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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 入浜式から流下式へ

 製塩量の増大

 第二次大戦が激しくなると入浜式塩田も資材や労働力の不足で荒廃し、塩の生産量も激減した。戦時中から戦後にかけての塩飢饉の苦い経験から、政府も食塩の増産に本腰を入れ、昭和二五年ごろにはほぼ戦前の生産量に復興した。
 昭和二六年の入浜式塩田の一ha当たり年間塩生産を県別にみると、香川一三〇トン、徳島一一七トン、岡山一一一トンに次いで愛媛が九一トンで第四位となっている。
 江戸時代から約三〇〇年間続いた入浜式もやっと終止符を打ち、流下式に転換した。流下式も塩田の高さは入浜式と同じであるが、表面を粘土板で固めてごく僅か傾斜させ、その上に小石を散りばめ、天候に応じて導入した海水をゆっくりと流すことによって水分を蒸発させるものである。これを三回ほどくりかえすが、なお不充分であるためさらに、枝条架といわれる笹をつるした立体的な濃縮装置を併用した。塩田面を流下させた海水を、この枝条架の上までポンプで汲み上げては落下させることによって、いっそう濃度を高めたのである。流下式への転換は、入浜当時に成績が悪かった瀬戸内の西部からはじまり、本格的には昭和二八年から三二年までの数年間に急速に進められ、この間に両者の面積がほぼ逆転している。転換されなかった入浜式塩田は、第三次塩業整備により昭和三五年には姿を消す。塩田の面績は入浜に比べて流下式の方が少なくなったが、製塩の原料となる濃縮した海水の採取量、すなわち採かん量は増大し製塩量も大幅に増えた。
 昭和三四年の流下式転換後の、一ha当たり平年生産量をみると香川二八六トン、岡山二七九トン、広島二五九トン、徳島二五四トン、次いで兵庫と愛媛が二二三トンとなっている。
 さらに、これまでの塩田による採かん過程を全面的にイオン交換樹脂膜法に転換することを余儀なくされ、第四次整備(昭和四五~四六年)が行われた。
 昭和四六年は、瀬戸内海風物詩の一つとして人びとに親しまれてきた塩田製塩の終焉の年となった。