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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)鎮魂と大漁祈願

 **さん(喜多郡長浜町青島 昭和4年生まれ 70歳)
 **さん(喜多郡長浜町青島 昭和31年生まれ 43歳)
 **さん(喜多郡長浜町青島 大正11年生まれ 77歳)
 **さん(喜多郡長浜町青島 大正15年生まれ 73歳)
 青島の盆踊りは、昭和40年(1965年)に県無形文化財に指定された盛大で特色ある踊りであった。赤穂への耐えがたい望郷の念と無聊(ぶりょう)(心配事があって楽しくないこと)の生活を自ら慰めるために始めたのがこの踊りだといわれ、毎年8月14日、15日の二晩を踊る(⑧)。14日の踊りを「亡者踊り」といい、15日の踊りを「大漁踊り」という。
 **さんは、昭和21年に学校を卒業後、一時青島を離れていたが、昭和53年に釣りが好きで青島に帰ってきた。また、娘さんの**さんは、大阪で生まれ育ったが、39歳の時に島に帰ってきた。**さん、**さんは盆踊りの世話をしている。この四人に青島の盆踊りについて話を聞いた。

 ア 青島の盆踊りのふるさと

 「(**さん)大阪にいたときに、魚釣りが好きで、相生(あいおい)から赤穂の方の千草(ちぐさ)川に、連れと一緒にアユ釣りに行っていました。そのときに、子供心に覚えていた青島の盆踊りと同じようなくどき(*22)が聞こえてくるんで、連れが、『あれえ、あれはあなたの所の盆踊りのはやしではないか、よく似ている。行ってみようか。』と言うので行ってみると、青島のように、四十七士(*23)とか賤(しず)ケ岳(だけ)の七本槍(*24)とかの衣装ではなく(現地のお年寄りも衣装を着て踊った記憶はないそうです)、ただ普通の浴衣(ゆかた)を着て、うちわをもって櫓(やぐら)を作って学校の運動場で踊っていました。『ああ、この踊り方は青島とまったく一緒だな。』と驚きました。ここにはそれまでしばしば来ていましたが、その時までは何にも気が付きませんでした。そして、その時に初めてここが、坂越だということをはっきりと認識しました。わたしは子供心に青島の人は坂越から来ているということは知っていましたし、坂越のことはいろいろ聞いていました。が、踊りのくどきを聞き、踊りを見るまでここが坂越だとは気が付きませんでした。」

 イ 青島のくらしの思い出

 「(**さん)昭和38年(1963年)は大不況でした(*25)。その影響でもないんでしょうが、青島もわたしの子供のときには今の生活からみれば、大変苦しい生活をしていました。タイ網とイワシ網という二つの網漁で、年間収入の半分位を占めていたんですが、網元さんも年を取り、魚もいなくなって、昭和38年にたくさんの人が島を出て行きました。それからしばらくすると、魚の値段が次第によくなってきたので、島から出て行った人がまた島に帰って来ました。ずうっと青島にいたのは、**さんくらいです。他の人はみんな1年から2、3年は島外へ出て働いていました。
 子だくさんで、1軒に6人も8人も子供がいましたから、自然と船で寝起きしたり、結婚するまでは、若者は海洋道場(*26)で寝泊まりしていました。離島振興法(*27)ができて、水の便などもよくなりましたが、まだまだです。これからよくしていきたいと思っています(写真1-2-17参照)。
 青島の人々は老齢になると、子供の所に行きたい、でもここで死にたいという二つの思いがあります。生活ができなければ子供の所に行かなあしょうがないでしょう。自分で御飯が炊けなくなったら行かざるをえません。しかし、その子供たちにも、いろいろな事情で、なかなか頼ることができません。」

 ウ 盆踊り

 (ア)亡者踊り

 「(**さん)14日の日は、亡者踊りです。その年に亡くなった方の霊を慰めるために、灯ろうを櫓(やぐら)のところに立てて、それを中心に踊ります。その後、海水浴場で灯ろうを焼いて、それをお坊さんが海に流します。亡者踊りでは、四十七士の衣装を着て踊ります。四十七士にはなんの縁もゆかりもないと思うけれど、結局青島の人は赤穂から来たということで、赤穂への郷愁があるんでしょう。例えば、学校の横に観音さんがあったんですが、その裏の横に寺坂吉右衛門(1665~1747年)の墓があります。寺坂吉右衛門というのは、足軽で、吉良邸へ打ち入りの後、結局切腹しないまま、どこへ行ったか分からない人物なんです。それで、その墓が、逃げ延びてきて青島で死んだ寺坂吉右衛門の墓だと言うんです。同姓同名の別人の墓かも知れませんが、年代的には合いません。本物の寺坂吉右衛門の墓ではないと思います。ま、しかしそれだけ赤穂への思いがあるということです。
 四十七士は、集団で両国橋を通ると、怪しまれて吉良の屋敷に近づき難いので、昔の大名の火事装束の衣装で打ち入りました。そこで、我々の踊りの衣装も火事装束です。そのなかに、いろは四十七組(*28)なども組み合わせました。大高源吾(*29)(1672~1703年)などの力のある人の役をする者には門を破るための大つちを持たせたりしています。
 いろんな所に行って、四十七士の踊りを見ましたが、衣装はそれぞれの地域で全部違います。山形模様(*30)と、えりに名前を書いているのは一緒ですが、ほかは、頭に鉢巻きを付けている所はあるし、帽子を付けている所があるしさまざまです。
 踊りは、1年間の死者の霊を慰めるもので、素朴なくどきに合わせて独特のしぐさで踊ります。以前は亡者踊りの後に、那須与一(生没年不詳)(*31)とか花笠踊りとかも踊っていました。今は年寄りが多いから、30分とか1時間くらい踊ったら疲れてしまいます。踊るおばあさんたちもお孫さんが帰ってくるので御飯を食べさせて、それからお孫さんに衣装を着せて、化粧もするので時間が大分かかります。特に衣装が、昔の時代がかりのものなので着せるのがわりと難しいし、衣装を着せる人もだんだん少なくなったので時間が取られます。また、20、30人の眉毛(まゆげ)をかいたり、かつらをかぶせたりするのも大変です。だから後の手のすいてる、公民館の婦人部の人たちに早めに、浴衣を着て踊ってもらっています。それで今は、夜の8時くらいから踊り始めて、もう9時くらいには終わります。」

 (イ)大漁踊り

 「二日目は、漁師が大漁を祈願し、魚の供養もする大漁踊りです。この踊りでは、豊臣秀吉(1537~98年)と柴田勝家(1522?~83年)が戦った時の、賤ヶ岳の七本槍というのがありますが、それにちなんだ衣装を着ます。なんで賤ヶ岳の七本槍か、そのいわれを調べたんですが、理由ははっきりしません。ま、にぎやかな大漁踊りだから、活気のある七本槍ということで取り上げたのかなあと思っています。この日も夜の8時から9時くらいまで踊ります。
 昔は、人気のある武将役の装束は奪い合いになるほどでした。秀吉になるのは家柄のいい人じゃあないとなれないとか、大石内蔵助(*32)(1659~1703年)は、家柄がどうのこうのと大変でしたが、今は秀吉というのはやはり主役になるから、背が高くて男前で若い者ということになっています。今ではもう大して文句を言う人もおりません。大体は島に帰った人から選びますが、いない場合は島の人にしてもらっています。現在は、男も出て踊ってくれと踊ってもらうように呼び掛けるんですが、島外の男の人はほとんど踊りません。昔は男が踊るもんだったんですが、今は女が主に踊ります。以前は、張りぼての馬も出てにぎやかだったんですが、馬も壊れて、今は倉庫の中に眠っています。」

 (ウ)盆踊りの思い出

 「(**さん)わたしは生まれは大阪で、3年半くらい前にこちらに帰ってきました。両親が、わたしが21歳くらいの時に、青島に帰って来たのでそれ以来、夏休みにときどきこちらに来るようになりました。最初のころは、踊りをぼうっと見ていたので何も感じませんでしたが、30歳前くらいから意識して見るようになりました。
 初め見たころは、踊り手はたくさんいましたが、わたしがこちらへ帰って来てからはかなり少なくなってきました。子供さんやお孫さんが混じって、何とか輪の形が取れるくらいです。わたしが遊びに帰って来たころにはもっとたくさん、私服でも踊っていましたが、今はそういう人があまりいないんで、輪がだんだん小さくなりました。踊り手がだんだん少なくなってしまい、踊り手を確保するのに今まで踊ったことのない人まで駆り出しているといった現状です。
 わたしの妹は、『ここの踊りは独特でリズムが取りにくい。だから歌い手が変わったりするとまた全然違ってきて、さらに難しい。』と言っていました。多分ここの踊りは他の地区の踊りよりは、難しいんじゃあないかなと思います。おじいさん、おばあさんの代くらいの人なら、体が覚えてて踊れるんですが、孫の代ぐらいになるともう踊れません。参加するだけです。お孫さんたちに踊りを教えたりはしていません。見ながら覚えていくものだということです。踊りにかかわるにつれて、前はそんな感覚はなかったのに次第に愛着が出てきました。」
 **さんと**さんに盆踊りの準備などの苦労について聞き、二人の話をまとめた。
 「毎年のことですが、盆前の8月に入ると、おみそ作りなどで忙しくなります。それで、みんなが7月初旬ころから、暇を見つけては、盆踊りの衣装を全部出してつって、傷んでいるところを修理し、ないものは作っていきます。なかなか手間が掛かります(写真1-2-20参照)。今は衣装は公民館で準備しています。わたしたちが子供のころには、青年宿というものがあり、ここで刀も鎧(よろい)もかつらもちゃんとこしらえていました。昔は器用な人が多かった。青年団なんかも寄り合って、赤と白の糸の交差したきれいな鎧を作っていました。子供のときは衣装や道具を見ても見がいがありました。そういうものの補修は男が担当していました。しかし今は、男手が少ないので婦人会が補修を担当しています。どれくらい衣装が要るかと考えながら出していますが、忠臣蔵用は47着ありますが全部は着ないので余ります。
 お盆に灯ろうをつりますが、それを14日の晩に踊り場に出す、そして供養に踊りかけてあげるのです。だからその晩に忠臣蔵を踊るわけです。だけど島に住む人が少なくなったので踊る人も少なくなりました。踊るのもほとんどが女の人たちです。小さな子供は踊りを教えていないから踊れません。今は、大体30人くらいが踊ってます。
 この青島では、島から出ている人は、普通はお正月やお祭りには帰りませんが、お盆にはほとんど帰って来ます。100人以上帰るときもあります。わたしらの孫も普段は、お正月でも氏神様の祭りでも帰りませんが、お盆には夏ではあるし、磯に行けて踊りもできるというので、ほとんどが帰って来ます。お盆になったら船が満員なので予約しないといかんぐらいです。帰る子らはたいてい8月の12、13日くらいに帰って来ます。が、みんな仕事を持ってるから2、3日いたらまた帰ってしまいます。わたし(**さん)とこは、子供が6人、孫は12人いて、尼崎市やら、呉市やら、あちこちにいます。しかし、だれかは仕事で帰れんというし、よくよくじゃあないと全員がそろうたことはありません。そろうたのは、お父さんの新盆(初盆)の時だけでした。この時は、お父さんが亡くなったので今年はお灯ろう(初盆)なんだから、子供も孫もみんなが踊って、お父さんを喜ばしてあげようとみんなが帰って来て踊りました。お盆がたいぎい(しんどい)と思ったことはありません。第一、子供らが帰ってみんながそろうから楽しみです。今年の盆はいつごろから帰るのかしらと、今からでも待っているくらいです。会えるのは盆くらいなものですから。みんなが帰って来ると小さな家にたくさんの人が寝ることになるので、半分くらいは夜通しざわざわして起きています。孫は、昼は泳げるので楽しみにしています。踊りは孫にはまだみんな教えてませんが、長男の子は、教えたので踊っています。わたしたちは小さなころから踊っていたので、他のことは忘れてもこの盆踊りだけはいつまでたっても忘れません。
 平成5年くらいまでは女の人のくどきがありましたが、今は、くどきをする人がいなくなったので、録音でしています。わたし(**さん)のばあさんがくどきをしていたころが踊りの最盛期でした。そのころはお盆といったら島中挙げて、1か月前から、自分で着る衣装も準備していました。とにかく青島の盆踊りが、県指定の無形民俗文化財になっているから継続していかなければいかんと思います。島民が少ないので盆のときはとにかく忙しいです。夕方から家でおちおちと子供と話をする暇がないような状態です。もう時間だから行かないといかんということで、みんなの集まる倉庫へ行って、踊り手の顔も作ってあげたり着るものも着せてあげたりしてたら、いつのまにか時間が過ぎています。終わって、やれ孫と海に行こうかと思ったら、もう踊りの時間になってしまい、帰らずにそのまま踊ったりしていました。
 今の子は着物の右も左も分からんでしょう。反対に着る子はいるし、ひもの結び方も分からない子はいるし、踊らない子には衣装を着けることはないと思います。踊りも少しは方針変えて2、3日前に手振り足振りを教えたら、慣れて少しは踊れるようになると思います。
 子供は自分の生まれ故郷だから帰って来ることを楽しみにしています。ひ孫も、去年来て泳いでいるので、『また行きたい、行きたい。』といまから言ってます。」

 (エ)盆踊りの存続を

 「(**さん)昔、青島には区が四つありました。その区がなくなる前までは、青年宿に未婚の男性はみんな寝泊まりしていたので団結力がありました。しかし、戦後青年宿もなくなり、漁獲量も減り、人々も島から出て行き、なにもかもが分散して衰えてしまいました。だけど盆踊りだけは、県の無形民俗文化財に指定されたので、現在もどうにか続けています。盆踊りを続けるためにあらゆる努力をしました。地元の高校生に踊ってもらったりもしましたが、すぐ卒業してしまうので、こりゃあ小学校の方がいいということで、小学校でくどきの録音をとってもらったり、2回ほど盆踊りの衣装を貸して踊ってもらったこともありました。また町の職員に、青島で踊ってもらったこともありました。が、いずれにしても長続きはしませんでした。本当に好きな人しか踊れません。今は鎧(よろい)とか四十七士の打ち入り道具とか衣装とか、そのような道具類だけは、公民館で「盆踊り保存会」的なものを作り、寄付をしてもらったりして、努力して保存しています。
 現在は都会の方から帰って来てもらわないと、踊る人数が少なくてどうしようもない。また、今は子供さんが帰って来る時代から、お孫さんの帰って来る時代になりました。お孫さんでは踊りを知らない子が多いから、どんどん寂れてきています。それでも、まだおじいさん、おばあさんが生きている間は、子供さんがお孫さんを連れて来るので踊る人数は何とか確保できています。普段青島では、水を1日6tから8t使っていますが、お盆の多い時は1日80tくらい使うようになります。だから8月10日以後は、公民館もキャンプ場も、水を使わせないように閉鎖しています。今までで、多いときには400人くらい島へ帰って来ていましたが、今は150人くらい帰って来ています。大阪、関東、九州、広島方面から帰って来る人が多く、松山方面からは少ないです。松山方面からの人は、墓参りをしに日帰りで帰る人が多いようです。郷愁は遠方の離れている人ほど強いですねえ。」

 エ その他の青島の主な行事

 青島にも昔からさまざまな行事があったが、人口が減少し高齢者だけの島となりつつある現在、それら行事の中にも廃れてしまったものもある。しかし、何とか島の活性化をということで、**さんは昔の行事を、年寄りだけでもできるようにアレンジしたり、また新しい祭り作りにも工夫を凝らし努力している。**さんにそれらについて話を聞いた。
 「青島の漁業者も寂れたらいかんということで、10年くらい前から8月15日に、島へ帰って来た人を船に乗せて島巡りをしています。船に大漁旗をいっぱい立てて、島を競争みたいに回るんです。その時は島の全部の船を出します。
 『せっかくお孫さんやらみんなが帰るんだから、盆踊りだけだと寂れるから、大漁祝いでもあるし漁師はみんな船に旗立ててにぎやかにしよう。』と頼んだら、みんなが協力してくれて、『それだったら一遍その日に島巡りをするか。』ということになって、軍艦マーチをかけてみたり、いろいろな曲をスピーカーで流してにぎやかに島巡りをしています。現在は子供もたくさん乗り危ないのでそれぞれがゆっくり行くようにしています。
 正月の一日には、坂越からの昔からの仕来りでしょうか、『門付(かどづ)け』といって、女の人が家で正装をしてお膳(ぜん)を作って、男は正装をして(紋付きはかまを着て)、1軒ずつ『おめでとうございます。』と言って、各家を回る習慣がありました。神社仏閣(ぶっかく)を回って、それから1軒ずつ各家を回りました。そして各家へ上がってはお酒を1杯ずつ飲んでいました。しかし、女の人もお客さんを待つのが大変だということで、もう4年くらい前に、二日に新年会を公民館で開いて『門付け』の代わりにしています。
 島四国というのもありました。個人が石仏を作って、島の中八十八か所にそれらを置いていたんです。赤紙(徴兵制度のあったころの、国民への軍の招集令状)がきたら、武運長久ということで、この島四国八十八か所を回っていました。漁師だから縁起を担いだんでしょう。今はしんどい(疲れる)から山から石仏をおろして道端に置いてしまっています。
 1月2日の新年会と1月10日のとんど焼き、そして盆踊りと8月15日の戦死者のお墓参りは島民が全員で行います。料理教室や敬老会も公民館でしています。灯台へ行く道を年3回清掃しています。だから道があるんで、そうでなかったら、みんな動くのがおっくうな年寄りばかりですから、道もなくなってしまいます。わたしが70歳でこの島では2、3番目に若いんですから。」


*22:口説歌のこと。盆踊りなどに用いる民謡・流行歌で叙事的な長編の歌。単純な節で軽決なものが多い。
*23:元禄15年(1702年)12月14日、播磨国(現兵庫県)旧赤穂藩の浪士が藩主浅野長矩の無念を晴らすため吉良義央を襲
  撃して殺害した赤穂事件があった。このときの浪士の数が47名であった。
*24:北近江賤ヶ岳付近(現在の滋賀県伊香郡木之本町、余吾町付近)での羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家との合戦の際、秀吉
  方の加藤清正、福島正則らの戦場で活躍した七人のこと。
*25:昭和38年は、岩戸景気(昭和33年~昭和37年)という好景気が終了した後であり、次のオリンピック景気のピーク(昭
  和39年)を迎える前である。しかし、青島辺りではオリンピック景気の恩恵に浴する素地はなく、岩戸景気の後の不況に
  まともに見舞われ、続く40年不況に突入していったと思われる。
*26:昔は若者宿とか青年宿とか呼ばれていたが、大正初期には青年会になり、戦前には青年団となり、「戦後は海洋道場と
  呼称が変わったが、その間ずっと合宿制度を続けていた。しかし次第に島外へ就学就職していく者が増え、昭和35年
  (1960年)には消滅した。男子が17歳(数え年)に達した正月二日、元服(げんぷく)と称して親から長袖(そで)の着物が
  与えられ、親戚の者に連れられて合宿に入る。結局17歳から入営、または結婚するまで、夜は合宿所に寝泊まりし、正月
  以外は家に泊まることはなかった。島には3軒の合宿所があり、青年たちは家で夕食をすませたのち集まってきた。(⑨)」
*27:離島の振興を図り、住民の定住を進めるために昭和28年(1953年)に制定された。
*28:江戸時代、江戸市中に設けた町火消。いろは四十七文字(へ・ら・ひを除く)を冠して、い組・ろ組などと組を分け
  た。
*29:赤穂浪士の一人。茶事を好み、主君の長矩死後、茶人山田宗偏や羽倉斎(荷田春満)と交わり吉良邸の内情を探った。
*30:黒と白の山形模様(山の形の三角形)。主に袖(そで)に染めた。この黒と白は普通、夜と雪をかたどったものと受け取
  られているが、ごく素直に水(白い三角)が火(黒い三角)を鎮める図柄と取るほうがいい(⑩)。
*31:鎌倉初期の武士。下野那須の人。文治元年(1185年)屋島の戦に扇の的を射落として名をあげた。
*32:前述(脚注23)の四十七士の指導者。赤穂藩の家老であった。

写真1-2-17 現在の青島の風景

写真1-2-17 現在の青島の風景

平成11年7月撮影

写真1-2-20 衣装の修理

写真1-2-20 衣装の修理

倉庫で盆踊りの衣装を修理する。平成11年8月撮影