道を結ぶ南北の道路を整備してきたが未だ充分でない。
 住友鉱山鉄道は、明治二六年(一八九三)に鉱石などの運搬のため、端出場―惣開と角石原―石ヶ丈山間に敷設された。バス交通が普及してくるまでは、一時地方鉄道として利用され、当地域の南北を結ぶ重要な交通機関であった。またカゴ電車と呼ばれる鉱夫運搬用の列車が、日浦―東平間に運行され、一般客も利用できたため別子山村の住民の重要な足となったが、銅山の閉山とともに昭和四九年に廃止となった(写真6―9)。
 バス交通は、戦後新居浜市営バスが運行されていたが四一年に廃止され、現在は瀬戸内運輸のバスが公共輸送機関としての役割を果たしている。伊予鉄との共同運行による松山―新居浜間の特急バスは、約三〇分毎に運行され、都市間交通として重要な役割をもつが、この路線の運行の開始は昭和二五年である。
 新居浜港は、住友系企業の発展とともに工業港として整備され、二三年に開港、二六年に重要港湾に指定された。同港の特色は、住友系企業の専用の岸壁の整備に比較して、公共岸壁のそれが著しく遅れていることである。たとえば、建築資材などのバラ貨物は、東予港に陸揚げされたのち陸路新居浜市へ運ばれる状態である。同市はこの状態を打開するため、現在多喜浜地区に公共岸壁の整備を進めている。新居浜港からは、四国中央フェリーが川之江市経由で神戸まで航路を開設しているが、港湾整備が不充分なため自動車の乗降ができない。なお、昭和三四年には、水上飛行機による新居浜―大阪間の空路が開設されたが、今では廃止となっている。
 西条市と東予市は、国道一一号線と一九六号線がこの地で交差し、さらに国道一九四号線が県境の寒風山トンネルをぬけて高知県へと続いていて交通の結節地となっている。西条市には、将来国道一一号線のバイパスの一部となる県営の東予有料道路があるが、県内の有料道路は石鎚スカイラインとこの道路のみである。東予港は、この地域が昭和三九年に新産業都市に指定されたのを機会に、西条港と壬生川港が一体となってできたもので、同年重要港湾に指定された。この港は化学薬品や非鉄金属の移出が多く、おもに工業港として利用されているが、四七年から四国開発フェリーの壬生川―大阪間のフェリーボート航路の基地ともなった。   

 今治地域

 この地域の交通の最も著しい特色は、今治港を中心とした海上交通の発達にある。同港は高縄半島の先端に位置し、来島海峡に面するという地理的条件もあって、四国では東の高松港に対して西の玄関口としての役割をもっている(写真6―10)。同港は対本州や越智郡島しょ部への旅客航路の基地としてのみならず、背後地のタオルや縫製業といった繊維産業などのための工業港として重要な機能をもっている。今治港は、大正時代に四国で最初の洋式築港としての整備が進められ、大正一一年(一九二二)には同じく四国で最も早く開港場の指定をうけ、昭和二年には重要港湾となった。三四年に民営では全国初のフェリーボートが今治―三原間に就航してフェリー時代の幕を開け、これ以後旅客船の大部分がこれに転換した。また三九年には、尾道航路に水中翼船、四七年には三原航路に高速艇が就航し高速化時代に入った。これ以外に阪神航路や宇品航路などの対本州航路と、今治―下田水、今治―宮浦―木之江などの多数の島しょ部を結ぶ航路がある。今治港は年間の入港船舶約八万隻、取扱貨物量一六〇〇万トン、乗降客数二六〇万人に及んでいる(五六年)。
 船舶の大型化と貨物量や乗降客数の急増は、港を相対的に狭くし、そのため昭和四五年から蒼社川河口に貨客分離を目的とした貨物専用港の建設が始まった。五四年には、一万トン、五〇〇〇トン級各一バース、二〇〇〇トン級五バースの岸壁、臨港道路、コンテナヤード、木材置場などが完成し、港の過密化が解消されることとなった。同港の建設は、単に港の過密化解消だけが目的ではなく、これに関連して当地域に臨海流通加工基地を建設する目的もあった。そのため今治市は、蒼社川右岸に約六万坪の工業用地を造成したが、ここにはすでに運輸倉庫や、金属製品、木材・木製品工業などの立地が決定している(図6―18)。
 今治地域の将来の交通体系に重大な影響を与えるものに本四連絡橋今治―尾道ルートがある。同ルートは、現時点では離島の地域開発橋として位置づけられていて、その全体の計画は認められていない。しかし、将来ルートの全線が開通すると、今治市は海上交通のみならず道路交通においても四国西部の玄関口となって、海陸交通の重要な拠点都市となる。同市では、これを機会に、内陸部に物流・卸商の流通機能、および内陸型流通加工機能をあわせもつ総合流通センターを整備する計画をたてている。ルートの完成後は、大量の流入交通量が見込まれるが、同市では国道一九六号線との交点にインターチェンジを設けてこれを処理する計画をたてている。しかし、松山市への交通路としては二車線の一九六号線しかなく、同市への幹線交通路の整備が必要となっている。愛媛県全体からみると是非とも必要な今治と松山両市間の幹線道路の整備も、今治市からみれば、同市が単なる通過都市となる可能性もあるわけで、これについての対策が今後の課題となる。
 架橋とともに、鉄道高架化も今治市の将来交通計画において重要な課題である。予讃線が今治市まで開通したのは大正一三年(一九二四)であるが、それ以来、鉄道は港湾とともに同市の発展に大きな役割を果たしてきた。しかし、最近のモータリゼーションの進行によって、鉄道線路は市街地の西部への発展を阻害する結果となってきた。このため蒼社川左岸から市内の石井町までの約二・六㎞を高架化する計画をたてて国鉄などと交渉中である。かつては都市発展を促進させる役割を担っていた鉄道が、現在は反対にその発展を阻害するようになったことは、ある意味で鉄道時代の終わりをつげるものといえよう。
 バス交通は、今治市に本社をおく瀬戸内運輸が東予地域全域で独占的に営業を行っていて、五五年の路線延長は五四六・七㎞、運行系統数は一一六系統に及び、年間輸送人員は約一五〇〇万人である。瀬戸内運輸は、県内のおもな民営バス三社のなかでは営業が最も苦しい会社であって、五五年の営業係数は一一一・七と大幅な赤字である。その主な原因は、モータリゼーションの進展による利用者の減少であるが、同社の場合この一〇年間に四四%もの大幅な利用者の減少をみた。このような利用者の急減にもかかわらず、バスはいぜんとして重要な陸上交通機関であって、今治―松山、今治―新居浜間の都市間バスとして、また都市内バスとして利用されている。   

 渡海船

 越智郡の島しょ部では、各村落の日常物資の搬入や農産物の搬出、今治市や尾道市への買物や訪問に、古くから渡海船が利用され島の重要な交通機関であった(写真6―11)゜渡海船は、近世にすでにあったといわれるが、明治期に入ってすべての村落に存在していたという。昭和三〇年代後半からのフェリーボートの出現は、渡海船に大きな打撃を与え、顧客を奪われて経営不振から廃船するものが続出し、戦後の最盛期の四六隻が現在では二二隻へと半減した。まず搬入に手間のかかる危険物や量的にまとまっているもの、配送や回収を要するものが最初にフェリーボートに転換した。渡海船の重要な機能の一つである商店への仕入商品の配達も、本土の問屋のフェリーボートを利用した自動車による小売店への直送(問屋セールス)によりおとろえてきた。
 しかし、渡海船はその独得な機能によって、いぜんとして島しょ部の重要な交通機関となっている。問屋セールスの商品の配達は、フェリーボートを利用するため料金との関係で量的にまとまらないと採算がとれない。このため月二、三回の配達となり、商品は保存のきくものに限定される。生鮮食料品のように毎日配達が必要なものとか、貨物量が少ないものや急ぐ必要のある商品は、渡海船を利用したほうがコストが安い。また個人的な注文、たとえば本土の病院から薬をもらってくる場合などは、渡海船に代わりうる手段はない。伯方町木浦の商店の例をみても、毎日必要な食料品や、注文を受けてすぐ仕入れる必要のある電気器具などは渡海船利用が多い。これと反対に、酒類や衣料品などの月一、二回の仕入れで保存のきくものは、問屋セールスの利用が多い(表6―12)。

図6-18 今治港と港湾施設

図6-18 今治港と港湾施設


表6-12 伯方町木浦の商店の商品仕入れ方法

表6-12 伯方町木浦の商店の商品仕入れ方法