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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 東西にのびる山麓線

宇摩平野南縁の山地斜面

 国道一一号線に沿って新居浜市と土居町との境界を東に進むと、東西に細長くのびた幅のせまい宇摩平野がある。北側には燧灘がひろがり、南側には台地が発達し、法皇山脈の山麓がせまっている。(写真2―3)。
 この法皇山脈の北斜面を斜めから遠望すると、山頂近くから山すそまでほぼ一定の傾斜となっていて、あたかも傾斜をもった壁が延々と続いているように見える。同時に、この山地斜面と平野とが交わる境界線がほぽ一直線に連なっていることにも注目したい。
 法皇山脈の北斜面は、山地を刻む河川によって浸食され、多くの谷の発達をみる。従って、この斜面を真正面からみたときには、前述したような特徴はなかなかつかみにくい。しかし、谷と谷とにはさまれた山地の北向き斜面は、ちょうど傾斜を持った三角形の面が横一列に並んだような状態になっていることに気づく。このような斜面の形は三角末端面とよばれ、断層によってつくられた斜面が浸食されたときにできる特徴的な形態である。同様の三角末端面は、新居浜平野や西条平野の南縁部にも発達している(写真2ー4)。

 中央構造線に沿う大断層崖

 建設省国土地理院が撮影した土居町から伊予三島市にかけての空中写真(部分)には、北から順に燧灘、宇摩平野、法皇山脈の北斜面が写っている。宇摩平野には国鉄予讃線、国道一一号線のほか、多くの民家や各種の建造物、農地などを見ることができる。燧灘には小河川から排出される土砂の流れや、沿岸を航行する船舶とその航跡などが、そして、山地には林地、農地、道路など、上空から見えるすべてのものが写しだされている(写真2ー5)。
 この写真でまず注目したいのは、山地と平野との境界がまさに一直線に連なっていることである。もちろん地形図でも等高線の密度と形で山地と平野の違いが表現されているが、空中写真で見る方が極めて明確に把握できる。更に、口絵のページにある人工衛星から写した四国の写真では、宇摩平野の南縁が空中写真でみるよりもはるかにシャープで直線状となっている。この境界は、西方の周桑・西条平野にもつづいており、東方へは吉野川の谷沿いに、西片へは松山平野の南縁に沿って双海町・長浜町の海岸線にまで連続している。
       
 中央構造線

 日本列島の地質図をみると、四国の地質は全体としてほぼ東西方向に配列している。そのうち、北部の中生層とその南側に幅広く連なる変成岩との境界は、先に人工衛星写真で見たシャープな地形上の境界と一致している。
 明治時代の初期、ドイツ人の地質学者E・ナウマンが来日した。彼は東大地質学教室の初代教授や地質調査所の技師長を勤めたが、日本各地の地質調査にも従事し、地形を大局的に把握した上で日本の地質構造を論じた。そして、日本列島には、本州を東北日本と西南日本とに分ける大きな地溝帯と、西南日本を南北に分ける大規模な地質の境界とが存在することを明らかにした。前者が大地溝帯(フォッサマグナ)、後者が中央構造線(メディアンライン)である。
 大地溝帯は新潟県糸魚川付近から静岡付近にかけてほぼ南北に走る構造帯であり、中央構造線は長野県諏訪湖付近から、天竜川・豊川・紀ノ川・吉野川沿いに走り、愛媛県北部、大分県の佐賀関半島北側を経て、熊本県八代付近にまで達する第一級の断層である。中央構造線によって西南日本の地質は内帯と外帯とに分けられ、中央構造線の北側が西南日本内帯、南側が外帯とよばれている(図2-4)。
 ところで、すでに四国北部には顕著な地形的・地質的境界が存在することを述べた。この境界こそがナウマンの発見した中央構造線である。中央構造線の存在により、愛媛県の地質はその北と南とでかなり異なり、山地や平野の分布とその形態など地形の特徴も内帯と外帯とでかなりの相違をみせている。また中央構造線に沿って発達する山地の北斜面は、大局的にはほぼ一定の傾斜をもつ一連の壁のような形態をなしている。その斜面の概形は、中央構造線の活動によってつくられた断層崖であり、燧灘に面して発達するこの断層崖は石鎚断層崖とよばれている。

図2-4 日本列島の地質構造

図2-4 日本列島の地質構造