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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

一 人口の変化

 一〇〇年間の人口の変化

 愛媛県の人口は、明治一三年(一八八〇)に八三万余であったものが、一〇〇年後の昭和五五年には一五〇万を超えて一・八倍の増加をみた。日本における人口の本格的な調査は、大正九年(一九二〇)の第一回国勢調査からで、この年には一〇四万余であったが、その後六〇年間に一・四四倍となった。しかし、人口の増加率は、五年ごとに行われる国勢調査によると、徐々に低下し、昭和一〇年から一五年の増加率は最も低くわずかに一・一九%であった。
 第二次大戦後は、帰村や外地からの引き揚げなどによる人口急増がみられ、増加率も一〇%を超えたほどの異常さで、昭和三〇年には一五四万余と史上最高の人口を数えた。その後、経済の高度成長期に全国的な現象となった地方から大都市圏への人口移動は本県でも現われ、いわゆる向都離村現象が人口減少をもたらすこととなった。それは昭和三〇から四五年の間に逐年減少をみせることに反映されることとなり、一三万人近くの減少をみせた。
 経済の高度成長期にみせた人口の都市集中は、全国的な人口移動であったが、昭和五〇年代に入ると、移動した人口が再び出身地やその周辺の地方都市へ帰ってくる現象が起こった。この現象のうち前者がいわゆる人口のUターンであり、後者はJターンとよばれている。愛媛県もその例外ではなく、総人口は昭和五〇年以降少しずつ増加し、五五年の一五〇万余はほぼ二〇年前のそれに相当する(表3-1)。

 全国人口の一・三%

 県内総人口の全国のそれとの対比から、愛媛県の地位の変化を国勢調査からみてみよう。人口の総数が全国に占める割合は、大正時代に一・九%代であったが、昭和に入ってはわずかながら変動した。しかし、戦後は低下をつづけ、ついに四〇年には一・五%となり、その後は一・三%にまで低下した。人口の県外流出は、その割合を低下させることとなり、五五年の順位は四七都道府県のうち二八位となった。このような変化は一k㎡当たりの人口密度にも反映されて、昭和三五年までは全国平均より高かったものの、四〇年以降は全国平均値の上昇においつかず、五五年では全国平均三一四人に対して、二六六人と八五%にまで低下し、全国二四位である。
 大正九年(一九二〇)を一〇〇とした全国の総人口はほぼ順調に増加をとげてきたのに対して、愛媛県のそれは昭和三〇年を最高値として五五年には一四四と低い。つまり人口増加のすう勢は極めて低調であって、全国のそれとの較差がますます広がってきたことを示す。また対前年増加率も同じく低い(表3-2A・B)。

 市町村別人口の変化

 戦後の人口の県内における変化を市町村別にみてみよう。第二次大戦後の人口急増期を経て、一応の安定をみせた昭和三五年を基準として、その後の二〇年間について県内七〇市町村の人口の変化をみた。この二〇年間は比較的短期間とはいうものの、愛媛県にとっては激しい人口変動をみせた期間であったことはすでにふれた。すなわち、三五年から四〇年には、当時の七三市町村のうち実に六九市町村が人口減少をみせた。この間の県内平均減少率は二・六%であったが、なかでも面河村をはじめ広田村・内海村・宇和海村(現宇和島市)・魚島村では二〇%以上の減少で、増加をみせたのは松山市・今治市・松前町・波方町であった(図3-1)。四〇年から四五年の間は、県内平均が三・六%の減少で最高となったが、なかでも二五%以上の減少率をみせたのは別子山村を最高として柳谷村・魚島村・面河村・新宮村・宇和海村などである。人口減少が著しいのはあい変らず山村を主に広く農山漁村に及んでいるが他方、増加をみせたのが一三市町村に増加し、県内で減少と増加を示す両極分化の傾向が生じたことは注目してよい。この傾向は次の四五年から五〇年の間にも顕著にみられた。人口減少はいぜんとして別子山村をはじめ面河村・広田村・柳谷村・新宮村などの山間僻地の村で激しく続いたのに対して、大西町や重信町・砥部町・松前町など、松山市や今治市の周辺で人口の急増をみた。これは都市人口の郊外への拡散、都市化が進展した結果である。人口の増加した市町村の数も二一ヘと急増し、県内総人口も一五年ぶりに増加に転じたのである。
 五〇年から五五年の間には人口増加市町村の数は、さらに増加して三一を数えるに至った。その反面、二〇%以上の著しい人口減少をみせた市町村がなくなり、減少率も低下傾向を示した。この人口増加市町村の多くは、前期間と同じように松山市や今治市の周辺にいぜんとしてみられた(図3-1)。

 人口増減のパターン

 人口の変化は、地域的相違を伴って現われてきたが、これを昭和三五年を一〇〇として、以後、五年ごとの人口総数の変化を単位としてその増加傾向をみると、次の七つのパターン(類型)に分けることができる。
 第一は連続増加型を示す市町であって、いずれの時期にも増加の一途をたどっている。これには松山市をはじめ、松前町・今治市・波方町の四市町がある。なかでも最高の増加を示したのは松山市であって、五五年の値は一五三・三、松前町の一二六・六がこれに次ぐ。第二の型は減少から増加に転じ、それが継続しているものである。減少を示したのは、四〇年だけで、その後は、微増を続けてきた新居浜市・川之江市・北条市・小松町、急増をみせた砥部町・重信町・大西町がこの型に入る。後者の三町は松山市に次いで人口増加が著しく、五五年の指数は、砥部町一四七・八、重信町一三六・五、大西町一三三・七である。第三の型は、過去二〇年間のうち前半に減少し、その後増加に転じたものである。このパターンを示す七市町のうち、前半の減少が少なく、後半の回復によってほぼ三五年の人口を維持している西条市・伊予三島市・伊予市・東予市・土居町と、後半に増加をみせたものの、これまでの減少が激しく回復をみせていない保内町と御荘町がある。第四の型は、生名村と弓削町にみられるもので、人口の減少から増加に転じたものの再び減少となる。これは主として、造船業の不振が影響したものとみてよい。第五には五五年まで減少の一途をたどってきたが、五五年にようやく増加に転じたもので、宇和島市をはじめ大洲市そのほか南予地域の町村が主であって、二市一三町村を数える。人口の増加をみせたとはいうものの、五〇年までの減少が著しかったことから、回復には相当の期間を必要とするものとみてよい。それには地域の経済状況の好転が期待されよう。六番目の型としては、減少を基調とはしているが、一時期に増加をみせたものがある。これはわずかに伊方町だけの特殊な現象といえる。同町が五〇年に増加をみせたのは原子力発電所の建設にともなう労働力人口の流入によったものである。
 人口がいぜんとして減少を続けているのが第七の型であって、市町村は三六を数え、県内の過半にも達している。同じように連続減少のパターンとはいうものの細かくみると、減少率の低い八幡浜市・丹原町・伯方町・菊間町・岩城村などと、急激な減少のあとで減少率が低くなった三瓶町・吉海町・三崎町・関前村など二〇町村がこれに相当する。これらのほか、広田村や魚島村・別子山村など一〇町村は、減少の影響が最も著しいもので、増加はおろか昭和三五年当時に対しても回復が困難で、人口過疎を代表する町村である。

表3-1 愛媛県の総人口の推移

表3-1 愛媛県の総人口の推移


表3-2 愛媛県の国勢調査人口の推移(大正9~昭和55年)(A)

表3-2 愛媛県の国勢調査人口の推移(大正9~昭和55年)(A)


表3-2 愛媛県の国勢調査人口の推移(大正9~昭和55年)(B)

表3-2 愛媛県の国勢調査人口の推移(大正9~昭和55年)(B)


図3-1 愛媛県の市町村別人口増加率

図3-1 愛媛県の市町村別人口増加率