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愛媛の祭り(平成11年度)

(3)もとの名は男神子四国神楽

 宇和島市及び北宇和郡一帯の各神社の春秋の祭りに舞われる神楽が伊予神楽である。その保存伝承には、同地域の神楽奉仕の神職のみで組織されるかんなぎ会(神奈岐会)が当たっている。伊予神楽は、その伝える神楽本の一節に「いつの頃よりか神代の祈事を学んで男神子(おかんこ)(*11)四国神楽の申伝也(もうしつたうなり)(⑥)」とあることから、古くは男神子四国神楽と呼んでいて、後に伊予神楽に改名したという。宇和島市伊吹(いぶき)町の八幡神社に、元文3年(1738年)宇城板嶋郷(いたじまごう)(宇城は宇和島城下、板嶋郷は現宇和島市域北西部の郷)八幡神社神主渡邊豊後守源清綱編の神楽本があり、その中に記されている「伊予神楽舞歌幷(ならびに)次第目録」の内容がほぼ現在のこの神楽と同じであるので、かなり以前から現状の神楽が執行されていたと考えられる。神楽の次第は三十五番をもって構成され、その組織はよく整っている。また、はやしは大太鼓、締太鼓(*12)、銅拍子(*13)、横笛で奏し、その演奏法には地方的特色があるといわれ、さらに出雲(いずも)流採り物神楽の代表的なものの一つとして、古風をよく伝承し、その演技・演出法も優れているといわれている。そうしたことから、昭和36年(1961年)に愛媛県の無形文化財に指定され、同52年に無形民俗文化財に指定替えされた。昭和56年1月には、国の重要無形民俗文化財の指定をうけ、今日に至っている(②)。
 **さん(宇和島市大宮町 昭和7年生まれ 67歳)
 **さんは、現在宇和島市の宇和海沿岸部の下波(したば)の神明(しんめい)神社、戸島(とじま)の天満(てんま)神社、日振島(ひふりしま)神社など各神社の宮司を勤めるとともに、かんなぎ会の会長として伊予神楽の保存伝承に尽力してきた。

 ア お祭りににぎわいを

 (ア)家祈禱(やぎとう)のこと

 宇和島市の西部約20km、宇和海の洋上に戸島がある。この島の本浦(ほんうら)と小内浦(こじうら)の2地区では、家祈禱が行われている。この家祈禱について**さんに聞いた。
 「家の祈禱を家祈禱といいます。今年病人があったとか、じいさんが死んだとかいうので、お祓(はら)いをするんです。昔からといっても、わたしが知ってから60年くらいになりますが、それ以前にはなかったと思います。お祭りが済んでから、申し込みのあった家々を回るんです。2地区で今は戸数が約150戸、毎年70戸くらいを5時間くらいかけて回るんです。各家の床の間のあるところでご祈願し、畳の上で神楽を舞う。ご祈願と神楽は同じに終了し、かかる時間は5分くらいです。
 わたしは7歳のときから家祈禱に行ってます。その当時、大太鼓をずうっと鳴らしますと、家の中がブンブン鳴って随分振動するんです。すると、天井からすすや壁から土がポロポロ落ちてくるんです。太鼓をたたく人がお神酒を飲んでいて、悪魔払いをしなければいかんと言って力を入れてたたくので、舞い上がるほこりが目に入ったことを思い出します。今はそんなことはありません。その当時は、『イモにカイボシ(サツマイモにイワシの干物)』が主食という家が多かったんです。だからドンドン薪(まき)をたいてイモを蒸したりしていました。当時はきれいなクド(かまど)もないから、家の中に煙がたちこめていた所が多くて、すすが大分かかっていたんです。それでも一般にすす払い、悪魔払いという信仰というんですか、ちゃんとしてもらわないかんというんで、神楽、特に式三番(しきさんば)の舞は神と家々が交流する大切な行事だから、どうしてもせないけんのです(しなければいけない)。式三番の舞の中の扇と鈴、妙剣の舞の太刀をするんです。
 この地区では神主が二人行けば家祈禱ができるんです。一人がご祈願し、一人が神楽を舞い、太鼓は氏神さんの大太鼓を持ち込んで、昔から氏子の人がおはやしをするんです。氏神さんでは、おばあちゃんでも『お参りに来ました。』と言って『トトトン トトトントン トントントン』と太鼓をたたくんです。太鼓をたたくことは鈴を鳴らすのと同じように、今お参りしましたよと神様へ合図をするという習慣があったんです。そういうことで、皆さん大太鼓と小太鼓とがたたけるし、手拍子(銅拍子のこと)はだれでもできますからね。そういう風に日ごろからしている地区ですから、神楽団が行かなくても神主が二人行けば神楽ができるんです。氏子連中ではやしができるから、大蛇(おろち)の鬼の舞なんかも神歌と掛け合いの神主が一人いればできるわけです。これはわたしの父がその当時から、(そのようにできるよう)準備していたんです。この地区では、少々の神楽などはどこの家に行っても幸せにもちゃんとできるんです。」

 (イ)父から子へ、子から孫娘へ

 **さんは父親の思い出につながる神楽のことを、次のように語った。
 「父は、昭和13年(1938年)ころにどうしても神主になりたいということで神職になったんです。最初戸島村の3神社を預かり、それから日振島村、下波村や蔣淵(こもぶち)村の神社もと増えていった(いずれの村も離島もしくは宇和海沿岸部にあって、現在は宇和島市に属する)。父が神楽をした当時も、宇和島市や北宇和郡の神職会の人は全員というくらい神楽をしていました。神楽をすることは神職になる資格要件のようなもんですから。わたしは12人兄弟の5男で、戸島村嘉島(かしま)の生まれです。兄一人とわたしの二人が神職になりました。父からお前はどうしても神楽をせよと小さいときに言われますと、しなければいかんものだと思って神楽をし始めました。7歳のときから手拍子という楽器を打っていました。8歳のときには式三番の舞を舞いました。戸島の家祈禱でどうしても舞をせよといわれて初めてしたんです。頭に金冠を縛って、稚児行列の服装でしました。こういう風に小さいときから神楽をしている人は全部、後に伊予神楽に参加してますね。
 戦後の昭和22年(1947年)、わたしは講習を受けて神職になりました。戸島の天満神社の禰宜(ねぎ)(*14)をスタートに23歳の年まで戸島におりました。当時から宇和島市に出る機会がよくありまして、特に春になって神楽をするときには、島と宇和島市とを行ったり来たりして、不便でした。昭和36年、宇和島市の宇和津彦(うわつひこ)神社の禰宜となりました。市内での神職のスタートです。当時、海岸部の方の神社では父が神主をしていましたから。」
 最近、**さんの娘さんが神楽に取り組んでいるとのことである。この三代目の誕生について、**さんが次のように語った。
 「神戸市に住んでいる長女が『跡継ぎをする。』言うて、大阪で神職の資格を取りました。今、『神楽も少しだけはしないといかん。』と言っているんです。豊栄(とよさか)の舞(1950年に神社本庁が制定した乙女舞)とか浦安の舞(*15)とかは全部、大阪でもするんですが、『こっちへ来たら浦安の舞みたいな静かな舞より、やっぱり本格的な神楽をしなければいけない。』と言うので教えています。長女は40歳を過ぎ、二人の子供はもう大きいものですから、お祭りのたびごとに帰って来るんです。今年(平成11年)、7月24、25日の日振島喜路(きろ)の八坂神社の祭りには帰って来まして、実際に式三番の舞を舞いました。」

 (ウ)元気の出る神楽

 どうすれば祭りをにぎわいのあるものにすることができるのか、**さんが離島部において取り組んできた体験を次のように語った。
 「太鼓たたいてにぎやかにする神楽でないと、漁師の方は神楽のように思わんのです。静かな浦安の舞もいいところがあるんですが、にぎやかに太鼓と笛と手拍子でジャンジャンとしないと元気が出てこないと言いましてね、静かな舞ではいけません。そういう考えで神楽を奏上しないと、家の厄払いのように漁師の方は思わんのです。
 日振島では、例祭で3体の神輿をお旅所に据えて、祭典をしますが、その祭典の中に神楽を入れてします。何もない祭りや祝詞だけ奏する祭りでは皆が喜びません。にぎわいがないとね。これがお祭りだと意識してもらわないといかんので強いて神楽をしてるんです。地区の人がしりごみしても、『あんた、どうでもいいからなんでもたたいて。』とか、『あんたは手拍子はって(打って)。』とか頼むんです。そうすることによって、こりゃあ太鼓をちと(ちょっとは)習わないかんというような意識が、地元の人たちに起こってこないと本当の祭りじゃありません。日振島の中央に明海(あこ)という所がありまして、太鼓とこばやし(小太鼓)が二組できてます。わたしが行くと、ちゃんと用意ができており、何でもできるようになってます。そうじゃないとわたし一人だけでは祭典ができないんです。そうなると祭典はにぎやかにできるんです。
 小内浦という所では特に、お神幸(しんこう)で神輿と牛鬼が出まして、お旅所を外れてずうっと集落の端から端へと練っていきますが、それに付いて太鼓と手拍子をたたくようにしたんです。すると、地元の人たちが、お練りが長時間になるから太鼓や手拍子を代わってしましょうと言い出しました。代わってしましょうということは自信ができたことですからね。以前はわたしらが行ってたたく以外には鳴り物はなかったんですが、今は若い人でも役員になったらすぐに参加します。有り難いことです。こういうことがあるとお祭りがいよいよしやすくなって、その地区はわたしが一人で行っても神楽が十分にできるんです。
 また、御五神島(おいつかみしま)では、一応太鼓はたたいてもらいますけど、カセットテープで神楽の楽器の演奏の音を流すんです。今はそれで慣れるまで太鼓をたたいてもらっています。それで鈴と扇の舞(式三番の舞)と刀の舞(妙剣の舞)ができて祭りをにぎやかにしているんです。
 昔だと、祭りでは別に神楽だの何もなくても、お参りというものがありました。しかし、今は何かないといけません。『ああ、お神楽があるぞ。』と言ってやってくるのが若者のイメージですね。だから、何かにぎやかな踊りなどがあって皆に来てもらうという方法が一番手っ取り早いし、祭りに神社へ来てもらう基本だと思います。やっぱり昔通りの方法で神道は何々でありますというよりも、皆さんに芸能によって知ってもらうほうが手っ取り早くて、いいんではないかと思います。わたしは無理に太鼓をたたいてもらって、にぎやかにしようと神社総代さんにはお願いしています。最初から順序なんかをうるさく言うとしませんので、とにかくにぎやかにしてくれということでしています。そのうちあれじゃあいかんということになって、いろいろ自分らで工夫して見様見まねでするようになりますから、押しつけるよりその方がかえって効果があると思いまして、そういうような主義でしています。」

 イ 格式と伝統

 (ア)伊予神楽の伝承

 伊予神楽は宇和島市、北宇和郡の神職のみによって保存伝承されている。**さんはその背景について次のように語った。
 「明治時代以来、受け皿としては神職会があり、ここ宇和島市・北宇和郡では、神主は伊予神楽をせないかん(しなくてはいけない)、神主の資格要件として伊予神楽をずうっとしていくということできとるん(きているの)です。ほかでは神職が神楽をしないようになって、代わって氏子の人らがするようになった。それが里(さと)神楽で、おもしろうおかしくできたとわたしらは聞いとります。それで一般的には里神楽はおもしろいなあということになるんです。しかし、伊予神楽は、神を中心にしたものを基本にしているお神楽ですので、おかしな、ふざけるようなものであってはいけません。ですから皆さんが見て、あんまりおもしろくはないよと思われるかもしれません。つまり、伊予神楽はほかの里神楽とは違って、神前でなかったら奏上できないという基本があるわけです。
 昭和36年(1961年)にかんなぎ会ができるんですが、それまでは伊予神楽、神楽の会、お神楽会などいろいろいわれ、特に決まった名称はなかったんです。神職会は宇和島市と北宇和郡の両支部にまたがるが、神楽は一つの会であることから、県の無形文化財の指定を受けるのにちゃんとした組織にし、規則を作らないかんということでこさえたん(こしらえたの)です。練習も今はかんなぎ会でしますが、以前は両支部の主催で夏には必ず1日か2日、講習会をしていたんです。支部員になったら必ず神楽をするというようにしようということで、その当時は全員その気持ちでしていました。神楽は両支部の年中行事の中に入っている行事ですから。まあ神楽をする神社と神楽をせん(しない)神社とがありはしますけど、皆さん互いにお手伝いのしあいをします。
 県の無形文化財に指定された当時のメンバーは9人で、このうち今もしているのはわたしを入れて4人です。文化財指定の申請は、管理者として大野直康さん(故人、広見(ひろみ)町の大本神社宮司)が全部しました。この方より一つ年長に行定茂手木さん(故人、広見町の弓滝神社宮司)がいましたが、ご老体だったから大野さんがしたわけで、かんなぎ会の初代会長となったんです。現在(平成11年)、会員名簿では16人、実際に神楽をする人は8人くらいです。」
 現在の会員名簿をみると、指定当時のメンバーとその子など、親子兄弟でほぼ構成され、その芸が脈々と受け継がれてきていることを示している。

 (イ)春神楽、風にも当てよ

 今年(平成11年)の4月29日、宇和島市の宇和津彦神社の春祭りに奉納行事として神楽が催された。この春の神楽について、**さんに聞いた。
 「戦前は神楽は盛んだった、一つの楽しみだったんです。その当時はラジオはあってもまだ一般的ではありませんし、貴重な神楽をしてくれたということで、行定茂手木さんが『汗かいていたら、そこの娘さんらが来て汗ふいてくれたりしてくれた。』と言っていたくらいに厚遇されていたようです。『春神楽、風にも当てよ。』といわれる(春神楽が大変盛んであることを示す)具合に皆さんには徹底しており、春神楽が大きな楽しみとして人々に待たれていた時代があったんですね。戦後もまだ、ずうっと続きました。しかし、最近になって演じる回数が少なくなってきました。10年前は1年間を通じて神楽は15組(回)くらいありましたけれど、今年なんかは8組(回)ですから、半分です。
 宇和津彦神社でも、明治初期から4月29日に春神楽をするようになってるんです。また、伊吹八幡神社にもかつては春祭りに神楽があったんです。今は途切れて、夏越(なごし)の輪抜けのとき(陰暦6月の祓えの行事)にしています。しかし、神楽は春の祈願、祈年祭でやっぱり春ですね。そして厄払いとか、家の新築とか、会社の新設とかのお祝いにしてました。神様に大木の上から降りてきてもらい、それで豊作を祈願するというのが春祭りの基本です。秋は豊作を感謝して神輿を出すという神事があるんで、神楽をすることができないんです。だから、春に祈願として神楽を奏上しましょうというのが普通の神社での行事の形式です。」

 (ウ)舞台設営と神楽の衣装

 神楽の舞台の設営については、「各神社は鳥居に忌(い)み竹(斎竹(いみだけ)、神を祭るにけがれを防ぐため立てる竹)をもって飾り、(中略)神楽殿には注連(しめ)縄を巡らし、『ぞうがん』と称する神紋、日月、鳥居等の奉書紙(ほうしょし)(和紙の一種)の切り抜きを、注連に結び」との解説(⑩)がある。**さんが次のように補足説明をした。
 「『鳥居に忌み竹をしばる』のは伊達藩(宇和島藩・吉田藩)だけのようです。『竹に雀(すずめ)』(伊達家の家紋)で伊達家は本当に竹に関係があるんですね。仙台(せんだい)市・宇和島市・吉田町のお祭りには必ず竹を鳥居の両方の柱に縛るんだといいます。竹は忌み竹ですが、喜びごとと悔やみごとの両方に使います。今忌み竹は、基本的には舞台となる神楽殿だけに飾ります。舞台は広くなく、大体1間(けん)半四方の畳2畳敷きくらいです。練習もその広さで舞い込みをします。四人舞としては狭いことになりましょうが、それは例外です。しめ縄に結ぶ『ぞうがん』はその都度作りますが、神社の社紋や鳥居などのほか、伊達家の家紋は切るのが難しいので、その代わりに九曜(くよう)の紋(一つの大円の周りを八つの小円が囲んでいる形の紋)の旗印(はたじるし)を切ります。宇和津彦神社の拝殿では、5種類のぞうがんを切って結びましたが、広い場所でしたから10種類くらい切って結んだらよかったと思います。」
 神楽の衣装については、「昭和38年(1963年)、装束、面類、調度品のすべてにわたって京都井筒に考証、製作を依頼し2か年にしてこれが完成整備をみました。(⑩)」とあるが、**さんは次のように補足説明をした。
 「神楽の衣装は井筒雅風(*16)の指導で作ったんです。井筒雅風は衣装装束研究の専門家で、『京都の時代祭』を総括している人です。その衣装も今ではもうボロボロになったり、なくなってしまった衣装もあるんです。それを補充しないといかんのです。ただ、本絹で作ると値段がなかなか高いんです。これ以前に作った衣装もあったんです。明治末期に海運家の山下亀三郎(*17)さんが寄贈してくれた面や装束類がトランクに四つありました。さらにもう一つ前には、もと宇和島藩主の伊達侯が奉納したというのもありました。」

 (エ)伊予神楽舞歌の次第

 伊予神楽に伝えられる目録によると、演目は全35場あるとされる。ただし、はじめの6場と最後の1場は神事式典である。全曲を奏するには、夕刻から夜を徹して明け方までかかるので最近はそのうち、十余場を少数の神社の祭礼に奉納するという。神歌を歌うのは普通は大太鼓の奏者である。楽器を奏する楽人(がくじん)は折烏帽子(おりえぼし)(動きやすいように細かく折りたたんだ烏帽子)に直垂(ひたたれ)(*18)姿である。以下、その主なものについて、『伊予神楽抄(⑪)』と**さんの簡明な解説で紹介する。

 ① 諸神造酒祭(みきまつり)
   素面(面を着けない)の四人舞で、衣装は狩衣(かりぎぬ)(*19)に紺(こん)の差袴(さしこ)(*20)で立烏帽子(たてえぼ
  し)をかぶる。手には五色の色紙を用いた木綿四手(ゆうしで)(*21)を持つ。舞座の中央には神酒を置き、東西南北の四方
  の神々や氏神に神酒を奉納する(写真2-1-16参照)。
 ② 式三番の舞
   素面の一人舞で、衣装は狩衣に紺の差袴で立烏帽子をかぶる。手に持つものは鈴と木綿四手のときと、扇と木綿四手の
  ときとがあり、それぞれの舞で神歌が違う。祝いごと始めの舞である。
 ③ 喜余女手草(きよめたぐさ)の舞
   素面の二人舞で、衣装は法被(はっぴ)(*22)にカニアラレという神楽袴で風折烏帽子(かざおりえぼし)(風で吹き折られ
  た形の烏帽子)をかぶる。手にはサカキのシバ(手草)を持つ。すがすがしいシバでもって悪魔や罪汚れを祓い清める舞で
  ある。
 ④ 悪魔払いの舞
   素面の四人舞で、衣装は直垂に引立烏帽子(ひきたてえぼし)(てっぺんを引き立てて儀容を整えた烏帽子)、鉢巻きは縫
  い着けてある。手には太刀、扇、木綿四手を持つ。東方の青帯龍王(りゅうおう)、南方の赤帯龍王、西方の白帯龍王、北方
  の黒帯龍王が悪魔払いをする舞である。
 ⑤ 大蛇(おろち)の舞
   面舞(面を着けて舞う舞)一人(ダイバン)と、着面の勢害(せがい)と呼ばれる神が一人ずつ二人登場する舞で、普通、
  鬼の舞という。ダイバンの衣装は手甲(てっこう)を付けた筒袖(つつそで)に胸当(むねあて)を着て、股引(ももひき)と足袋
  (たび)を履き、大蛇面を着ける。手には最初はシバ、後には棒、鬼の杖を持つ。勢害と呼ぶ神々のうちの一人はスサノオノ
  ミコトで面を着け、別の一人は大癋見(おおべしみ)の面(*23)を着ける。衣装は麻製の法被に野袴(のばかま)である。着面
  の鬼は俗にダイバン(大蕃)と呼ばれる鬼神(大蛇でもある)で神々を困らせる。これに対抗して勢害が一人ずつ二人出
  て、掛け合い(問答)し、一合戦(ひとかっせん)参ろうかと言って戦う。最初は太刀と棒の戦い、次は相撲を取る。神々と
  戦ったダイバンは、やがて善神になるという舞である。
 ⑥ 神清浄の舞
   素面の二人舞で、衣装は狩衣袴で鈴と木綿四手を持つ。四方の神々を招き、神楽の庭に迎える舞である。舞の型は、式三
  番の舞や喜余女の舞と同じで、これらは「舞い込み」といって「左舞」だけである。二人舞のときは右舞をせず、左舞だけ
  だという。「右舞をして左舞」というのが舞の基本で、右舞だけの舞というのはない。
 ⑦ 弓の舞
   素面の一人舞で、衣装は法被という1枚の穴のあいた布を頭からかぶって顔を出し、前も後ろもひだを寄せて帯で縛った
  ものを着る。頭は鉢巻きして毛頭(けがしら)(長い毛髪を多く取り付けた形のかぶり物)を着する。武神が弓の神威で悪魔
  を退散させるという舞である。
 ⑧ 花神祇(はなじんぎ)の舞
   素面の一人舞で、盆の舞ともいう曲芸的な舞である。衣装は法被に袴を着て、毛頭をかぶり、手に持つのは盆のみであ
  る。神々に銭切(ぜんぎり)(*24)を供え祈願する舞である。勢害としてヒョツトコ(面)が一人出て舞うことがある。
 ⑨ 内(うち)舞
   面舞一人で、衣装は打掛(うちかけ)(*25)に袴を着し、被衣(かづき)(*26)をかぶる。大山積(おおやまずみ)の神が山を
  守って万民の悪魔を切り倒すという舞で、シバを刀で切って収める。
 ⑩ 火焼きの舞
   素面の二人舞で、衣装は法被、胸当に袴を着て、風折烏帽子をかぶり、手にたいまつを持つ。たいまつの神火をもって四
  方を祓い、国土を清浄にする舞である。舞人とは別の鎮火の役は通常祭主の神主が行う。たいまつは肥松(こえまつ)
  (*27)で作る。舞の型は左舞で何回も舞い込みして行う。左舞の場合はすぐ次の動作に移れるから、右舞に比べて半分の
  舞になる。火焼きの舞は、燃えるたいまつを持つので短時間で舞える形とする(写真2-1-17参照)。
 ⑪ 古今老神(おきな)の舞
   面舞一人で、衣装は浄衣(じょうえ)(*28)を着し、頭には毛冠(けかぶと)をかぶる。手には奉幣串(ほうへいくし)(祓え
  の時に用いる四手のついた大きな串)、中啓(ちゅうけい)を持つ。翁面(おきなめん)のアメノコヤネノミコトの神霊が神々
  を集め国土安穏を祈願する舞である(口絵参照)。
 ⑫ 妙剣の舞
   素面の一人舞で、納めの舞ともいう。妙剣をもって氏子鎮護の祈念をする舞である。氏子たちも霊剣を身に受けて神前を
  退く。かつては二人舞のときもあったようである。
 ⑬ (番外)ミヨジメ
   素面の二人舞で、特別番外として式三番の舞あたりでする。舞台の四隅に人を配し、その4か所を回りながら、巻き締め
  てあるしめ縄を手操って、どんどん巻いていくという神楽である。

 以上のほか、上演されるものとしては以下のようなものがあるという。

 ○ 天地開楽(やまとひらきがく)(神主一同、太鼓の曲に合わせて天地開楽の神歌を奏上する。)
 ○ 御崎(おんさき)神祇の舞(素面の二人舞で、四方の神々に黄金の稲穂を捧げる舞である。)
 ○ 四剣天(しけんてん)舞(素面の四人舞で、四人の皇子(みこ)が神剣で悪魔を払う舞である。)
 ○ 仁天剣(にてんけん)舞(素面の二人舞で、神剣をもって悪魔を払う舞である。)
 ○ 長刀矛(なぎなたほこ)の舞(素面の二人舞で、長刀と矛の神威で悪魔を払う舞である。)
 ○ 飛出手力男命(とびでたぢからおのみこと)の舞(面舞一人で、手力男命の神霊によって悪魔を払う舞である。)
 ○ 神躰鈿女(しんたいうずめ)の舞
   (面舞一人で、天の岩戸の前で鈿女がアマテラスオオカミ(*29)をなごめ、いさめる舞である。)


*11:神に仕え、神楽を奏して神慮をなだめ、また神意を伺い、神降ろしの行いなどをする人のことで「かんなぎ(神な
  ぎ)」「神子(かみこ、かんこ)」ともいい、男は「おかんなぎ」「おかんこ」という。
*12:両側の皮面の縁をひもで結び、胴に締め付けた太鼓、2本のバチで打つ。
*13:2枚の中央の穴にひもを通した円盤状の銅板を、左右の手で持って打ち鳴らす打楽器。
*14:神主の下、祝(はふり)の上に位置する神職。
*15:神事舞の一つ。紀元二千六百年祝典(昭和15年)の際に作られた。上代の手振りをしのぶ荘重典雅な舞で、扇の舞と鈴
  の舞がある。
*16:(1917年~)8代目井筒興兵衛を襲名、㈱井筒社長。宝永年間創業の家業に連なり装束研究家として著名。京都成安造
  形大学学長、日本風俗史学会副会長などを歴任する。
*17:(1867~1944年)実業家。伊予国宇和郡河内村(現北宇和郡吉田町)に生まれ、海運業に身を投じ、1911年に山下汽
  船会社を創立。第一次大戦の好景気に船成金となり、大戦後の不況を乗り切り海運王とよばれた。第二次大戦末期には海運
  業界を代表して内閣参議になった。
*18:武家の代表的衣服、もとは庶民の衣服。袖くくりがあり、胸ひも、組み緒の菊綴(きくとじ)がついている。すそは袴の
  内に入る。
*19:平安時代の公家の常用略服。
*20:指貫(さしぬき)の異称。すそをひもで指し貫(ぬ)き足首を結ぶ、緩やかで長大な袴。
*21:幣の一種、木綿を四手としたもの。四手とはしめ縄、玉串などにつけて垂らす木綿または紙片。
*22:能装束の一つ。武装の武将や鬼神などの役に扮(ふん)するときに用いる。
*23:能面の一種、口を一文字に引き結んだ並み優れて大きい顔形の大型の面。
*24:神社で修祓のとき、銭の形に切って米とかき混ぜ、銭箱に入れてまき散らす紙片。
*25:舞楽や田楽の装束の一つ。
*26:きぬかずきともいう。平安時代から、身分のある女性が外出時に顔を隠すためかぶった衣。
*27:脂(やに)の多い松、たいまつなどに用いた。
*28:白の布または生絹(すずし)で仕立てた狩衣形の服。多くは神事に着用。
*29:天照大神、高天原(たかまのはら)の主神、弟スサノオノミコトの粗暴な振る舞いを怒って天の岩屋戸に隠れた神話が伝
  わる。

写真2-1-16 伊予神楽「諸神造酒祭」

写真2-1-16 伊予神楽「諸神造酒祭」

宇和津彦神社拝殿にて。平成11年4月撮影

写真2-1-17 伊予神楽「火焼きの舞」

写真2-1-17 伊予神楽「火焼きの舞」

宇和津彦神社拝殿にて。平成11年4月撮影