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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 イワシ網

 イワシ網の発達

 イワシ網漁業は第二次大戦前まで、地曳網や船曳網により瀬戸内海沿岸のほか、とくに豊後水道の宇和海沿岸水域で栄えた。現在地曳網は衰微し瀬戸内海西部の船曳網や、同じく東部のパッチ網が操業されているだげである。
 船曳網の漁場は海底の平坦な砂地、あるいは砂泥地の水深二〇m以内の海底が適している。
 宇和海でのイワシ網の発達形態をみると、藩政時代のイワシ地曳網や船曳網が、明治二〇年(一八八七)の巻刺網の登場で次第に衰退した。大正時代には巾着網及び改良揚操網がこれに代わり、生産も飛躍的に増加した。愛媛県に巾着網が導入されたのは明治二八年(一八九五)、宇和海に導入されたのは大正年代である。漁業の動力化は大正末期から昭和のはじめにかけて進行し、それと共に漁法も高度化し、集魚灯による夜間操業が一般的となった。
 昭和四年にわが国で初めて蓄電式集魚灯が導入された。昭和二五年の魚群探知器の導入とあわせて、宇和海のイワシ網漁業はわが国沿岸漁業近代化の先駆的役割をはたした。
 昭和三〇年代に入ってイワシの魚獲が急速に衰退し、真珠養殖とハマチ養殖漁業がこれに取って替わった。
 イワシの漁期は宇和海では四月から一〇月、伊予灘では八月から三月、斎灘で七月から九月、燧灘では五月から一〇月となっている。燧灘沿岸の西条や川之江沖合では、ヘドロが堆積したこともあって藻場がなくなり、漁場は沖合の島の周辺に移っている。
 江戸時代のイワシの利用は干鰯が主で、肥料として売買されたが、明治時代以降は煮干イリコとしての利用が進んだ。第二次大戦後はイリコ利用のほか、養殖ハマチのえさにも利用されている。