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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)伊予路に春を呼ぶ

 ア 縁起の神様椿さん

 **さん(松山市居相町  昭和19年生まれ 55歳)
 **さん(松山市北土居町 大正14年生まれ 74歳)

 (ア)祭りの由来

 椿祭りは、正式には松山市居相(いあい)に鎮座する伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)と伊豫豆比売命(いよずひめのみこと)の夫婦神を祀る伊豫豆比古命神社(写真1-3-1参照)の初祭りであるが、いつのころからか「椿さん」と呼ばれるようになった。「椿の花の咲き始める寒風の季節に祭礼が営まれ、その木の下で原始的な物々交換が行われ、付近一帯に多かったやぶの中の椿の印象が神社の呼び名となり、椿は何か人間に新しい年の幸運をもたらす響きを人々に与え、この簡潔で親しみやすい呼び名に定着したのでしょう。」と椿神社発行のパンフレット『伊豫豆比古命神社略記』は解説している。
 宮司の**さんから、椿祭りについて聞いた。
 「祭りは、祈り、賑(にぎわ)い、直会(なおらい)の三部で構成されています。だんじりや太鼓台はにぎわいの祭りですが、椿さんは祈りの祭りです。見る祭りではなく、参加する祭りです。春は張るといい、心が浮き浮きする。冬の寒さから春に向かうというのは、人間だけでなく生きとし生けるものが喜々として栄えに向かう状態です。そうした時に椿祭りがあって、昨年1年何とか過ごせた、今年も1年頑張ってみようと、神に約束するために人々は参拝されるのです。椿さんは立春に近い上弦(げん)(*1)の初期に執り行われる祭りで、これを境に月が大きくなり暖かくなっていくから春を呼ぶ祭りとして親しまれています。本来は旧暦の1月8日と決まっていたわけではなかったのですが、この日が立春に近い上弦の初期に限りなく近いとして祭りの定日になりました。」

 (イ)時々の椿さん

 椿さんは農業神で、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る石井の郷社(ごうしゃ)(村社の上に位置する神社)であるが、松山城下町の近郊に位置するところから江戸時代には開運の神として武士や商人の信仰を集めたという。また男女二神が舟山(椿神社の社地の丘)で出会い結ばれたことから居相の地名が生まれ女性が参拝すると男運に恵まれるといわれる(①)。いろいろな願いを込めて、松山とその近在の人々は椿祭りを楽しみにするようになった。俳人内藤鳴雪(1847~1926年)の『鳴雪自叙伝』(1922年刊)には、「椿参りの祭日には、参詣の人が少しの切れめもなく途上に続く位であった。」と幕末の椿祭りのにぎわいを述べている。
 明治6年(1873年)からの太陽暦採用以後は旧暦1月8日を新暦に直して毎年祭日が異なるが、正岡子規(1867~1902年)の『筆まかせ』にも、「これはまた田舎に似合ぬ人込みにて老幼は近づくこともならぬ次第にて、野外に時ならぬ花の咲いた様にて、随分にぎはしきことにこれあり」(明治23年3月3日の手紙文)と、そのにぎわいを書いている。
 明治時代末期の椿祭りは、市民はもとより近郷近在より我がちに福運を授からんと押し寄せる善男善女が参道にあふれんばかりで、神殿前より参道に並んだ各見世物・露店等は相当なにぎわい、引っ切りなしに運転する伊予鉄道森松線列車は毎度車窓より老若男女があふれ出る状況であった(②)。大正時代も、好天気の椿祭、運神(うんがみ)さんは益々繁昌(ますますはんじょう)、雪の椿祭、参詣(けい)者多し、名物椿祭の賑(にぎわ)ひ、朝来の好晴で大変な人出、椿祭に約十万の人出などと、新聞が報じるにぎわいであった。
 昭和7年(1932年)2月12日の椿祭りは、20分ごとに発着する伊予鉄道列車が鈴なりの乗客をはき出していた。国道筋から参道にかけては歩いているのかとまっているのかわからない人々の波で、両側に陣取った縁起笹(ざさ)、縁起飴(あめ)、見世物などの客を呼ぶ声をぬって神前にかかるともう身動きもできず、賽銭(さいせん)を前の人の頭ごしに投げるという盛況であった(③)。
 椿祭りは伊予路に春を呼ぶ祭りとして、昔も今も変わらぬにぎわいである。

 (ウ)お忍びの神輿渡御(みこしとぎょ)

 伊豫豆比古命神社の氏子石井郷(いしいごう)10か町と久米郷来住(くめごうきし)町計11か町(現在の松山市石井と来住)が交代で受け持つ神事に、「お忍びの神輿渡御」がある。
 この神事について、**さんに聞いた。
 「祭りの中日の夜に、御祭神(ごさいしん)を神輿にお移ししてお旅所の金刀比羅(ことひら)神社(松山市北土居町)まで神幸(みゆき)願う祭りです。神輿が御殿より内参道・楼門に至る間に限り、かき夫は一切声を発せず神輿を揺することなく静々とかき出して行きます。金ぱくで飾られた神輿がかき夫のかざすちょうちんの明かりに照らし出されながら渡御する様子は厳粛幻想的で、境内を埋めた参拝者は自然に黙して神輿を見送ります。道筋の家々ではその年の正月に飾ったしめ縄などをたいて合わせ火とし、神輿を迎えます。神輿渡御に当たった地域は1年前から準備に追われます。6月には御田植え祭りをしてもち米を作り、10月に取り入れておいて、椿祭りの直前にわらでしめ縄を作り、もち米で2俵(1俵は60kg)分のもちをついてお供えします。祭り当日になると、かき夫200人をそろえて神輿をかくのですが、この奉仕がまた大変で、地域挙げて取り組んでもらっています。11年に1度の回り持ちであることと神社にマニュアルがあるので、一つ一つクリアーして続けてもらっています。当番の氏子奉賛会にはいつも感謝しています。」

 (エ)神輿渡御の準備

 平成10年は北井門(きたいど)町、11年は来住町が神輿渡御の当番であった。北井門町の氏子総代は、椿神社に頼まれて伊勢神宮から頂いたお神米種「伊勢ひかり」を自分の田に御田植え神事して秋に収穫、3袋60kgを御神酒用に奉納した。
 平成12年2月の神輿渡御を担当するのは北土居(きたどい)町である。氏子総代の**さんに、祭りの準備と当日の神輿渡御について聞いた。
 「来年(平成12年)の椿祭りは2月11、12、13日ですから、2週間前の1月末ころまでにわらを整えてしめ縄作りをします。しめ縄を7本作るとすると5、6畝(せ)(1畝は10m²)程度のわらを用意しなければなりません。町内でも特定の人に祭り用のもち米とわらを頼んでいますが、町外の稲木(いなぎ)(刈った稲穂を束ねて掛けるもの)を使う田にもわらを予約しています。2月に入ってお供え用の鏡もちをつきます。2月5、6日の休日を予定していますが、来年は公民館が改築されるので使用できるかどうか心配です。椿神社本殿の供えもちは一重ね3升(1升は1.5kg)くらいでしょうか。境内の勝軍(かちいくさ)八幡神社・御倉(みくら)神社に各24升、児守(こもり)神社に1升、奏者(そうじゃ)社と楼門にも5合ずつの鏡もちを供えます。10年前の当番の時には、公会堂前の広場にうすを5、6個並べて20人から30人の男女が出てもちつきをして、むしろにもちを並べて回りました。最近は機械つきになりました。鏡もちのほかに紅白のもちを各々1,500個程度納めねばなりません。5俵のもち米を手配していますが、実際には3俵ほど要るでしょう。2月7、8日には神輿の組み立てを予定しています。30人から40人程度の労力動員は必要でしょう。2月12日大祭中日のお忍び渡御では北土居町氏子の若者たちが神輿をかいて椿神社とお旅所金刀比羅神社の間を往来します。かき夫200人の法被(はっぴ)(かき夫が着る上っぱり)は貸与されますが、弓張りちょうちんは町で用意します。」

 (オ)合わせ火神事

 今年(平成12年)の神輿渡御を仕切る**さんは、お旅所が北土居町にある関係で神輿をお迎えする「合わせ火」神事でも毎年大きな役割を担っており、このことについて話を聞いた。
 「宮出ししたお神輿さんはこの北土居町にある金刀比羅神社(写真1-3-4参照)に必ず渡御しますので、この地区の者は門口や田んぼで合わせ火をたいてお迎えしていました。平成10年から合わせ火のかがり火器材21組を椿神社が準備して国道33号からお旅所の道筋に配置し、合わせ火をたいています。渡御の当日は朝から氏子奉賛会の役員が器材を配り沿線の人々にかがり火の用意をお願いしています。わたしは白い着物に烏帽子(えぼし)・羽織姿で合わせ火諸役と書いたちょうちんを提げて神社からの斎灯(さいとう)(神様の灯明としてたくかがり火)の受け渡しに立ち会い、椿橋付近で斎灯をたいまつに受けて、神輿を迎えるのに先立ち道筋のかがり火をつけて回るのです。」

 (力)氏子奉賛会

 氏子総代の任期は2年、**さんは任を重ねて4年になる。氏子奉賛会(ほうさんかい)の組織について**さんに聞いた。
 「北土居町は毎年新築家屋が増えて現在約1,400戸程度ですが、椿神社の氏子奉賛会は昔からの居住者を中心に300戸程度が会員です。政教分離の原則で、町内自治会と奉賛会は別の組織ですが、今回の神輿渡御当番といった重要な役割が課せられると町内会長と氏子総代が協同して事に当たらなければ前に進みません。奉賛会は評議員会を年2回、30人ほどが出席して定期的に開いています。
 12月末の会では、伊勢神宮・伊豫豆比古命神社・金刀比羅神社の新しいお札を受け取り、手分けして近所の氏子の家に配って会費を集めています。3月末の会は1年間の直会で、氏子間の親ぼくを図っています。奉賛会に批判的な人々や神そのものを信じない若者も増えていますが、椿さんはやはり石井の祭りです。そのためには住民に神社の縁起や祭りの由来を知ってもらうことも必要だと思っています。」

 イ 縁起物を売る

 **さん(松山市居相町 昭和16年生まれ 58歳)
 椿祭りの参道の両側にずらりと並ぶ露天商は椿神社と特別なかかわりはないが、楼門を入って境内で宝船・縁起笹などの縁起物を売る13軒の店は神社から特に許された地元の営業者である。三十数年間この商いを続ける**さんに、縁起物の宝船が誕生するいきさつから製造過程について聞いた。
 「明治時代のいつころかは知りませんが、うちのおじいさんが椿神社の一日市でニンジンやダイコンを売っていたのです。そこへ、先々代の宮司さんが何ぞおめでたい売り物はないかと言うので、うちのおじいさんが椿祭りに大福帳や恵比須(えびす)・大黒(だいこく)さん(七福神で商売繁盛の神々)の人形など縁起物を売る商売人を呼んできたり、興業主の世話をしたらしいのです。露天商が集まり吉兆の縁起竿(ざお)を売ったりし始めたので、我々も米俵の縁起物を売ろうということになったのです。そのうちわたしのおじが福岡の十日戎(とおかえびす)の縁起物をまねてしめ縄をつけた俵を乗せた宝船を考案したのです。伊豫豆比古命がこの地にお船を寄せたという故事にちなんだもので、宝船は椿神社特有の縁起物になりました。縁起笹は帰りの伊予鉄道の汽車の中で目を突くとか笹が枯れて汚くなるとかでだんだんと敬遠され、俵物と宝船が多くなりました。今は福寄せ熊手(くまで)もあります。熊手や飾り物は製造業者に注文して取り寄せていますが、わらは自家製で、稲穂の節が上がらないうちの7月末に刈り取って作っています。本職の仕事をしながら夜なべで俵や船形のしめ縄を編んでいます。10月になり稲の取り入れ、秋祭りが終わると、さあ今度は椿さんだと、家内共々毎晩11時ころまで縁起物の製造に掛かります。」
 **さんに、縁起物の商いについて聞いた。
 「おたやん飴(あめ)(*2)やまんじゅうを並べたらとの話もありましたが、境内13軒の店はこぞって縁起物一辺倒です。参道の露天商は縁起物を売っていません。売り上げは椿祭りの縁日によって微妙に違います。月給をもらって間もなくの1月の終わりころに祭りがある時はよく売れます。サラリーマンが給料をもらう前の20日ころの時はあまり売れません。縁起物の売り上げは景気不景気に左右されると世間では言いますが、あまり影響はありません。それでも7、8年前の好景気の時代には大きな物がよく売れましたが、今はあまり出ません。景気にかかわりなく、会社・商売人の上得意20軒ばかりからは毎年注文があります。人情が廃れたといいますが、『今年も来たよ。』と親しく声を掛けられる人間の交わりは昔と変わりません。椿祭りは、わたしにとって子供のころからの最大の楽しみです。」


*1:新月から満月に至る間の半月で、その初期は太陰暦で毎月7、8日に当たる。
*2:椿祭りの縁起物で、どこから折っても切り口からお多福の幸せの顔が出てくるという長い棒飴。『愛媛の技と匠(③)』
  P23~26「幸せを願うおたやん飴」で、その製造の様子を聞き書きしている。

写真1-3-1 伊豫豆比古命神社(椿神社)

写真1-3-1 伊豫豆比古命神社(椿神社)

平成11年8月撮影

写真1-3-4 お旅所金刀比羅神社

写真1-3-4 お旅所金刀比羅神社

平成11年8月撮影