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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

5 松山平野と周桑・西条平野

 松山平野の地形

 県内最大の面積をもつ松山(道後)平野は、伊予灘に面して高縄半島のつけ根に発達する。東西約二〇㎞、南北約一七㎞のラッパ状の形態をなしていて、平野の中央やや南よりには重信川が東から西に流れている(写真2―17)。
 平野は全体として扇状地性で、温泉郡川内町付近を要として重信川本川のつくる扇状地が良好に発達している。重信川には左岸側から拝志川や砥部川が、右岸側からは石手川とその支流などが合流する。石手川や小野川によってつくられた扇状地も顕著に発達し、左岸側の河川沿いには数段の河岸段丘がはっきりと認められる。また、松山市北梅本町や畑寺町付近などには古い扇状地が河川の侵食によって段丘化したものや、比較的広い平坦面とそれを囲む崖が良好に発達する洪積台地も認められる。平野中央部には扇状地の伏流水が地表に顔を出し、野津合泉や竜沢泉など多くの泉が分布している。これらの湧泉は現在でも灌漑用水や飲料水(上水道水源)として利用されている(図2―17)。平野の西部では扇状地的な性格も弱まり、比較的低湿な地域も分布する。松山の市街
地の南部から西南部にかけての地域や、北部の堀江にかけての低地には古くから水田が開かれており、奈良時代の条里制の遺構と考えられる方形の地割りが認められる。
 松山市堀江や三津浜の海岸付近、伊予市の市街地から重信川の河口付近にかけては、細長く帯状に連なる畑の列が認められる。畑の土は砂利によって構成されているが、これらは古い時代の波うち際に打ち上げられた砂や礎が海岸線に平行に堆積したもので、その後の海岸線の移動によって内陸側にとり残されたものである。縄文時代前期頃には、海面の高さが現在よりも二~三m程高かったと考えられており、当時の海岸線は現在よりも内陸側にあったとされている。松山平野にみられる昔の海岸線の跡も縄文時代およびそれ以降の時代のものであると思われる。また、重信川河口の北側にあたる松山市西垣生町から北吉田町にかけての地域には、かつて小規模な砂丘が発達していたが、現在は整理され、松山空港や帝人愛媛工場などの敷地として利用されている。

 周桑・西条平野の地形

 中山川や大明神川などによって運ばれた土砂が堆積してできた周桑平野と、加茂川や室川の運搬した土砂が堆積してできた西条平野とが連続して一つの平野を形成したのが県内で第二位の面積をもつ周桑・西条(道前)平野である。東西約二〇㎞、南北約三・五㎞(東縁)~一三㎞(西縁)のひろがりをもち、西部の周桑平野はほぼ正三角形、東部の西条平野は扁平な台形を示している(写真2―18)。
 周桑平野は扇状地の発達が良好で、平野の南部を流れる中山川ばかりでなく、大明神川や中山川の支流である関屋川によっても典型的な扇状地が形成されている。扇状地を流れる河川は一般に荒れ川で、人々は洪水を防ぐため古くから堤防を築いてきた。その結果、堤防によってはさまれた河床には上流から運ばれてきた砂礫が厚く堆積し、河床が次第に上昇して天井川が形成される。周桑平野の大明神川では天井川化か特に箸しく、ここを通過する予讃線は河床の下をトンネルでくぐりぬけている(写真2―19)。これに対して、西条平野では扇状地の規模は小さく古くから湿田地帯が広く分布している。
 両平野とも地下水が豊富で、特に西条市の市街地では地下水の自噴がみられる。また、海岸部は遠浅で、江戸時代から干拓による新田開発が進められてきたが、最近は埋め立てにより工業用地の造成がおこなわれている。