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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

一 日本のなかの愛媛

 地理的位置

 全国四七都道府県の一つである愛媛県は、南北に細長い日本列島をつくる四つの大きな島のひとつ四国の西部にあって、一般に言うところの西日本に属している。経緯度では、県のほぼ中央、今治市の南で東経一三三度と北緯三四度とが交差する。日本の国土で最北ならびに最東端となっている北海道とでは、経緯度ともに一〇度以上の差がある。これは、愛媛県が日の出や日の入りの時刻をはじめ、気候が東北方の日本と著しく異なっていることを物語る(図1-1)。
 愛媛県の面積五六六七K㎡は、四国の三〇%に相当するが、これは、徳島・高知・香川など他の三県に比べると高知県につぐ広さである。これに対して人口は他の三県をはるかにしのいで一五〇・七万を数え、四国の三六%を占めている(昭和五五年国勢調査)。
 県土は四国山地を背に全体として北向きまたは西向きで、瀬戸内海および豊後水道・宇和海に臨んでいる。四国山地は嶮しい地形が多く、四国の他の三県との県境にも利用されている。これに対して瀬戸内海では、越智諸島や上島諸島・忽那諸島など多くの属島があって、それぞれ広島県や山口県の島じまと狭水道(瀬戸)を隔てて向かい合っている。また九州との間には、日本で最も長い半島といわれる佐田岬半島が西に延びて、豊予海峡を隔てて佐賀関半島と相対している。

 交通位置の変化

 県庁のある松山市は、県のほぼ中央に位置するとともに、県内のみならず他の四国三県との間においても、交通の要に当たっている。
 四国の主要幹線道路である国道一一号、三三号、五六号、ならびに一九六号は、いずれも松山市を終点として四方から集まっているし、これら国道沿線には八幡浜市以外の一一都市が発達している。国鉄予讃本線は、四国で最も重要な幹線鉄道であるが、その通過する瀬戸内海沿岸や宇和海沿岸などでは、いぜんとして県内一二都市が駅前をその表玄関としている。
 四国外との交通は、海運が主で、対本州とでは今治市や松山市が旅客・貨物輸送の結節地となっている。ことに自動車航送のフェリーボートが盛んになったことは、従来の港の機能を一変させたばかりではなく、貨物輸送に占めるトラックの割合を増加させ、しかも県内各地にフェリー基地を出現させて、中距離航路への就航を促した。交通機関の発達は、言いかえれば、交通手段の選択が多くなったことで、これは四国内交通よりも対本州・九州との間で著しい。さらに松山空港の整備によって、中四国地方で最初のジェット旅客機の就航をみたことは、交通に要する時間距離を著しく短縮させた。
 松山市を中心に半径三時間の円を描くと、県内の主なところはこの中に入ってしまう。そして、高松市へは鉄道で三時間、自動車で四時間、高知市へも自動車で三時間ほどで到達する。これが四国外との交通となると、一段と時間距離は短縮される。
 水中翼船で呉市や広島市は僅か一時間二〇分ほどであり、三原市・尾道市も今治市から同じく一時間ほどで到達する。この本州側の諸都市を経由して、山陽新幹線を利用すると京阪神地方や北九州地方へはかなりの時間距離の短縮が可能となる。さらにジェット旅客機では、松山空港から大阪・福岡は五〇分ほどで、東京は一時間二〇分、宮崎・鹿児島も同じである。さらに北海道へは東京経由で搭乗時間三時間ほどにしかすぎない。
 交通に要する時間距離の短縮は、自然距離に基づく地理的位置に対する感覚や意義を大きく変えることとなった。例えば、戦後に国鉄予讃線に初めて準急「せと」が昭和二九年に運行されることになったが、当時の松山・高松間は三時間三六分を要したし、二六年に国鉄バスが松山・高知間に急行を登場させたが、それは何と六時間を必要とした。現在までの時間距離の短縮は、結局、県庁のある松山市と県内の主要な地域を一日行動圏に入れてしまって、自然距離のもつ抵抗は減少しつつある。これは明らかに、愛媛県内各地が互いに近づきやすくなり、人や物や情報の移動を容易にさせている。
 しかも、ジェット旅客機や水中翼船、新幹線、高速道路など、新しい交通体系が本州や九州に登場したことの時間距離短縮効果は著しくなって、松山市の例では、高松・徳島・高知あるいは宇和島や川之江などの四国内や県内の都市との間よりも、大阪・名古屋・福岡・東京など三大都市圏や山陽地方との交通を便利にした。これら新しい高速交通機関は、愛媛県をして全国的な幹線交通網に組み入れることとなって、経済、社会、文化の各局面に地域的な結びつきを強めることになったのである。

 日本のなかの愛媛

 愛媛県が西日本の、しかも瀬戸内海に面した地理的位置にあることは、日本の文化的発展の大きな回廊地帯の一隅におかれてきたという意味のほうが大きい。瀬戸内海は、その昔には九州と大和を結ぶ交通路としてあり、近代から現代にかけては、日本の資本主義経済発展の大動脈となってきた。愛媛県の発展は、まず海上交通で国内の先進地となった近畿地方や山陽、九州地方と結びつき、これら地域の発展の波及をうけたことにあった。
 関東地方南部から東海、近畿地方を経て、瀬戸内海沿岸から北九州におよぶ東西に延びた地域を、日本の経済発展のうえで太平洋ベルト地帯とよび、発展の軸となっている。愛媛県は、このベルト地帯に沿っていて、特に松山市から以東の中予・東予地方はベルト地帯とのかかわりで発展してきた。それは、四国のなかでも、いち早く工業化が進み、都市への人口集中をみてきたところであるが、この発展は、むしろ阪神と九州との中間に位置することを有利な条件として発展してきたものである(図1-2)。これに対して、南部の宇和海沿岸は、この発展の軸の外縁にあって、交通が不便で、産業発展でも見るべきものがなかったが、戦後は、その地理的環境を生かしての農業や水産業の特産地化を進めてきた。むしろ四国西南地域として水資源の豊富さや、気候の温暖なこと、外洋に連絡する港湾など、これからの開発に可能性の大きなところとして、全国的にも注目をあびている。
 愛媛県が全国にその名を広めているもののうちで、数量のうえから客観的に認められるのは農林水産物である。まず、はだか麦の生産は香川県についで二位にあるのをはじめ、柑橘類ではほとんどが首位にある。みかん・ネーブルオレンジ・伊予柑がそれで、夏みかんは熊本県と肩を並べ、はっさくも和歌山県についで生産が多い。このほかの果実では、びわとくりがともに二位にある。水産物では、ハマチ(ぶり)の養殖生産と真珠母貝ならびに真珠の生産でも全国第一位を誇っている(昭和五四年)。
 このように、農林水産物の生産で優位を誇ることは、愛媛県が商品作物生産に特化した食料供給基地としての地位を築いてきたといってもよい。それは、気候や土壌など自然的条件のうえで適地であることのほかに、栽培技術の向上や市場開拓など経済条件を有利に展開してきた努力の結果である。生産のほかに経済・社会・文化の各側面から愛媛県が全国的にどの程度の位置にあるかをみてみよう。
 まず、基礎的な指標として面積や人口の全国に占める地位を評価の基準にしてみる。面積は全国の一・五%を占め、広さでは二六位、人口は同じく一・三六%を占め、二八位、人口密度は全国平均より低く、人口集中地区人口の割合は三八%で、全国二一位とやや高い(表1-1)。全国四七都道府県のなかで、順位が二〇番代にあるのは中位県であることを物語っている。
 経済活動のうえでは、農業や工業の生産で二三位、商業販売額では三四位と落ち、結局、県民所得水準は全国平均の八三ポイントしかなく、かなり低位の県となっている。社会環境の整備水準では、公共下水道普及率が最も低く、医師数やベッド数では順位が高い。しかし、文化環境の指標では、博物館・美術館を除いて全国平均をかなり下回っている。
 これらの諸指標では、全国的にみて愛媛県は経済的に中進県にあるものの、社会的、文化的環境の水準はかなり低位で、これは経済発展の遅れが影響を及ぼしているものとみてよい。

図1-1 愛媛県の位置と瀬戸内海地域

図1-1 愛媛県の位置と瀬戸内海地域


図1-2 日本の国土開発計画

図1-2 日本の国土開発計画


表1-1 愛媛県の全国的地位

表1-1 愛媛県の全国的地位