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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)水軍の祭りで島おこし

 海運の盛んだった近世には、瀬戸内海を行き交う船や人でにぎわっていたが、明治時代から始まる鉄道や陸路の発達により、瀬戸内海の海運も変化してきた。さらに昭和30年代以後は、越智郡の島々では過疎が深刻になってきた。しかし、昭和時代後半から、架橋時代に入り瀬戸内の島々にも陸路としての意義が考えられるようになってきた。特に、越智郡の島々では、平成11年度のしまなみ海道の開通に向けた、新たな動きが出始めた。その一環として、島にその痕跡を残す水軍文化を掘り起こし地域らしさをアピールし地域の活性化を目指そうとする、2島(大(おお)島・伯方(はかた)島)3町(吉海(よしうみ)町・宮窪町・伯方町)の共催による水軍レースと大山祇(おおやまずみ)神社の参道を舞台に時代絵巻を繰り広げる大三島町の三島水軍鶴姫(つるひめ)祭りがある。

 ア 瀬戸内新時代に漕ぎだす水軍レース

 **さん(越智郡宮窪町余所国 昭和20年生まれ 54歳)
 昭和60年代に入り全国的にふるさと創成の機運が高まってきた。越智郡の大島にもそれが表れてきた。その一つに、宮窪町の町おこしグループ「水軍ふるさと会」がある。その会の初期から中心的な役割を果たしてきた**さんに会の歩みから水軍レースがどのようにできたかを聞いた。

 (ア)水軍ふるさと会の始まり

 「昭和60年ころは、大分県の『一村一品運動』に影響を受けて全国的に町おこしブームだったのです。大島の吉海町にも地域おこしの会である『吉海会』というのがあり、宮窪町でもその吉海会の人から勧められて町おこしを始めることになったのです。昭和62年(1987年)に始めたときの会員は約10名でした。そして、できることからしていこうということになりました。宮窪町のキャッチフレーズは『能島(のしま)水軍ロマンの里』であり、水軍資料館や400年前の村上武吉の居城であったといわれる能島もあるので、水軍にこだわった町おこしをしようということで、会の名称は『水軍ふるさと会』ということになりました。
 水軍ふるさと会ができて、最初に行ったのは、昔能島から隣の鵜島(うしま)の今はなくなった矢島(やしま)という磯に向けて弓の練習をしていたという言い伝えがあるのですが、実際に届くか確かめてみようということで、昭和62年に地元の高等学校の弓道部の先生や生徒たちに試し打ちをしてもらったことです。それが、水軍ふるさと会の最初のイベントであり水軍弓道大会の始まりだったのです。最初は、能島に実際に渡って行っていたのですが、参加人数も多くなり、能島での運営が困難なため、宮窪町石文化運動公園で大会を行うようになりました。この大会は、今では県下でも指折りの大会になっています。今は、大島弓友会と地元の高等学校が主催で開催しています。しかし、水軍ふるさと会では、できれば昔のように能島で行ってほしいと思っています。」

 (イ)大河ドラマを呼ぶ会

 「昭和63年(1988年)4月には、宮窪町能島で今治青年会議所主催による『若者大いに語れ』という花見を兼ねた交流会があり、わたしも参加しました。その会の中で、村上水軍のNHK大河ドラマ化をして地域の活性を図ろうという意見が出ました。それに対して、地元が音頭を取れば、ここに参加しているグループはみんな協力するということになりました。
 ちょうどそのころは、NHK大河ドラマに取り上げてもらった地域には、多くの観光客が来るようになっていたのです。だから、町おこしにはそれが一番手っ取り早いということになったのです。しかし、水軍ふるさと会だけでは力不足なので、3島5町の商工会青年部と協力して、『大河ドラマを呼ぶ会』を結成しました。
 そして、昭和63年10月には会の活動資金の調達と署名活動を兼ねて、映画の興業を3島5町で行いました。『島民1人1枚出そう葉書作戦』ということで署名の葉書も1万5千枚集めて、同年11月にはNHKへ水軍のドラマ化をお願いに行きました。その時に、『大河ドラマに取り上げるにはいろいろな条件が必要なのです。例えば、視聴者は半数が女性だから、女性がある程度出る物語であるか、地元に物語当時の自然が残っているか、当時の資料があるか、地元の協力体制はどうかなどです。』と言われました。
 その後、NHK大河ドラマを誘致するために、平成元年に6回の村上水軍勉強会を開きました。そして、5年間地元の協力体制作りなどの活動をしたのですが、結局、大河ドラマを呼ぶことはできませんでした。しかし、この活動を通して、3島5町の人たちの連携が取れてきたのではないかと思います。」

 (ウ)水軍小早船の建造

 「『大河ドラマを呼ぶ会』は直接の目的は果たせませんでした。しかし、次に5町の町長さんに、水軍和船を建造し、平成2年10月に開催される国民文化祭『海のフェスティバル』に水軍レースを行うことを提案したのです。そして、平成元年8月から水軍和船建造の会合を数回開き、水軍和船建造に向けての話が進展していたのですが、途中足並みがそろわなくなり中止になりました。そこで、宮窪町だけで水軍和船を建造するようになったのです。
 平成2年5月には宮窪町役場で水軍船建造研究会を開きました。宮窪町に伝わる海賊時代からの早船や伯方町にある造船の注文業者が独自で研究したものに、日本で有数の和船研究家のアドバイスを加えて、船の図面が完成しました。同年6月には、水軍レース大会運営に向けての参考に、ご老人たちに聞き取り調査を行いました。このご老人たちは、今はなくなってしまった櫓(ろ)船で速さを競う『押し船競争大会』に当時選手として活躍していた人たちです。そして、ついに同年8月には、船が完成し造船所で進水式を行った後、宮窪漁港まで漕(こ)いで帰りました。
 初めは、全長8mくらいの船を5人で押して(櫓を漕いで)レースをしたのですが、速さを競いますので一つの櫓を一人で漕ぐのは大変なのです。そこで、一つの櫓を二人が漕ぐ全長10mほどの5丁櫓(ちょうろ)の船を2隻新しく造ったのです。この5丁櫓の船の推進力は強くて、大潮の時の急流でも軽く乗り越えることができました。昔は、漕ぎ手がそれぞれに上手だったのですからもっとすごい早さだったと思います。
 櫓は、取梶友櫓(とりかじともろ)(1丁)・取梶櫓(2丁)・脇櫓(わきろ)(2丁)の5丁櫓で、後ろの梶取りの役目を果たす取梶友櫓を漕ぐ役は一番上手な人なのです。素人の人ばっかりのチームの場合は、なかなか前に進まないので、梶を付けてもいいということに去年(平成10年)からなりました。しかし、上手な人ばっかりのチームの場合は、梶を付けるとかえって遅くなるようです。」

 (エ)能島水軍レースの盛り上がり

 「平成2年10月の国民文化祭『海のフェスティバル』では、日本各地の和船競争が披露されるなか、能島水軍レースも行いました。その時に、レースを盛り上げるために、宮窪町漁業協同組合の協力を得まして、63隻の漁船で村上水軍の軍船編成を模擬実施するなか、新しく建造した2隻の和船に龍の作り物を載せレースが行われました。
 平成3年8月には、水軍ふるさと会主催で第1回能島水軍レースを行い、男子15チームに参加してもらいました。翌平成4年の第2回能島水軍レースは、男子24チーム、女子2チームの参加でした。この大会から音響効果の向上や女子チームの参加などイベントとしての幅が広がったように思います。平成5年からは、3町(吉海・伯方・宮窪町)主催の第1回水軍レースを開催しました。男子42チーム、女子4チームの参加でした。これが民間放送局から1時間番組として放映されたのです。すると、当初は、参加を頼んだりしていたのですが、翌平成6年からは、参加チームが2倍になりました。平成9年には、参加チームが79チームとなり、これ以上多くなったら、大会運営ができないというくらいになりました。今年(平成11年)は男子70チームに制限しましたが、女子チームは11チームですので、もっと多く参加してもらったらと思っています。」

 (オ)水軍レースの魅力

 「この水軍レースへの参加資格は、基本的には健康な人であれば、年齢・性別は問わず、だれでもいいのですが、高校生以下の人は保護者の同意書をもらっています。また、1チームは櫓1丁に二人ずつの漕ぎ手10名と、ドラをたたいて合図をする1名と、船と船を離すために使う長い竿(さお)である見竿(みさお)を持つ1名の、合計12名が必要です。さらに、船には指定されたチームの旗(縦2m60cm以内・横70cm以内)を取り付けること、櫓を漕ぐ10名の衣装をそろえることが必要です。
 競技方法は、宮窪港の沖合の直線コース200mを5チームが一斉に漕ぎ、その中の一番早かったチームが勝ち残っていくトーナメント方式です。組み合わせは、最初は職業別にしていたのですが、平成9年からは、すべて抽選でするようになったのです。しかし、年配で漕ぐのが上手な人からは、もう少し距離を長くしてくれないと差が出ないという意見が出ました。因島水軍レースは距離の長い(2km)マラソンのようですが、こちらは短距離走なのです。そして、このレースのいいところは、スポーツというと普通若者が強いのですが、この水軍レースにおいては、櫓の操作に熟練しているお年寄りのほうが強いということです。だから、お年寄りは若い者には負けんぞと頑張るし、若い者は年寄りには負けんぞと頑張るのです。また、庵治(あじ)町(香川県)、玖珠(くす)町(大分県)、宮島町(広島県)など県外からも参加してもらうようになりました。
 ただ、レースで一番心配しているのは、海の上ですので、人が落ちたり指を挟んだりする事故です。そのために、周りには警護の漁船に待機してもらっているのですが、そういったことも町挙げてできるようになってきました。」

 (カ)水軍を通した交流の輪

 **さん(大分県玖珠郡玖珠町 昭和28年生まれ 46歳)
 **さん(大分県玖珠郡玖珠町 昭和26年生まれ 48歳)
 水軍レースのもたらしたよい面は、一つの地域の地域おこしにとどまらず、他地域との交流につながり、その輪を広げていることである。その様子を宮窪町の「水軍ふるさと会」と交流をしている、大分県玖珠郡玖珠町の町おこしグループ「くるしま水軍軒先市」の**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)『くるしま水軍軒先市』では毎年11月に県内外の町並みや市(いち)の研修に行くのですが、平成5年の研修場所を玖珠町のルーツである来島水軍(*17)ゆかりの地と決めたのです。そして、来島水軍のあった瀬戸内地域の地域おこしグループに交流を呼びかけました。すると、宮窪町の水軍ふるさと会が応じてくれました。そこで、平成5年10月に『くるしま水軍軒先市』から200名が参加しまして、第1回水軍交流会を宮窪町石文化伝承館で行いました。この様子は、九州の民間放送局によって九州全域に放映されました。」
 「(**さん)昨年(平成10年)大分県であった国民文化祭では宮窪町から持って来ていただいた水軍和船を台車に乗せて、水軍ふるさと会の方たちに鎧兜(よろいかぶと)を身に着け行進に参加していただきました。水軍レースへの参加は、平成7年水軍シンポジウムが宮窪町でありそれに参加して以来、毎年となりました。水軍レースも初めはお付き合いで参加していたのですが、最近は交流会への参加も合わせて、楽しみにしています。」

 (キ)平成の厳島合戦参戦記

 「(**さん)平成9年のNHK大河ドラマ『毛利元就』のなかに、村上水軍も登場するということで、大河ドラマを呼ぶ会の願いが実現しました。そこで、『厳島合戦』をテーマにして大三島から広島県宮島町にある厳島神社まで、2日間かけて水軍小船を押して行くことにしました。実際には、海上の鳥居を2隻でくぐってはいけないとか、いろいろな制限もありましたが、厳島神社の宮司さんの理解を得られ、成功することができました。しかし、あの鳥居を水軍の船がくぐるのは、厳島合戦以来はじめてだそうで、感動しました。
 よそからの借り物ですぐにできるイベントは、すぐに他の大きなイベントに負けていくと思うのです。地域に根ざした地道なイベントは、そこでしかできないというので強いと思うのです。だから、これからも水軍にこだわって行っていきたいと思っています。」

 イ 平成の時代絵巻

 **さん(越智郡大三島町宮浦 昭和21年生まれ 53歳)

 大三島町には日本総鎮守である大山祇(おおやまずみ)神社があり、昭和時代の初期までは、参拝客を運ぶ船の着く宮浦(みやうら)港と参道に当たる宮浦新地(しんち)商店街は参拝客でにぎわっていた。昭和30年(1955年)には、鏡(かがみ)村と宮浦村が合併し、翌年には岡山(おかやま)村と合併し現在の大三島町ができている。昭和31年には、戸数2,916戸、人口1万3,147人であったが、平成11年の統計(「統計からみた愛媛県の地位」平成11年度版、愛媛県統計協会)では戸数2,062戸、人口4,746人と激減している。昭和40年には、フェリーが就航するようになり、観光客も年間25万人となった、さらに昭和46年には宮浦と宗方(むなかた)間にバスが開通した。昭和50年代には、交通手段が船から車に代わり、商店街にある旅館への宿泊客は減るが、情報化時代とも相まって、大山祇神社の名前は全国に知れるようになり、観光客は増加してきた。昭和54年には大三島橋が開通をするなど、陸路の整備に伴って観光客も50万人と増加している。しかし、これをピークに観光客は昭和57年には35万人、昭和60年には30万人と減少している。平成11年のしまなみ海道開通以降の新しい観光時代を迎えて、地元の活性化への取り組みを、**さんに聞いた。

 (ア)三島水軍に鶴姫あり

 「この大三島町では、昭和62年より県の補助事業を受けて、宮浦港での花火大会をしていたのです。しかし、どこでもしているようなことではなく、何か他と違ったイベントを考えようということで、商工会が中心になって、検討会を開き、大山祇神社ゆかりの鶴姫を題材にしたイベントを考えてはどうかという意見が出ました。そして、検討を重ねて、大内軍との戦の出陣を再現したイベントを実施することになったのです。」
 この鶴姫は、大山祇神社大祝家の息女として生まれ、生来利発だったので人々から三島神社の化身と信じられていたという。天文10年(1541年)三島水軍が周防(すおう)大内軍を迎え撃った合戦で兄の三島城陣代(じんだい)祝安房が討ち死にした。その時、留守を預かる鶴姫は男も及ばぬ兵術で全軍を指揮、敵を撃退したという。その後、陣代となった一族の越智安成は、三たび攻め寄せた大内軍との激戦で壮烈な最期を遂げた。安成と恋仲であった鶴姫は夜襲をかけて敵を敗走させた。しかし、意中の人を失った姫は、城に帰ったその夜、一人で小船を漕ぎ出して入水して果てたといわれている。大山祇神社の数多い宝物の中でも異彩を放つ『紺糸威(おどし)胴丸』(国指定重要文化財)は、悲しい海のロマンを秘めて若くして散った鶴姫が、大三島合戦に着用した胴丸であると伝えられている。

 (イ)三島水軍鶴姫祭りの始まり

 「(**さん)昭和20年代までは、大山祗神社の春と秋の例大祭は、宮浦の町が4月と10月の祭りでめしが食えるというくらい盛んでした。特に春の例大祭には、入り江の中が大漁旗を立てた漁船でいっぱいになり、参道は人がいっぱいでまともに歩けないぐらいのにぎわいでした。しかし、その例大祭も、祭礼の行われる日が休みでなくなったり、交通体系の変化や過疎になってきたということで、だんだん寂れてきたのです。そして、商店街の方でも何か人を呼ぶようなことをしてほしいといった意見が出てきたのです。そこで、島の観光ピーアールも兼ねて、平成7年の大山祇神社の旧暦4月の春季例大祭に合わせて、三島水軍鶴姫祭りは行われることとなったのです。平成9年からは、大三島町の年間のイベントが、4月の終わりに大山祇神社横の藤公園で行う藤祭り、5月には大山祇神社の春の例大祭、9月から10月にかけては各地区の秋祭りがあり、6月から8月にかけてはイベントが何もないということで、その間に開催することになりました。さらに、盆のころには周辺の地域で人集めのイベントがあるし、御串(みくし)山の下にある鶴姫に縁のある阿奈波(あなば)神社の例大祭に日程を合わせようとしました。しかし、ちょっと難しいので、8月の第4土曜日と翌日曜日にしたのです。
 次に、鶴姫の行列づくりをどうしたらいいのかということでいろいろ考えました。最初の開催年である平成7年には、人を集めなくてはいけないということで、我が子を見に親御さんたちが集まるようにと町内の小学校4年生以上の小学生全員に出てもらいました。そして、地元の銀行からも出ていただき、関係の人や役場の協力もあってどうにか行列の形にしたのです。しかし、さらに盛り上げようと、秋の例大祭に参加している各地域の人たちにも参加してもらったのです。3年目の平成9年からは、鶴姫行列を中心に行うようになり、小学校4年生以上の小学生全員と中学校1年生を入れた150名前後の行列にしたのです。この行事は、小学校の学校行事にも入れていただいており、小学生の思い出づくりにもなっています。
 また、鶴姫祭りは、鶴姫行列が中心なのですが、大三島の人たちに島では見れないような民俗芸能も見てもらおうということで、毎年、県下および周辺の県の伝統芸能の人たちを招いて、さまざまな芸能を演じてもらっています。また、芸予諸島物産展というのも開いています。」

 (ウ)平成の行列仕立て

 「行列の形態は、全国の時代行列を行っている所に見学に行き、参考にしました。行列のことですから見栄えも必要ですからいろいろ工夫しています。行列の中心になる鶴姫をどこに配置するかで苦労しまして、最初の2年間は、鶴姫を先頭にして行列の人たちと一緒に歩いてもらったり、後ろにしてみたりしました。また、だれが鶴姫か分からないということで、船型の山車をつくってそれに鶴姫に乗ってもらうようにしました。行列は5隊で構成していますが、鶴姫の乗る山車の配置は、年によっていろいろ変えます。昨年(平成10年)は最後の隊の前に配列しました。鶴姫役も、最初は銀行の女性行員になってもらったり、地元の娘さんになってもらっていたのですが、それでは話題性に欠けるというので、平成9年から新聞で公募するようになりました。また、平成9年からは、衣装を夏でもあるし海賊のことだからもっと簡単なものにしました。鎧兜(よろいかぶと)や衣装は業者に借りますが、それ以外の弓や長刀(なぎなた)や槍(やり)などの小道具は宮窪町の水軍資料館などに見に行って参考にして作りました。
 昨年(平成10年)は、午後2時からコミュニティセンターで行列に参加する人たちの着付けをしました。鎧兜は貸衣裳屋に来てもらって着付けてもらい、子供たちの着付けはお母さんたちに手伝ってもらいました。そして、午後4時ころには着付けも済み、宮浦港の新桟橋広場を太鼓の音を合図に出発して、宮浦の踊り子連40名を先頭に、御串通りを通って新しくできた県道大三島上浦線を通って大山祇神社まで行進しました。行列の到着後、その年に呼んでいた肱川(ひじかわ)町の山鳥坂鎮縄(やまとさかしめ)神楽や日吉(ひよし)村の花とび踊りや瀬戸田町の島衆(しましゅう)太鼓を公演してもらいました。その後、行列参加者全員で神社に参拝し、その後、行列が再び出発しました。
 行列の1隊は、烏帽子(えぼし)姿の少年武者、鎧兜の武将、戦国小姓(こしょう)の少女、胴丸の武将、16名の雑兵などで構成しました。鶴姫は準鶴姫2名や雑兵5名が乗る船型の山車に乗り行進しました。
 行列は、神社を出発した後、商店街を通り御串通りを通って、宮浦港桟橋に到着し、港では点灯されたかがり火の下で、用意された8隻の船に乗り合わせ、阿奈波神社(写真3-2-30参照)に海上より参拝した後、解散となりました。今年(平成11年)は、しまなみイベントの大三島武者歴史祭りの行列が鶴姫祭りの行列の後ろに続きました。
 大山祇神社への参拝も船の時代は宮浦港から商店街を通っていたのが、車の時代になってからは、商店街を通らずに参拝するようになりました。それで、こういったイベントを行い、商店街に人を呼ぶようにと考えています。しかし、鶴姫行列が通るときには人が商店街にたくさん集まるけれども、それが済むと、人がいなくなるという問題もあります。また、大山祇神社への観光客は、阿奈波神社や入り日の滝などの大三島の他の観光地をあまり知らないので、これからは、そういった観光地も観光パンフレットなどをつくってもっと宣伝しないといけないと思っています。その一つの取り組みとして、商店街や阿奈波神社までの海岸線に灯籠(とうろう)を整備して(写真3-2-30参照)、夜には灯をともして風情を演出しているのです。」


*17:今治市波止浜沖の来島を拠点とした村上水軍(因島・能島・来島)の一つで、1855年には来島(村上)道総が羽柴秀吉
  のたすけを受けて、伊予の野間・風早地域を治める1万4,000石の大名となり戦国の世を生き抜いた。関ヶ原の戦い
  (1600年)以後、豊後森(現在の大分県)に移封され、久留島と改称した。

写真3-2-30 阿奈波神社から宮浦港までの海岸線

写真3-2-30 阿奈波神社から宮浦港までの海岸線

平成11年7月撮影