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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

三 土地利用

 土地利用の特色

 愛媛県は山がちな地形で、森林面積に比べて耕地面積は狭い。昭和五五年の耕地率は一四・二%で、全国の一四・七%に比べてやや低い。耕地面積七万三四八haのうち、田二万八九〇一ha(四一・一%)、畑六〇四三ha(八・六%)、樹園地三万五四〇四ha (五〇・三%)で、樹園地の割合が多いのが愛媛県の特色である。その樹園地の内訳では、果樹が九五・二%まで占め、茶・桑園その他の樹園地などはとるに足らない。果樹園が全耕地面積に占める比率は四七・九%に達し、全国的にも和歌山県の五五・七%に次ぐ高率で、三位の山梨県の三二・七%を大きく引き離している。
 三五年現在の耕地面積は、田四万五五四ha(五二・六%)、畑二万二五六三ha(二九・三%)、樹園地一万三九一八ha(一八・一%)で、樹園地率はそれほど高くなかった(表4―3)。田の面積は戦後は三二年が最高で、その後は減少を続けている。とくに四六年に始まる米の生産調整と、五三年に始まる水田利用再編対策は、県内の田の面積を著しく減少させた。
 畑の面積は自給作物が栽培されていた三〇年代までは多かったが、経済の高度成長期における樹園地への転換や耕作放棄などによって著しく減少した。一方、樹園地は、三五年以降急激に増加する。三六年に農業基本法が制定されたことから、県内でも果樹が選択的拡大作目として栽培が奨励された。その増加は山林の開墾、畑や水田からの転換などによる。かくして全耕地に占める果樹園率は三五年の一五・八%から、四〇年に二七・九%、四五年四〇・五%、五〇年四六・九%と急増を続けた。しかしながら、近年はみかん価格の低迷から果樹園の増加は停滞し、五〇年から五五年の間にはおずかながら減少している。

 土地利用の地域差

 愛媛県の土地利用は自然環境の差異を反映して地域差が大きい。経済の高度成長期以前には、自然環境との対応のもとに土地利用の地域的差異が大きかった(図4―4)。まず田は東・中予地域の平野に広く分布する。なかでも松山平野をはじめ周桑・西条平野、今治平野などに面積が広く、新居浜・宇摩の諸平野にもかなり連続的に分布する。一方、南予の肱川流域・広見川流域では、山間の谷底平野に帯状に広がる田が多い。南予で田の比較的広いのは宇和盆地と鬼北盆地である。
 畑は東・中予の島しょ部と山間地域、それに南予の沿岸部に広く分布する。東予の越智諸島では、大島・大三島・伯方島のように海岸ぞいに浜堤などで閉じこめられた小平野があって、田が開けているところもあるが、多くは集落背後の緩斜面が畑として利用されてきた。中予の忽那諸島においても同じような状況であった。東・中予の山間部は、四国山地の険しい壮年期の地形でV字形の谷がするどくうがち、谷底平野の発達が悪く、集落と耕地は山腹の緩斜面に立地する。耕地は集落の周辺部に常畑が、その背後に焼畑がみられた。畑は平坦地を選んで開いたので、山腹緩斜面に集落をかこむようにして点在するのを特色とした。また、段畑の分布は佐田岬半島から南の高知県境に達したが、高いところは高度三〇〇m、傾斜は四五度にも達するものがあった。
 樹園地のうち果樹園は、南予の沿岸部、東・中予の島しょ部、松山平野の山麓部などにまとまって分布する。
南予の沿岸では八幡浜市と吉田町が柑橘栽培の核心地であり、この二地区に特に集中が著しく、これに次ぐのがなつみかん栽培の盛んな三崎町であった。東・中予の島しょ部のなかでは、岡村島(関前村)、中予の中島・興居島などが柑橘栽培の先進地であって、樹園地率が特に高い。松山平野の山麓部では、旧久米村や砥部町・伊予市の山麓部に早くから果樹栽培が始まる。周桑平野の丹原町・小松町の山麓部には愛宕柿を中心に樹園地が広がっていた。
 桑園は肱川流域に最もまとまって分布し、大洲盆地では氾濫原や自然堤防上に、野村盆地では河岸段丘上に桑園が広い。茶は東・中・南予の山間部などに部分的にみられるが、面積が狭く、分布図に表現されるに至るほどのものはほとんど見られない。

 土地利用の変化

 県内の土地利用の地域的な差異は、経済の高度成長期の間に大きく変貌した。東・中予の島しょ部の畑はほとんど樹園地に転換し、南予の沿岸部の畑も、条件の悪い地区を除いて樹園地に変わったものが多い。樹園地の増加したところは松山平野・周桑平野の山麓部や、肱川流域・広見川流域など中予から南予にかけての中低山地の山間地にも多い。前者は柑橘園の増加した地区であるのに対して、後者はくりの増加した地区である。一方、耕地が耕地放棄された地域も広くみられる。その代表的な地域は、東・中予の山間部と南予の沿岸部である。東・中予の山間部では山腹の緩斜面に普通畑が展開していたが、交通条件が悪く、機械化農家にも不向きなところから、人口流出に伴って耕作放棄をみた。また南予の沿岸部でも風の強い岬端部や離島では樹園地化が進まず、耕地は一方的に耕作放棄されたものが多い。
 昭和三五年から五五年の二〇年間の耕地の増減率を旧市町村別にみると、耕地の増加率の高いのは、東・中・南予の果樹地帯である(図4―5)。これらの地区は普通畑が果樹園に転換をみたばかりでなく、山林の果樹園に開墾されたものが広いことをも物語っている。一方、耕地の減少率の大きいのは、東・中予の山間部と南予の宇和島以南の沿岸部、それに今治・新居浜の都市近郊である。東・中予の山間地域は人口流出にともない生産性の低い山腹斜面の畑が耕作放棄されたもので、宇和島以南の沿岸部も、養殖漁業が盛んになるにつれて、生産性の低い段畑が耕作放棄されたものである。都市近郊の耕地の減少は、都市的土地利用の進展に伴う農地の壊廃によるものである。山間地域では、南予の山村が東・中予の山村に比べて耕地の減少率が低いが、これは谷底平野の発達がよく、そこに水田が広く展開すること、地方都市の工業化が充分でなく、労働市場が小さく、農業への依存性が高いことなどと関係している。

 耕地利用率の変化  

愛媛県の耕地の利用率も経済の高度成長期の間に大きく変化した。高冷た山間部があるとはいえ、全般的に気候温暖な県内では、耕地利用率は全般的に高かった。昭和三五年の愛媛県の耕地利用率は一六六・〇であり、全国の一四〇・四より二五・六%も高かった。耕地利用率とは、一枚の耕地が何回利用されるかを示すもので、三五年には平均一・六六回利用されたことを物語っている。その耕地利用率は、高度成長期に、永年作物の果樹栽培面積が増加したことと、田においても畑においても裏作の麦が放棄されたことなどによって急激に低下していく。四〇年に一三八・六であったものが四五年には一一九・四、五○年には一〇七・七にまで低下した。
 耕地利用率にも地域差があり、三五年当時は東・中予の平地部が高く、南予の山間部が低かった。東・中予の平地は扇状地の平野で、排水良好な二毛田が多かった。これらの地区ではおおむね裏作の麦・野菜などが栽培さ れていたので、耕地利用率は一六○から一八〇という高率であった。一方、南予の谷底平野や山間盆地は、排水不良な一毛田が多かったので、東・中予ほどは裏作が普及せず、耕地利用率は一三〇から一五〇と低位に甘んじていた。
 このような耕地利用率の地域差は、高度成長期の間に、ほとんど解消されてしまった。東予の平地農村が、恒常的勤務を兼業とする農家の増加などによって裏作が放棄されたのに対して、南予で農業に重点をおいている野村町・肱川町・内子町などでは裏作率があまり低下していないことが、このような結果をひきおこしたといえる。

表4-3 愛媛県の経営耕地面積の推移

表4-3 愛媛県の経営耕地面積の推移


図4-4 愛媛県の土地利用図

図4-4 愛媛県の土地利用図


図4-5 愛媛県の耕地の増減率の分布(昭和35~55年)

図4-5 愛媛県の耕地の増減率の分布(昭和35~55年)