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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 マンガン鉱山

 マンガン鉱物と鉱石

 四国地方はわが国有数のマンガン鉱床分布地で、鉱石の種類に富み、種々の型式の鉱床がみられる。マンガン鉱石は、鉱物組成と化学組成が複雑でその利用の歴史も変遷に富み、酸化物→炭酸塩→珪酸塩の順に利用のみちがひらかれてきた。すなわち、古くは二酸化マンガン鉱のみが採掘の対象となったが、それは今日でも乾電池原料として重視され、ほかの金属マンガン鉱にくらべて優位の鉱石価格を有した。四国西部にすぐれた鉱床が集中し、野村・一宝・大平・四道・蔵貫などを主とした愛媛県の生産量は全国の優位にあった。鉱石品位は二酸化マンガン六五から八五%で鉄分二%以下のものが要求される。
 四国地方のマンガン鉱石は、昭和二五年ごろまでの集計約五七万トンと、それ以後一〇年間の出鉱量一一・五万トンをあわせて、既採掘量の総計は約六九万トンとみられる。四国のマンガン鉱床は穴内鉱山(高知県)など本邦屈指の鉱床がある反面、小規模鉱床の数は枚挙にいとまがないほどで、昭和三五年代は、一年間に二酸化鉱を約二二〇〇トン(本邦の二四・四%)と金属鉱一万一〇〇〇トン(同二・一%)の生産がつづいていた。今日では価格の不安定などで漸減の傾向にあるが、なお二酸化鉱を中心として高品位鉱石の埋蔵が期待できる。

 有名なマンガン鉱山  

 野村町の野村鉱山は明治時代から稼行された。昭和一二年に龍王山鉱山として再開され、一三年から一四年ころに盛大に稼行した。一八年には双津野坑の着鉱によって再び活況を呈し、翌一九年には松下鉱業が鉱業権を取得して野村鉱山と改称した。松下鉱業は二四年に辻中鉱業と商号を変更した。二一年から四八年に休山するまでの間の生産量は、金属鉱二・三万トン(品位二九・五%)、二酸化鉱一・七万トン(品位六四%)であった。
 城川町にあった一宝鉱山は、古くは明治時代の開発といわれ、西古市・伏越・七中ケ森・鍵山・古市をはじめ多数の鉱床より成った。大正七年(一九一八)ごろ坑内掘りによって採鉱されたが、盛大に稼行が始められたのは昭和一六年からである。二四年に一宝鉱山と改称して三七年まで稼行した。四一年に再開されたが四四年には早くも休山した。三一年当時の従業員は坑内夫七五人を含めて一三九人に達していた。戦後の生産量の合計は、金属マンガン粗鉱五・三万トン(品位三〇から四五%)であったが、それ以前にも伏越坑を中心に約三・七万トンの実績がある。
 宇和町明間の東南方にある大平鉱山は、昭和三年に開坑された。戦後は二五年に再開され、優勢な二酸化マンガン鉱体を開発し、三六年には比重選鉱場が設置された。最盛時の四〇年には二七七〇トン採掘したが、四五年に既知鉱床群を掘り終わって休山した。この間粗鉱一・五万トンを採掘し、二酸化鉱(品位七二%)の精鉱五〇○○トンを出荷した。
 宇和町明間四道の宇和川南岸に主要坑道がある四道鉱山は、大正一五年(一九二六)丸山鉱山として開発され、昭和二一年まで上部鉱体を採掘した。戦後は、二五年に再開され、下部探鉱を行い四六年まで採掘した。この間に二酸化鉱二五〇〇トン、金属マンガン鉱七八〇〇トンを生産した。四道鉱山の西北方には明間鉱山があった。宇和川北岸に点在する古辻・明間四道・横野・大野地・瀬戸の各坑からなり、明治中期に開発された。昭和八年に再開されて、一時大規模に開発された。一五年に再開されてからは四二年に休山するまで稼行された。一九年からは野村鉱山とともに辻中鉱業の主力鉱山となった。一五年以後の生産量は金属鉱四六〇〇トン、二酸化鉱六九〇〇トンであった。この他、砥部町の古宮鉱山、大洲市の上須戒鉱山、肱川町の蟻峨谷鉱山、柳谷村の中津鉱山
などが知られている。