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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 航路の変遷

 昔の航路

 瀬戸内海という天然の運河に面した愛媛県では、古代から物資の輸送や人の移動において海路がきわめて重要な役割を果たしてきた。藩政時代には瀬戸内海の利用はいっそう拡大し、西国諸藩の大坂蔵屋敷への物資の移送、西廻り航路による北陸方面との物資の交流、また西国大名の参勤交代や唯一の外国貿易港であった長崎との交通にも瀬戸内海が利用された。航路は東西交通が主で南北交通は従であったが、東西交通には山陽沿いの「安芸地乗り」、島しょ部を結ぶ「伊予中乗り」、北四国沿いの「伊予地乗り」の三航路があった。航路には潮待ち、風待ちの寄港地として多くの港町が栄えたが、県内では今治・三津浜・岩城などが栄えた。松山藩主の参勤交代は、三津浜から海路、御手洗・岩城をへて、鞆に上陸するコースが一般であったが、岩城には藩主の泊る本陣が置かれ、松山藩の海路上の玄関口として大いに栄えた。
         
 定期航路の開設
         
 明治に入って県内の陸上交通の発達は遅々としていたが、海上交通は目ざましい発展をとげた。県内における定期航路の開設は、明治四年から熊本県の汽船舞鶴丸が月三回三津浜港に寄港したのが最初であるといわれている。しかし県内における本格的な定期航路の始まりは、関西船会社の競争防止を目的として明治一七年(一八八四)に設立された大阪商船が、内海航路の運航を開始し、そのうちのいくつかが今治・三津浜・長浜・八幡浜・宇和島の各港に寄港したときに始まると言えよう。この当時の港の多くはほとんど未整備であったため、汽船は直接に接岸できずに沖に停泊し、乗客ははしけに乗って乗船する状態であった(写真6―5)。
 県内の船会社による初の定期航路は、明治一七年に創立された宇和島運輸が翌一八年に開設した大阪―宇和島間である。これ以後、明治・大正・昭和初期にかけては、石崎汽船部・南予運輸・住友汽船部・東予汽船・盛運汽船・青木運輸など県内外の船会社が、阪神・中国・九州と結ぶ航路や沿岸航路をあいついで開設し、大阪商船と宇和島運輸間の激しい顧客争奪戦をはじめとして、船会社相互の競争が続いた。
 陸上交通の発達の遅れた南予地域においては、明治に入っても長い間漁獲物を宇和島に運び、また日用品を宇和島に求めるには、すべて自分の持ち船によるほかに方法がなかった。明治二九年(一八九六)に、南予運輸が御荘丸でもって宇和島と御荘間の沿岸航路を開設しこの不便を取除いた。その後同四三年(一九一〇)には宇和島運輸も小型汽船による宇和島―吉田間を就航させ、さらに八幡浜―遊子―下灘間の就航も始まった。大正時代になると、南宇和郡の各地に宇和島と連絡するポッポ船と呼ばれる発動船による貨客運送業者が続出し、小型船舶による航路争奪の混戦状態となった。
 明治から昭和初期にかけて、県内の各地に阪神・中国・九州と結ぶ航路や沿岸航路が開設されたが、予讃線の西進やバス路線網の整備につれて、沿岸航路は乗客を奪われて経営不可能となり、遠距離航路と離島航路以外の航路は廃止された。
 昭和一六年に太平洋戦争に突入すると、政府は海運界の統制を強化し、内航航路業者の統合が実施された。まず一七年には、大阪商船を中心として宇和島運輸・土佐商船・住友鉱業・瀬戸内商船などが統合されて関西汽船が創立された。小型船舶についての統合も同様に行われ、二〇年に瀬戸内海西部を運営していた尼崎汽船・広島湾汽船・瀬戸内運輸・東海汽船など七社が合併して瀬戸内海汽船が創立され、石崎汽船とともに芸予航路の運航を行った。