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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 内航海運と港湾

 海運王国愛媛
 
 瀬戸内海と宇和海に面した愛媛県では、本州や九州と連絡するには船か飛行機を利用する必要があって、そのため人の移動における海運の重要さは深く認識されている。しかし、貨物の輸送における海運の重要さはあまり認識されていない。国内の貨物輸送(トンキロベース)で内航海運の占めるシェア(市場占有率)は、昭和三〇年の三五%から、五四年の五一%へと過半数を占めるまでに増加している事実はあまり知られていない。
 このように、わが国の内航海運は貨物輸送において重要な役割を果たしているが、なかでも愛媛県のそれは大きい。五四年では、愛媛県の保有する船腹量は約五一万総トン、一隻当たり四六四総トンで、いずれも全国第一位、隻数は一一〇三隻で広島県についで第二位であって、まさに「海運王国」といえよう。
 愛媛県が海運王国と言われるほど内航海運が盛んになったのはいくつかの理由が考えられる。古くから村上水軍の伝統があって海運業が盛んであったことや、阪神と北九州の工業地帯を結ぶ瀬戸内海に面し、地理的条件に恵まれていたことも一つの理由である。さらに、従来から県内には大規模な地場産業がなく、地元の荷物だけでは内航海運の企業経営が成立しないため、石炭輸送の頃からおもに県外の荷物を運び、その結果オーナー(所有者・貸渡業者)が県外の荷主と早くから交渉をもち、いきおい中央の動向にいち早く対応できたことなども海運発展の大きな理由としてあげられている。
 内航海運業は、一般に、運送業(オペレーター)、貸渡業(オーナー)、取扱業(回漕業)と三つの形態に分けられるが、愛媛県の最大の特色は貸渡業者が圧倒的に多いことである(表6―9)。すなわち、県内の海運業者は、運送業者として貨物の海上輸送に従事するものは少なく、運送業者から用船料を得て船を貸与するオーナーが極めて多いことで、業者数の九三%を占め、貸渡業者の数では全国一である。ただ、貸渡業者が運送業者に船を貸与する時は、貸渡業者が船員の手当をするのが一般であるので、船員として海運業にたずさわるものは多い。県内で最も運送業者が多いのは新居浜市で、彼らは住友系企業をおもな荷主としている。運送業者が少ないのは、地元に大荷主がいないことによる。
 貨物を輸送する船は、かつては木船・機帆船が多かったが、現在は鋼船がほとんどで、それらは鉄鋼・セメントなどのバラ荷を積む貨物船と、油やLPGを専用に運ぶ油送船がある。愛媛県の特色は油送船の専用船化が特に高いことで、昭和五五年では三八%の専用船化率で、これは全国平均の二八・五%を大幅に上回る。このように専用船化が高いのも、県内の内航海運業者が中央の動向を早く察知し、これにいち早く対応した結果である。最近の傾向としては、それぞれの用途に適した船型・船種の特定化が進んできていることである。
 わが国の貨物輸送において重要な役割を果たしている内航海運も、近年の不況によりその経営は苦しく、戦後最大の海運不況といわれている。県内でも、住友アルミニウムや丸善石油の生産不振は、内航海運に大きな打撃を与えた。海運業界では船腹量の過剰を調整するため、五六年には、全国で八八隻、約三万七〇〇〇総トンのタンカーを廃船としたが、このなかには東南アジア諸国へ売却されたものもある。一時的に海運不況であっても、重量物で付加価値が低く、かつ長距離の輸送を必要とする貨物は、海上輸送が陸上輸送に比べて圧倒的に輸送コストが安くて有利であることから、これからも内航海運の役割の重要性は維持されるであろう。

 波方町・伯方町の海運業

 越智郡の波方町と伯方町は海運業の町として知られている・波方町の海運業は、同町産の瓦の原料である粘土を菊間町に運ぶドロ船から発展してきたといわれている。このドロ船は、後に粘土を運んだ帰りの空船に、瓦製造の際にできる副産物の木炭(スバイ)を積んで、大阪の鍛治屋や鉄工所へ運ぶスバイ船へと変わっていった。明治二〇年(一八八七)代までは、船舶の大部分はドロ船・スバイ船であったが、明治の後半には北九州で産出される石炭の各工業地への運搬が主流となり、これらは石炭船へと変わっていった。今治市波止浜で二〇〇〇石積の石炭専用船が造られたのもこの頃であった。
 当時の船は帆船であったが、これは風の力だけを利用するため、無風時や逆風時には航行が困難で、とくに潮流の早い瀬戸を通り抜ける時は危険であった。そこで登場したのが帆船に発動機を取り付けた機帆船であって、昭和一二、三年頃から登場し、またたく間に帆船にとって代わった。波方機帆船組合の調べによると、昭和七年には同組合に所属する三九隻すべてが帆船であったものが、一〇年後の一七年には四五隻すべてが機帆船へと変わっている。この機帆船も、三〇年代以降の輸送の近代化・高速化によって鋼船に代わり、現在ではまったく機帆船は姿を消してしまった(写真6―7)。最近は、船舶の大型化と専用船化がすすみ、とくに石油やLPGを運ぶ油送船の割合が高くなっている。
 波方町で海運業が盛んになったのは、すでに述べたような歴史性や地理的条件、早くからの県外荷主との交渉による中央の動向への迅速な対応などのほかに、つぎのような理由があげられている。その一つは、相互援助組織と共同出資である。新しい船を建造するときは、兄弟を主とした縁故関係者が共同出資し、船舶の経営も船主とその家族や親戚を中心として行われていた。このような共同出資の形態は、機帆船から建造費が高い鋼船への切替え時には特に有利であった。
 さらに波方町の海運業を盛んにしたのは、今治市波止浜における造船業の発達である。戦後の日本は需要に応じきれないほどの造船ブームが起こったが、大手企業は大型船の注文に追われて中小の造船に応ずることができなかった。これら中小の船舶を建造したのが波止浜を中心とする中小の造船会社であった。波方町の海運業の発展にとって有利であったのは、造船所が近くにあることよりも、新船建造に際してこれら造船所が資金面で援助したことである。すなわち、自己資金が三分の一あれば、他の三分の一は銀行その他からの融資を受け、残り三分の一は造船会社が年賦償還を認め、その償還はチャーター(用船)料から差し引くという支払い方法がとられた。このため新船の建造は容易となって機帆船から鋼船への転換を早くし、また専用船化へのすばやい対応を可能にした。このような支払い方法は全国的にも注目され、愛媛には「月賦の船」があるとうわさされたほどであった。なお、海運業に従事する人材の育成においても波方町の対応はすばやく、昭和四三年には国立粟島海員学校愛媛分校が設立され、四九年には独立して国立波方海員学校となった。     

 港とその機能

 海上輸送の根拠地となる港の果たす機能は、その港の後背地の経済活動と密接に関わっている。したがって、港湾の取扱い貨物の内容を調べることによって、その後背地の経済活動の特色を推察することができる。県内には、現在重要港湾が七港、地方港湾が四六港あるが、ここでは重要港湾について、その取扱い貨物の内訳からそれぞれの特色を見てみよう。
 三島・川之江港は昭和四五年三島港と川之江港が合併してできたもので、四六年に重要港湾となり東予新産業都市東部の流通基地としての機能をもっている。輸移出では圧倒的に紙・パルプが多く、また輸入では木材などがほとんどで、この地域の製紙工業の原料、製品の搬出入に港湾が非常に大きな役割を果たしていることがわかる。松山港は昭和一五年に高浜・三津浜をあわせて松山港と改称され、二六年に重要港湾、二九年には開港に指定されている。この港は松山市を後背地とすることから、取扱貨物量も県内では最大で、全体の二一・六%を占め、その内訳では松山西部臨海工業地区の石油化学工業の原料や製品の輸移出入に特色がある。宇和島港は三五年に重要港湾、四六年に開港に指定され、南予地域の拠点港湾としての役割をもち、水産品の輸出とその他木材の移出の割合が高い。
 新居浜港は住友家による別子銅山の採掘以来、産銅をはじめ需要物資の海陸運輸の中継港として栄えたもので、四国最大の工業港としての実績により、二三年に開港され、二六年に重要港湾に指定された。輸移出では化学肥料・非鉄金属・化学薬品が多く、輸移入ではその他金属鉱・石油製品などが多くて、新居浜の重化学工業都市の性格を反映している。今治港は四国で最初の開港(大正一一年)であると同時に重要港湾(昭和二年)であって、さらに県内でも有数のフェリーボート基地でもある。そのため取扱貨物に占める自動車航送の割合は八六・三%と高い。統計のうえでフェリーボートによる取扱貨物の内容は不明であるため、今治港の場合、取扱貨物から港湾の機能を推定することは困難である(表6―10)。

表6-9 愛媛県内航海運の業者数と船腹量

表6-9 愛媛県内航海運の業者数と船腹量


表6-10 愛媛県の重要港湾の取扱貨物の内訳(昭和54年)

表6-10 愛媛県の重要港湾の取扱貨物の内訳(昭和54年)