データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の祭り(平成11年度)

(1)しらうおが人を呼ぶ

 南予地方の新春の風物詩の一つとして、津島町の岩松(いわまつ)川でのシラウオ漁が挙げられる。シラウオとはシラウオ科の小魚で、分布上は北海道・本州北部・中部地方および韓国で、愛媛県には生息しない。愛媛県でシラウオと呼ばれているのは、正しくはハゼ科のシロウオのことである。このシロウオは春先に産卵のために海から河口へのぼってくる。それを宇和島では四ツ手網によって、岩松川河口では手引き網によって漁獲する。シロウオは、三杯酢で生きたまま食べる「踊り食い」で有名である(以下シラウオと呼ぶ)。そのシラウオをテーマに地域おこしを目指した新しい祭りが始まった。その中心的な役割を果たしているのが「てんやわんや王国」という名前の職域や年齢等の枠を越え、津島町を挙げて組織されたグループである。ここでは、新しいタイプの地域おこしグループ「てんやわんや王国」の活動をとおして、このグループが「しらうお&産業まつり」を盛り上げ地域の人たちのまとまりをつくっていった様子を探った。

 ア てんやわんや王国の始まり

 **さん(北宇和郡津島町上谷 昭和14年生まれ 60歳)
 **さん(北宇和郡津島町嵐  昭和24年生まれ 50歳)

 津島町は、作家獅子文六(1893~1969年)(*1)が太平洋戦争末期から約3年間を岩松で過ごし、その体験を基に創作した小説「てんやわんや」で有名である。獅子文六は、この小説の中で当時の岩松の風情を、「それは山々の屏風(びょうぶ)で、大切そうに囲われた陽(ひ)に輝く盆地であった。一筋の河が野の中を紆(めぐ)り、河下に二本の橋があり、その片側に銀の鱗(うろこ)を並べたように人家の屋根が連なっていた。いかにもそれは別天地であった。」と表現している(①)。その「てんやわんや」の地に、新しいタイプの地域おこしグループができた。その様子を、現在「てんやわんや王国」の大統領であり、それに創設以来かかわってきた**さんに聞いた。
 「てんやわんや王国は、昭和61年(1986年)度地域小規模事業活性化推進事業として、国・県の指定を受けて、商工会を中心に『むらおこし実行委員会』という組織をつくるところから始まったのです。この組織の活動の目的は、若者たちに自らが率先して地域づくりに参加しなければいけないという信念を植えつけることでした。そこで、この組織を構成する人材として、津島町の明日を担う各種団体の若者を集めようということになりました。そして、商工会を中心にPTA関係の人、青年団、役場の有志、商工会婦人部の代表の人たちに、主旨を説明して賛同を得たのです。この事業は1年間でしたが、特産品の開発、観光開発、人材育成、意識啓発や津島の宣伝など、地域活性化の糸口としていろいろな成果を収めました。
 この事業の期限は1年間でしたので、1年が過ぎれば委員会を解散することになっていました。が、町の方から、『せっかく活気のあるグループができたのだから、町もバックアップするからぜひ続けてほしい。』という要請がありました。そして、委員会に諮りましたら、委員会の方でも『続けてしよう。』ということになったのです。
 そこで、むらおこし実行委員会が1年間の活動の締めくくりとして、昭和62年4月に、『てんやわんやシンポジウム』を開催し、実行委員会の事業報告や21世紀に向けての町づくりに対する具体的な提言を出したのです。そして、このシンポジウムを機会に、むらおこし実行委員会という名前では堅苦しいので、もっとなじみやすくて人が集まりやすいユニークな名前にしようということになりました。そこで、獅子文六の『てんやわんや』で町を宣伝しているのだから、『てんやわんや王国』にしようということになったのです。
 組織としては、王国だから国王や女王がいるだろうということで、国王は町長に、女王には昭和25年(1950年)の映画『てんやわんや』に出演していた主演女優になってもらったのです。そして、閣僚としては、むらおこし実行委員会の委員長が大統領になり、以下ユニークな名前の閣僚をつくり、若い人たちをその長としたのです。例えば、連合青年団代表はエネルギー大臣、農業後継者協議会代表は農業栽培大臣、PTA連合会代表は文部大臣といった具合です。」

 イ しらうおまつりの始まり

 昭和62年の「てんやわんや王国」建国から、「しらうおまつり」へと展開していった王国の活動の様子を**さんに聞いた。
 「建国当時の王国の活動としては、むらおこし実行委員会でおこした二つの事業がありました。それは、『第2回四国西南磯釣り大会』と岩松川の川原を会場とした『つしま夏祭り』です。さらに新しいイベントも次々と企画し実行する予定でした。
 毎月20日に会員による定例会議(王国閣僚会議という)を開きます。その会の中でいつも津島町らしいイベントはないかとみんなで考えていたのですが、産業祭りのようなことをしたらという話が出てきたのです。そして、津島町を流れる岩松川に新春にそ上してくるシラウオを食材にしたいろいろな郷土料理を紹介して、試食してもらう『しらうお祭り』が考えられたのです。
 第1回しらうおまつりは、昭和63年(1988年)2月14日に岩松川の川原で行いました。しかし、当時の川原は、まだ現在のように整備されていませんでした。そこで、何日も前から会員が持っているブルドーザなどで川原の小石を集めて、平たんに整備して会場としました。郷土料理を販売することについては、会員の中に飲食店を経営している人を中心に何回か会合を開いて、保健所からの認可を得るようにしました。正午から始めた祭りは、好天にも恵まれまして、予想以上の来客で1時間ほどで料理は完売になりました。」

 ウ グルメの町宣言

 南予には、海の幸や山の幸を使った独特な郷土料理が数多くある。津島町にも、生活改善グループが10ほどあり、定期的に郷土料理をつくる会を開いている。しらうお&産業まつりにおいてもそのいくつかが披露されている。津島町としても、平成元年12月3日にはグルメの町宣言をして、特色ある郷土料理を観光宣伝の中心とするようになった。その経緯について、**さんに聞いた。
 「津島町には、昭和60年(1985年)の南楽園(なんらくえん)(*2)開園とともに観光協会ができ、その中に町内の各団体の代表者からなる観光推進部会ができたのです。その部会で、てんやわんや王国から『郷土料理を県内外に広くピーアールをして観光振興に努めてはどうか。』という提言をしました。その話が進んで、平成元年12月6日に、郷土料理を1か所に集めて紹介するとともに観光パンフレット用の写真撮影をする『美味進歩(おいしんぽ)』というイベントを開催することになったのです。主催は町観光協会で、企画はてんやわんや王国と東京にある地場産業研究所で行うことになったのです。
 イベントへ招待した人々の中には、津島町と交流をしていた沖縄県の地域おこしグループの一沖会のメンバーや沖縄市観光協会の人たちもいました。
 グルメの町宣言をした以上は、郷土料理に誇りを持ち、町内外に対して積極的に宣伝していかなくてはいけないと思いました。」

 エ てんやわんや王国の活動

 てんやわんや王国は、町内の若者や女性を会員として、さらに異業種間の枠を取り払って、地域に密着した組織をつくってきた。その様子を現在てんやわんや王国官房長官である**さんと大統領の**さんに聞いた。
 「(**さん)平成元年度の王国人事では、町内6地区(岩松、清満(きよみつ)、御槇(みまき)、畑地(はたち)、下灘(しもなだ)、北灘(きたなだ))の声を反映させるために、『州知事制』を正式にスタートさせました。また、地域に根ざした活動を進める基本方針を決めました。さらに、てんやわんや王国の情報誌も発行するようになりました。この年に、てんやわんや王国の会員も入っている町のお父さんのグループが、町おこしの目玉として日本一の観光案内板をつくろうと計画しました。そして、6か月かけて町内の名物・名所を約380個のヒノキ材のパーツ(部品)に彫刻して、それらを集めて一枚の案内板にして津島大橋近くの交通広場に展示しました。
 平成2年には、てんやわんや王国のテン(10)とワン(1)にちなんで10月1日をてんやわんやの日に定め、鍋を囲んで津島町を語り合う『とっぽ(*3)鍋の集い』を開くようになりました。
 毎月の第3日曜日にする朝市や秋のいもたき会も現在はにこにこ朝市会や料飲組合がするようになりましたが、火付け役はてんやわんや王国なのです。」
 「(**さん)てんやわんや王国は、今は、大分県玖珠(くす)郡玖珠町のふるさとキャラバン隊と交流をしています。県内の地域おこしのグループとの交流も盛んに行っており、越智郡宮窪町の水軍レースや上浮穴郡久万町の久万山御用木まつりにも参加しています。
 町内で、さまざまな職業の人が集まって何かの行事をするという団体は、てんやわんや王国だけです。これは、普段情報のやり取りのない異業種間の交流ということであり、町の活性化に対して非常に意義があります。しかし、てんやわんや王国も、今までは新しい団体であり失敗しても許されるところがあったのですが、このように町内に定着してきた以上は、これからは失敗が許されないと思っています。」

 オ しらうお&産業まつりを通して

 **さん(北宇和郡津島町稲中 昭和26年生まれ 48歳)

 津島町の祭りとして定着してきたしらうお&産業まつりの様子について、現在てんやわんや王国の観光開発政務次官でもある**さんに聞いた。
 「昭和61年(1986年)から町産業振興課の方でも、産業祭りを南楽園でしらうおまつりとは別に行っていたのですが、平成元年に一緒に行うことになりました。南楽園イベント広場でしらうお&産業まつりとして始まりました。今年(平成12年)で11回目になります。現在の会場は、役場前の岩松川お祭り川原です。
 祭りを始めたころは、歌手を呼んだりいろんなイベントをしていました。しかし、ここに来るのはシラウオの踊り食いなどの郷土料理を食べに来るお客さんが多いので、それならということで、特に食にこだわった祭りにしたのです。ただ、来てもらった人に楽しんでもらおうということで、昨年(平成11年)は高知県からチンドン野市という昔なつかしいチンドン行列をするグループを呼んだり、太鼓の競演や牛鬼などのアトラクションを催しました。
 しらうおまつりコーナーでは、シラウオ料理(踊り食い・お吸いもの・雑炊)と郷土料理(六宝・にゅうめん・シシ鍋・キジ鍋・スッポン鍋・さつま汁・まるずし・巻きずし・いなりずし・じゃこ天)を合わせて7,000食くらい準備しています。毎年、祭りの期間中の午後2時半くらいまでは食べ物があるようにと予定しているのですが、正午前には売り切れてしまいます。
 しらうおまつりコーナーのシラウオの踊り食いは、この祭りの目玉ですので人気があり、よくでますので、準備しているシラウオがなくなる時があります。その時には、津島大橋から上流の岩松のバスの停留所までの岩松川河口で、三つの業者がシラウオ漁をしていますので、そこからシラウオを補充しています。また、山の幸でシシ鍋用のイノシシの肉などは、猟友会にお願いし手に入れています。
 お客さんは、町内の人よりも町外の人が多く、特に松山市や東予地域、県外のお客さんが多いのです。これは、旅行会社がグルメツアーの募集をして大型バスで来ているからです。
 シラウオが川に上がってくるのはこの岩松川が県内でも一番早くて、一月中旬から始まり、最盛期が1月の下旬ころです。ですから、祭りの開催日はそれに合わせているのです。2月10日以降になると、ほとんど上がってこなくなります。業者の人も、『しらうおまつりが済んだら、シラウオもぱったりとれなくなる。』と言っています。この祭りのように、開催日を自然のリズムに合わせている祭りも珍しいのではないかと思います。
 産業祭りでは、商工コーナー、農協コーナー、漁協コーナー、森林コーナー等のテントが40張りほど必要なので大変です。11月に入ったら実行委員会を開いて準備しないと間に合わないのです。テントは、細長いお祭り川原の会場の両端に並べるのですが、そこに1万5千人くらいの人が来ますので、会場は身動きがとれないくらいです。
 グルメ券(食券)を買ってもらった人に1枚のお楽しみ抽選券も出しておりまして、その抽選で一等に当たった人は津島の特産品の真珠を10個差し上げています。その他の商品は、津島町特産の山の幸や海の幸などを含めて70種類くらいあります。ここでも、津島町の特産物の宣伝に努めているのです。
 冬場だからこそ食をテーマにこれだけの大きい祭りができますが、夏でしたら衛生面で難しいと思います。」

 カ 岩松川の自然を守って

 岩松川は、篠山(ささやま)県立自然公園の一部を水源にして津島町を東から西に貫流している。この川は、シラウオのそ上をはじめ、オオウナギ(*4)やエビや力二などが生息する自然豊かな川で住民の憩いの場である。
 その河口の右には、岩松干拓地が水田として昭和36年に造成された。そして、ここは入植農家が機械化稲作農業を推進し、南予の早場米地帯として知られていた。しかし、ここは新全国総合開発計画の一環として、南予レクリエーション都市(*5)の整備によって、昭和53年(1978年)以降はその用地として買収され、都市公園として建設されてきた。
 昭和62年以降、お祭りの会場となっている岩松川の川原は住民の積極的な活動によって自然が守られている。その取り組みについて、**さんに聞いた。
 「てんやわんや王国の活動に刺激されて、いろんな組織ができたのですが、その中に平成2年から民間のいろんな団体を集めて『岩松川を未来に残す会』というのができました。その会では、岩松川の水質保全のために自然工法を使って、川の自然を残す保全工事について研究をし提言をしました。そして、上流の森林維持のために緑のオーナー制度を設けて、町内外の人たちに基金を出していただいています。森林を維持することは川の保護になるのです。
 また、地域住民、役場、てんやわんや王国で協力し合って岩松川の清掃活動を行っています。その成果により、岩松川の川原には空き缶やゴミがほとんど落ちていません。」


*1:本名岩田豊雄、横浜市出身の作家である。太平洋戦争末期の昭和19年に妻シヅ子の郷里北宇和郡岩松町(現津島町)に
  疎開し、昭和22年まで住んだ。この岩松生活中に得た、南国的題材から『てんやわんや』(昭和23年刊)『大番』(昭和
  31年刊)を発表した。戯曲・演劇評論のほか、フランス近代劇を日本に移しかえた功績は大きく、またユーモア小説のほ
  か本名による文芸批評でも力を発揮した。
*2:南予レクリエーション都市構想の一環として、津島町北灘湾北岸の低湿地を利用して、昭和60年に開園した、総面積
  15.3haの日本庭園である。
*3:とっぽとは、愛媛県の南予地域の方言で、とほうもないとか、奇妙きてれつ、人をアッといわせて笑わせる、でたらめな
  どを意味する言葉である。
*4:ウナギ科の魚で、カニクイともいい、大きいもので全長1.8m、体重20kg余りある。南太平洋から東アフリカにかけて広
  く分布し、日本では琉球列島から房総半島にかけて、黒潮の影響を受ける地域に分布している。愛媛県では、北宇和郡津島
  町岩松川のものが有名で、昭和43年に県の天然記念物に指定されて、保護されている。
*5:宇和島市・吉田町・津島町・内海村・御荘町・城辺町・西海町にまたがる3万3,098haを計画区域とするレクリエー
  ション活動のための大規模都市公園である。昭和45年度から調査、図化にかかり、同47年5月に全国で三番目のレクリ
  エーション都市に指定され、事業に着手された。