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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)温泉に祈る

 ア 湯祈禱(ゆきとう)

 **さん(松山市吉藤 大正7年生まれ 81歳)

 (ア)安政大地震

 道後湯神社宮司代務として湯祈禱の神事に携わる三島神社宮司の**さんに、湯祈禱の由来について聞いた。
 「湯之町道後では、安政元年(1854年)の地震で温泉のわき出しが止まり困っていたところ、翌安政2年2月22日に再び湯がわき出したので人々の喜びは大きく、この日をもって湯の神に感謝する湯祈禱をすることになりました。この由来は、祭文にもあります。」
 湯祈禱の祭文(⑬)は、次のような内容であった。

   嘉永7年甲寅霜月(きのえとらしも)(11月)5日地震にて天(あめ)の下四方(したよも)の国に鳴神(かみなり)の響き渡
  りし 温泉忽(たちま)ち不出なって音絶へぬ故(ゆえ) ここをもって温泉の町の家ごとより千木(ちぎ)の木を移し植奉り
  (祝詞の枕詞) 老ひたる幼き男女百々度千度(ももどせんど)歩をはこび祈り奉り中にも若きすこやかなるかぎりは赤裸と
  なり雪霜の寒きを厭(いと)はず雨風のはげしきを冒して三津(みつ)(松山市三津浜)の海辺にみそぎしまたは御手洗(みた
  らい)川(湯之町道後を流れる石手川の支流)の清き流れに身を浄(きよ)め夜毎日毎に伊佐爾波(いさにわ)の岡の湯月(ゆづ
  き)の大宮出雲岡なる此(この)湯神社に参りて温泉を元の如(ごと)くに作り恵み給へと祈り奉りしに 大御神(おおみかみ)
  たちも清き心をめで給(たま)ひて 明る安政2年如月(きさらぎ)(2月)22日といふに湯気たち始め日ならずして元の如く
  になりぬ よってそのかへりまをしのしるしにと人々の名を記しかけまくもかしこき湯の大前にささげ奉るになん

 (イ)明治時代の湯祈禱

 湯祈禱は、明治6年(1873年)に太陽暦に変わった後は旧暦2月22日に相当する日に行われた。『道後湯之町町庁日記』には、「明治23年4月11日旧暦2月22日 本日湯祈禱ニ付神輿(みこし)湯ノ前ニ渡御午後奏楽(そうがく)及神楽(かぐら)」「明治27年3月28日旧暦2月22日 温泉祈禱ニ付同場玉ノ石前ニ於(おい)テ里神楽執行」「明治30年3月24日旧暦2月22日 恒例ノ通り温泉祈禱神輿ヲ玉ノ石前ニ奉ジ神楽ヲ奏ス」と記録されている(⑭)。
 道後温泉本館そばの玉の石(*6)前に神位(神霊をすえる所)を設けて祈禱を行い、神輿の渡御があって神楽を奏したことが知られる。明治45年(1912年)ころには湯祈禱の祭日は3月21、22日と定められ、余興があって初春の松山地方の年中行事となった。

 (ウ)南海大地震と湯祈禱

 **さんに、太平洋戦争後の湯祈禱について聞いた。
 「戦後の湯祈禱は南海大地震が大きく関係しています。昭和21年(1946年)12月21日の南海大地震で温泉のわき出しが止まりました。湯神社では、安政の地震の時の故事に習い21日間の湯祈禱を続けました。温泉事務所や旅館・商店の人々による三津大可賀(おおかが)海岸での潮垢離(しおごり)(*7)や道後御手洗川での水垢離も行われました。祈りが通じたのか、温泉が止まってから38日目の昭和22年1月28日に第一源泉でわき出しの兆しが現れ、3月にかけて各源泉で湯が再び出始めました。3月19日、湯神社で温泉わき出しの奉告祭を執行して湯祈禱で神の御加護に感謝しました。それ以来、毎年3月19日を湯祈禱の日と定めて今日に及んでいます。」

 (エ)湯祈禱神事

 **さんに、現在の湯祈禱神事について聞いた。
 「毎年祭礼日の3月19日に道後温泉の玉の石前で湯祈禱を執行しています。古式にのっとり祈禱・祭文奏上、お神楽を舞います。神楽は、本来13人の神職が必要ですが、今は後継者不足で10人しか舞えません。巫女(みこ)神楽に続いて里神楽を舞い、笹(ささ)の舞・稚児(ちご)の舞・手草(てぐさ)の舞・神迎(かみむか)いの舞・三方(さんぼう)の舞・四天(してん)の舞の順序で舞います。湯祈禱の参列者は、道後温泉事務所や旅館・商店街の関係者70名ほどです。各旅館主が竹筒に入れた朝の一番湯を神前に奉納した後、道後温泉の湯釜(ゆがま)(浴槽の湯の出口に使われている石造物)を形どった神輿を先頭に温泉街を行進して湯神社に向かい、献湯して温泉の隆盛を祈ります。」

 イ 道後温泉祭り

 (ア)温泉記念祭

 湯祈禱の後の余興行事として繰り広げられる祭りは、明治36年(1903年)3月20日から29日までの10日間道後温泉震災復旧50年記念大祭が催されて、町を挙げてにぎわったころから恒例化した(⑭)。明治45年(1912年)3月21、22日の湯祈禱祭の余興には、素人相撲、二輪加(にわか)、素人浄瑠璃(しろうとじょうるり)、芸妓(げいぎ)の舞・手踊があり、町内では、活(い)け花・盆栽の陳列、湯築(ゆづき)小学校では展覧会が行われた(⑮)。
 湯祈禱・温泉祭りは、大正時代には「道後記念祭」とも呼ばれ、年ごとに盛況になっていった。大正11年(1922年)3月21日の温泉祭りは、湯之町全町挙げて国旗や町旗を掲げ万国旗を張り巡らして旗のトンネルを作り、温泉本館は造花のボタンで装飾を施した。余興には芸妓連の踊り・演芸、素人大相撲、二輪加、伊予万歳(まんざい)があって、多くの観客が見物した(⑯)。昭和2年(1927年)に国鉄(今のJR四国)が松山まで開通したので、県内外から温泉への入浴客・見物人が増加した。このころから、小学校・中等学校生の相撲・柔剣道大会や庭球大会が開かれるなどスポーツ大会が催しに加えられた(⑭)。

 (イ)温泉祭りの変容

 **さん(松山市道後鷺谷町 昭和6年生まれ 68歳)
 **さん(松山市道後湯之町 大正8年生まれ 80歳)
 **さん(松山市道後湯之町 昭和11年生まれ 63歳)
 道後温泉旅館組合の世話役として温泉祭りにかかわってきた**さんに、祭り復活の様子を聞いた。
 「戦争で消えていたものが道後温泉祭りとして復活するのは、南海大地震で温泉が止まった出来事が大きな契機となっています。あの時は道後の町中ゴーストタウンのようになりましたが、湯が再びわき出したので感謝祭の形で復活したのです。昔の湯祈禱を知っている人たちの指導で湯祈禱も復活しました。昭和22年(1947年)3月20日に道後温泉の営業が再開され、復旧祝賀式典が催されたのですが、この日から3日間温泉は無料開放、湯之町では道後温泉復興祭ということで、道後駅前にスギの大アーチ、商店街は軒並みサクラとぼんぼり、温泉場(道後温泉本館)には紅白のまん幕と装飾が施され、町ごとに山車(飾り物を付けて引く車)作りを競い、仮装行列、獅子舞、奴(やっこ)踊りなどで町民挙げて復旧を祝いました。これ以来、戦前の道後温泉湯祈禱・記念祭を引き継ぐ形で、3月19日の湯祈禱に続いて3日間道後温泉祭りが繰り広げられるようになりました。
 当時は町の中を交通遮断して、町の人々が音曲を奏でることができました。男衆(おとこしゅう)が鉦(かね)・太鼓(たいこ)をたたき、女連(おんなれん)が三味線を弾きました。温泉祭りは道後湯之町の住民が温泉に感謝する祭りであって、町の人が主役で芸妓も踊りに参加していました。(伊予鉄道)道後駅前と温泉本館前の広場のスピーカーから曲を流せば、その場で踊りの円陣ができていました。」
 昭和20年代に旅館を営んでいた**さんに、祭りに参加する湯之町の人々の盛り上がりについて聞いた。
 「南海大地震の後は観光客を呼び戻そうと、温泉祭りには大人も子供も一家総出で参加しました。湯月(ゆづき)町、栄(さかえ)町、松(まつ)ヶ枝(え)町、初音(はつね)町、伊佐爾波(いさにわ)町、鷺谷(さぎたに)、本町、中通り、4丁目と、町連ごとに仮装行列や手踊りを競いあって練り歩きました。仮装は、大国主命(おおくにぬしのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)(*8)など道後温泉にちなんだ人物にふんし、結構楽しかったです。今は道後の商店街・旅館組合が主体となった祭りとなり、仮装行列も坊っちゃん・マドンナですっかり様変わりしました。」
 幼少時から日本舞踊を習っていて今も踊りの名手として活躍する**さんには、昭和30年代の道後温泉祭りを振り返ってもらった。
 「各町で連(仲間)ができて、それぞれ山車を作って、三味線を奏で釣り鉦・太鼓をたたいてお囃(はや)し(伴奏音楽)して、各連で30人から40人程度の踊り手が出ていました。そのころは自動車を止めて、道後温泉前で踊り、松ヶ枝町、伊佐爾波町、道後公園公会堂前、道後温泉駅前、湯之町商店街と踊りの行進を続け、至る所で輪を作って踊っていました。小・中・高校生の時でも学校から帰ってくると早速踊りの輪に加わりました。『道後小唄』と『松山節』が伴奏の曲で、後に『おいでや小唄』や『道後囃し』もテーマ曲になりました。当時は地元の人たちだけで踊っていて、楽しかった。わたしら子供のころは道後駅前の放生池の上に掛け小屋が作られ、これを舞台にして日本舞踊を踊ったりしていました。旅館組合の肝いりで本衣装を着けたおいらん道中が練り歩いたこともありました。やがて祭りも次第にさびれていきました。」
 踊りを主体とした昔風の道後温泉祭りが衰退した原因について、**さんに聞いた。
 「音出しする人が減っていけば手踊りは廃れていかざるを得ません。昔のものを復活する土壌は今はなくなりました。祖父母や父母の時代には、町中に三味線や踊りを習う女性や歌をうたい和楽器を奏でる連中がいましたが、歌舞音曲ができる人々がいなくなると、昔風の祭りは今様のイベント的な祭りに変わらざるを得ないのではないでしょうか。」
 昭和47年の道後温泉祭りは温泉街を練っていた「町おどり」が中止となり、代わりに冠山(かんむりやま)の道後温泉センター前広場特設舞台で郷土芸能大会が催されて、丹原(たんばら)町のお簾(れん)踊り、城川(しろかわ)町遊子谷(ゆすだに)の七鹿(しか)踊り、宇和島の牛鬼など県下の伝統芸能が出演、長寿もちまき・俳句大会なども行われた(⑰)が、町おどりは翌年から復活した。その後、温泉祭りは、昭和58年(1983年)に「松山お城まつり」と統合して「松山春まつり」として例年4月3日から5日まで開催されていたが、平成7年から3月19日の湯祈禱に続いての3日間の祭りに戻った。
 **さんに、最近の道後温泉まつりの様子を聞いた。
 「松山春まつりになった年だったでしょうか。幼稚園児から高校生まで80人くらいの女の子で道後連をつくってサクラの小枝を手に愛らしく踊り、続いて婦人連50人ほどが松山春まつりのマークが入った浴衣で商店街から道後温泉本館前へと手踊りを披露して、見物の温泉客に喜ばれたことを覚えています。今も商店街の若い人たちや小中学生に踊りの手ほどきをしていますが、踊り手の数が少ないから、華やかさがありません。今年(平成11年)久し振りに婦人連15人ほどと踊って盛り上がりました。やはり地元の者が参加しないと祭りらしくないですね。」


*6:「伊予国風土記逸文」の中の大国主命・少彦名命の温泉説話に出てくる石の名で、温泉に入浴して元気になった少彦名命
  がこの上で喜んで舞った石と伝えられる。
*7:神仏に祈願するため、冷水を浴び、身体のけがれを取り去って清浄にすること。潮垢離は海水を浴びてすることをいう。
*8:温泉の二祭神。道後温泉は、出雲国の主神大国主命が重病になった少彦名命を手のひらに乗せてわき出る湯で温めたとこ
  ろ健康を回復されたので、温泉の効能が知られるようになったという伝承がある。湯神社はこの二神を祀っている。