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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 周桑・西条平野の稲作

 県内第二の稲作地域
  
 周桑・西条平野は松山平野に次ぐ県内第二の稲作地域である。周桑・西条平野を構成する東予市・丹原町・小松町・西条市の昭和五六年の米の生産量は二・二万トンに達し、県内の二〇%を占める。平野は中山川・加茂川の形成する沖積平野であるが、海抜五m、ほぼ国鉄予讃線のあたりを境界に山麓側は扇状地、海岸側は三角洲に区分することができる。三角洲前面には近世の干拓地が広く展開する。水田は扇状地の部分では二毛田の乾田が多く、三角洲・干拓地の部分では一毛田の湿田が多い。西部の周桑平野は扇状地が卓越し乾田が多いのに対して、東部の西条平野は三角洲が卓越するので湿田が多く分布する。気候は瀬戸内気候で夏季の晴天に恵まれ、最暖月の気温は二七度Cにも上がり、稲作には好適な条件を提供する。ただ年降水量が一四〇〇ミリ程度と少ないので、透水性の大きい地形条件とも相まって周桑平野ではしばしば旱ばつに見舞われた。

 灌漑水利の特色

 灌漑水源は大明神川・中山川・加茂川の表流水と伏流水、それに山麓に構築された溜池に頼っている。大明神川・中山川流域の周桑平野の昭和三〇年ころの灌漑水源の比率は表流水五五%、溜池一四%、伏流水三〇%となっている。西条平野は加茂川の表流水と伏流水が豊かで、溜池灌漑はほとんど見られない。扇状地の末端に、「打抜き」と称する自噴泉が見られ、これが灌漑水源として重要であった。この自噴泉も旱天続きになると水位が下がり、灌漑水の取得に苦労するところもあった。中山川下流の周布村(現東予市)はその典型的な事例である。この村には三〇余か所の泉があったが、旱天時には水位が下がり、水車やハネつるべを用いて揚水せざるを得なかった。これらの重労働から農民が解放されたのは、大正初期に動力ポンプが導入されて揚水が可能になってからである。大正三年(一九一四)以降昭和二六年の間に一五のポンプ組合が相次いで設立された。四〇年に完成した道前・道後の水利事業はこの地域の灌漑水の不足を解消した。

 品種の変遷

 周桑・西条平野の稲作技術は松山平野などから導入されたものが多く、明治・大正年間には松山平野より技術的には低位にあった。米の単位面積当たり収量も松山平野より少なかったが、県内では松山平野・今治平野などに次いで高い地位を保ってきた。昭和五六年の米の一〇アール当たり収量を見ると四五〇から四七〇㎏程度で、松山平野に比べて約五〇㎏程度低い(図4-9)。稲の品種では晩生種が多く栽培されている。昭和三〇年ごろには、農林一八号や伊予旭などが多かったが、五五年には松山三井が圧倒的な比重を占める(表4-4)。松山三井は昭和一七年愛媛県農事試験場で人工交配によって育成された品種であり、昭和二八年県の奨励品種となり、さらに四八年より国の銘柄米に指定された。その栽培面積は四五年以降東予地方を中心に伸び、四五年には県内第一の栽培品種となっている。その特性は大粒で食味がよく、収量も多い。しかし、長稈で倒伏性が大きく、イモチに弱いことが欠点である。この平野に松山三井の栽培が多いのは、夏季晴天が多くイモチ病の発生が少ないこと、また台風の襲来が少なく稲の倒伏が南予地域に比べて少ないことなどによる。

 大規模稲作農業

 周桑・西条平野の稲作の経営規模は県内で最も大きい。東予市や西条市の沿岸地区には稲の単作地帯もあり、これらの地区では稲作農家は平均八〇から九〇アールの稲を作付している。とくに近世の干拓地として有名な西条市禎端地区は機械化一貫体制の大規模な稲作地区として有名である。農業機械の普及率も県内で高いところである。耕うん機は昭和三〇年ころから、乗用トラクターは四〇年ころ、バインダー・コンバインは四五年ころ、田植機は四七年ころから、それぞれ急速に普及する。五五年の稲作農家に対する田植機の普及率は六三%、バインダーは五四%、コンバインは二三%に達し、これは松山平野より高い。兼業農家の比率は松山平野以上に高いが、農地の貸借や請負耕作、農作業の委託は松山平野よりかなり低い。五五年現在周桑・西条平野で稲作を請負わせた農家数の割合は八・六%にすぎない。育苗施設も、西条市農協に育苗能力二〇〇haの施設があるのみで、周桑平野にはみるべきものはない。周桑・西条平野の稲作農家で育苗施設に依存する農家は一〇%にしかすぎない。また工業化の影響をうけて兼農化が著しいが、農地の貸借・作業受委託などはあまり見られず、兼業収入で得た資金で農機具を購入し、農業経営を維持している。農地への執着が強く、他人に土地を貸したがらないのは東予地域の農民意識の特色を示すと言える。