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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

5 薪炭の生産地域

 都市近郊の山村

 薪と木炭は昭和三〇年代までは家庭用燃料として、日常必需品であった。農山漁村地域では、どこでも自給用の薪炭を確保するための薪炭備林があった。明治・大正年間に薪炭を商品として生産する地域もあった、それは地方都市周辺か、交通が便利で大阪などの大都市に有利に薪炭を輸送できる地域であった。
 松山市や今治市・宇和島市など地方都市周辺の山村は、藩政時代からこれら地方都市への薪炭の供給地となっていた。松山市近郊の五明・湯山、今治市近郊の九和・鴨部、宇和島市近郊の高光・来村などは、いずれもその例で薪炭の生産が盛んであった。薪と木炭を比べると、薪の方が重量が重い割には価格が安いので、同一地区では、消費地である都市により近いところが薪の生産地となり、その外側が木炭の生産地となっていた。例えば、松山市背後の五明・湯山地区では、明治時代から昭和の戦前にかけて薪材の生産が多かった地区は、五明の菅沢・梅木・上総、湯山の上菅谷・柳などであって、松山市街から六kmから一〇kmの山村であった。その奥地の米野々・九川などは木炭の生産地であった。昭和の初めに道路が開通するまでは、木炭や薪は駄馬と担夫で松山市街に出荷された。これらの山村は一般に食料の自給ができないことから薪や木炭を売った金でそれらを購入する者が多かった。

 南・北宇和郡
   
 明治末年の愛媛県の木炭の生産量では、南・北宇和郡が二分の一をしめていた(表4-14)。北宇和郡は地元の宇和島で消費されるものもあったが、この両郡で生産された木炭の大部分は大阪市場に出荷された。明治年間の木炭の主産地は、南・北宇和郡にまたがる篠山山地と宇和島背後の鬼ヶ城山地であって、国有林からの払下げ原木が製炭の原料となった。これらの山地で製炭が盛んであったのは、国有林の豊富な原木があったこと、海岸から五kmから一五kmの距離にあり、道路の発達しない時代でも木炭が容易に海岸まで輸送できたことによる。
 国有林の原木は、まとまりのある一区割が払下げの対象になったので、資力のある宇和島や岩松・宿毛などの新炭商に払下げられた。薪炭商は払下げを受けた国有林に地元の住民や移動製炭者を入山させて製炭させた。製炭者は薪炭商から生活物資を前借りし、それを木炭の焼賃でもって清算するという前近代的な体制のもとに製炭した。薪炭商は親方、製炭者は焼子といわれたが、山元には薪炭商に雇われた現場監督「山先」などもいた。このような製炭形態は焼子制度といわれ、当時、後進的な製炭地域には広く見られた制度であった。 明治末年の『一本松村誌』によると、二人の製炭業者が篠山の国有林に一五〇箇の炭窯を構築し、焼子を支配して製炭していたことが誌されている。焼子のなかには、山中で小屋掛して家族ぐるみで生活する製炭専業の移動製炭者も多かった。彼らは薪炭商の購入した原木を求めて、一年から二年ごとに山から山へと、さながらジプシーのように移動して生活を送った。このような焼子形態の製炭形態は第二次大戦前には広く見ることができたが、製炭業の中心地である津島町などでは、昭和三八年ごろまで残っていた。木炭の大部分はしいを主体とした雑炭で、宇和島市や岩松町・宿毛市などの薪炭商の手によって大阪の炭問屋に出荷された。

 肱川流域

 南・北宇和郡に次いで大阪向けの木炭生産地域となったのは肱川流域である。肱川流域の木炭はくぬぎの切炭に特色があり、大阪市場では「伊予の切炭」として名声を博した。肱川流域の製炭業の歴史は新しく、明治中期にはそれほど生産されていなかった。この地域の中心的な製炭地域である柳沢村(現大洲市)では、大正六年(一九一七)に製炭者が八三戸、生産量五万八〇〇〇貫を数えたが、明治三〇年(一八九七)ごろには、わずか一〇戸ほどが製炭に従事していたに過ぎなかったと記録にある。この地域の製炭業が明治末年に急速に伸びたのは、大阪府下の池田地方から切炭の技術が導入されたことによる。切炭とは、従来の木炭が五〇㎝から六〇㎝の長さで俵装して出荷されたのに対して、こん炉や火ばちで使用するのに便利なように短く裁断した木炭をいう。喜多郡で切炭が最初に生産されたのは、明治四三年(一九一〇)に内子町の薪炭商の越智良一によってである。明治四四年の喜多郡の木炭生産量は五三万貫で、県下の九・九%を占めるほどであったがそれはまだ南・北宇和郡との生産量に比べると少なかった(表4-14)。
 この地域の製炭業の特色は、くぬぎの育成林に依存していたこと、農家が複合経営の一貫として副業的に製炭に従事していたこと、製炭者が南・北宇和郡のように薪炭商の支配下になかったことなどがあげられる。この地域のくぬぎ林の育成は、大洲藩の第二代藩主加藤泰興の奨励に起源すると伝えられているが、その植栽が本格化したのは、明治末年からである。くぬぎは製炭者が自山に育成するものが多く、芽かぎ・枝打ち・つる切り・下草刈りなど、極めて集約的に管理された。八年から一〇年程度で伐期齢をむかえるが、萌芽更新によって次のくぬぎ林を育成するので、伐採は冬季に限られる。この地域の農家が冬季の三ヶ月ないし四ヶ月間の副業的製炭に従事したのは、くぬぎ林の萌芽更新と深く関係している。また、製炭者が薪炭商から独立した自営製炭であったのは、自山のくぬぎ林に依存した副業的な製炭と関連するところが大きい。それは南・北宇和郡のように国有林の払下げ原木に依存した専業的製炭でなかったので、原木資金を薪炭商から前借りし、それを通じて薪炭商に従属することはなかったのである。
        
 製炭業の衰退

 愛媛県の製炭量は昭和三二年の五万八九〇一トンの生産を最高として、急速に減少する。四〇年には最盛期の一八・八%の一万一〇八三トン、四五年には六・二%の三六八四トン、五四年にはついに〇・三%の一六〇トンにまで減少した。燃料革命のあおりを受けて、製炭業は全県的に急激に衰退するが、薪炭林の樹種転換率製炭者の転業などは地域によって相違がある。
 南・北宇和郡では、かし・しいなどの木炭原木であった天然広葉樹林は、すぎ・ひのきなどに樹種転換したものが多いが、私有林には従来のままの天然広葉樹林として放置されているものも多い。専業的製炭者のなかには地元での労働力需要が少ないことから、大阪方面などの大都市地域に向けて離村した者が多く、製炭業の衰退が人口過疎化の引き金とたったところも多い。一方、肱川流域では四〇年ころには、くぬぎ原木の転換が大きな問題になったが、その後のしいだけ栽培の隆盛から、しいだけ原木に転換されたものが多い。製炭者自身も、製炭業からしいだけ栽培に転換した者が多く、南・北宇和郡のように、製炭業の衰退に伴って挙家離村が続出した例はあまり見られない。