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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)ユーモラスな祭り

 ア 城川町土居の御田(おんだ)祭

 **さん(東宇和郡城川町土居 昭和4年生まれ 70歳)
 農家の人々の最大の関心事である五穀豊穣は、彼らの懸命な努力にもかかわらず自然のもろもろの力によって左右されることが多い。そのため人々は昔から神の力やその支配を信じて真剣に五穀豊穣を祈願し、率直にその願望を表現してきた。
 そうした表現の一つである御田植行事は、全国的に春の行事として、あるいは夏の行事として行われているが、その祭りの内容はさまざまで、模擬的な田植えの所作(しょさ)をしたり、あるいは実際の水田での大規模な田植えそのものが祭りとなっているものもある(⑪)。
 城川町土居(どい)にある三島神社の御神田で行われる御田祭は、毎年7月の第一日曜日に行われる。神事の後に、「代かき」「畦豆植(あぜまめう)え」「サンバイオロシ(*22)」「早乙女の手踊り」「田植式」があり、大勢のアマチュアカメラマンなどが押し掛けて、ユーモラスな祭りを楽しんでいる。
 この御田祭に青年時代からかかわり、御田祭実行委員会の総括責任者を務めたこともある**さんに御田祭を支えてきた苦労話を聞いた。

 (ア)御田祭の復活

 「御田祭は、太平洋戦争中は祭りどころの騒ぎではなくて、人不足でもあり一時中断されていたんです。しかし、終戦になって、戦争に行っていた連中が大勢帰ってきて、気持ちもすさんでいましたので、何か娯楽的なものが欲しいということで、御田祭を復活しようということになったんです。当時は土居地区の青年団の人数も多くて女子部も含めて全員で50人くらいはおり、ものすごくパワーがあったんです。御田祭が復活したのは昭和23年(1948年)ころではなかったかと思うんです。
 祭りは、ほとんど青年団が御田祭実行委員会を組織して運営したんです。当時はマイクもありませんでしたので、早乙女の手踊りのおはやしの歌は青年が4、5人並んで歌ったものです。代かきをするウシの方は、各区長さん(土居地区には宮田(みやた)、新開(しんかい)、中町(なかまち)、田中(たなか)、つづら、呉野々(くれのの)の6区がある)にお願いして集めてもらっていました。
 祭りの内容は、今も昔もほとんど変わっていません。ただ大きく違う点は、昔は地域だけの祭りだったんです。近在からウシが好きな者が来て楽しむなど、農民の純粋な田休みの行事で、祭りに娯楽的要素を入れて慰労してたんです。昔は田植えの時に、各農家では、田んぼに、クリの木とカキの木を立ててサンバイサマをお祭りし、おこわとしばもち(サンキライの葉にくるんで蒸したもち)をお供えして豊作を祈願したものですが、この御田祭は、その風習や行事を田休みの日に集約して行い、皆で楽しんだ祭りなんです。今でこそ県外からも観光客が来るようになって有名になりましたが、もともとは地域の素朴な祭りだったんです。
 わたしが子供のころは、祭りになると、小遣いをもらい、買い物するのも楽しみの一つでした。しかし、一番楽しかったことは、平生(へいぜい)はごちそうなんか食べれなかったころでしたから、この日に限ってしばもち、おこわ、うどん、そうめんなどの夏向きのごちそうがたくさん食べれることでした。
 祭りの当日は、三島神社で各集落の代表者などが集まって神事が行われますが、その後、各出場者がそれぞれにお祓いを受けて出場していきます。宮司さんは、直接会場には立ち入りませんでした。この行事のあらましは、土居地区にあるどろんこ祭り保存館にパネルにして展示しています。
 この祭りは、北宇和(きたうわ)郡三間(みま)町で行われていた行事を、明治15年(1882年)ころに、当地の農民高月兵太郎がこの地域に持ってきて始まったという言い伝えがあるんです。しかし、どうも三間町の方ではそんな行事は知らんということで定かではないんです。
 御田祭の会場は、元は今の場所ではなかったんです。昭和50年(1975年)ころに祓川(はらいかわ)トンネルが抜けて道路を付け替える時に、町が少し今の道路より上の場所に移してくれたんです。元の御神田の方が少し狭かったような気がします。この御神田は、終戦前までは神社の所有でしたが、終戦後は農林省の管轄になりまして地代を支払った時代もあったんです。今は町の所有になっとるんです。
 御田祭のお田植えは、苗を植えるしぐさをするだけなんです。御神田での本当の田植えは、後日、作りたい人が小作料を支払って植えていたんですが、今はそんな人もおらず、地元の小学校が体験学習として祭りの翌日にPTAの人たちも手伝って子供たちが植えているんです。秋に収穫した米は、12月に老人クラブの人たちと一緒にもちつき大会をして独居(どっきょ)老人の方たちにお配りしたりしてるんです。もうこのもちつき大会も始まってから8年くらいになりましょうか。」

 (イ)祭りを支える

 「この御田祭は、今は人が少なくなって、土居の6区以外に古市(ふるいち)と窪野に一部応援をお願いして行っているんです。ささら太鼓や早乙女に出演する子供たち(写真1-1-24参照)も近年は非常に少なくなって、遠距離に住む子供を毎日役員が送迎して練習しているんです。ウシも各家では飼育しなくなって、畜産農家のウシを借りているんです。今の若者はウシを扱ったこともないんで、代かきはかつての経験者が主に行っていますが、欠員ができても補充が難しくて後継者不足を心配してるんです。
 祭りの運営には大勢の人の協力がいるんです。なにしろ年寄りから青年、子供、男も女もあらゆる層の人が参加する行事で、前日の草刈りからもちつき、草鞋(わらじ)作り、弁当作りなど、当日の田んぼの中への踏み台の出し入れや子供のおイヒ粧などなかなか雑用があるんです。警備や自動車の整理は、土居地区の消防団や交通安全協会の人にお願いしています。これほど人手のいる祭りはないと思われるんです。この祭りは、土居地区が地域を挙げて行っている行事なんです。わたしが総括責任者となった平成4年は、出演者が60名、準備にかかわった人が延べで150名いました。多額の経費も必要で、土居地区の年間運営費徴収額の半額近くをこの祭りに使っているんです。篤志家(とくしか)(社会奉仕に熱心な人)に寄付をお願いしたり、町にも棧敷席(さじきせき)(一段高く作られた観覧席)を作るなどいろいろと協力してもらってなんとか運営しているのが現状なんです。
 この祭りは、昭和40年(1965年)ころまでは青年団が全部世話していたんですが、その後次第に観光化するにつれて、土居地区の商工会員が主体となって世話した時期も一時ありました。しかし、それも長くは続かず、現在は土居地区の総務区長が中心になって実行委員会をつくり実施してるんです。
 この祭りは、昭和40年ころからテレビやラジオの取材が始まりまして、昭和50年ころにNHKが『どろんこ祭り』と名付けて放送してから有名になりました。昭和52年に東京都にあるNHKホールで全国郷土芸能大会が実施され、わたしも出演しました。土居地区からは全部で10人くらい行きました。早乙女の手踊りの方は、花柳社中(はなやぎしゃちゅう)(*23)の方々に踊ってもらい、田んぼも舞台に作ってもらったんです。泥は黒いのがよいということで、富士山の裾野(すその)から取り寄せて、舞台の下に囲いを作ってビニールを敷き作りました。あの時は、当時の流行歌手二人も出演しましたが、最後には二人とも仮設の田んぼに引っ張り込んでドロドロにした思い出があります。
 この祭りも、現在はあまりにも有名になりすぎて地元では困ったもんだと言っているんですが、町はしてくれと言うし、やめるわけにもいかず、いずれは町を挙げて取り組まなければできんようになるんではないかと心配しています。祭りを実施するのは、ボランティアの塊のようなもので、地区住民の全員の協力がないとできないのです。しかし、祭りの時は苦労が多いんですが、終わってみますと達成感も味わえて、住民相互のコミュニケーションも図れますので、また来年もやろうということになるんです。伝統文化を守るという意味からも継続していかねばならないと思っているんです。」

 イ 代(しろ)かき

 **さん(東宇和郡城川町土居 昭和2年生まれ 72歳)
 御田祭には勇壮な代かきがある。この代かきに40年近くも出場し、現在も指導的な役割を担う**さんに、御田祭での代かきの苦労話を聞いた。
 「御田祭で代かきをするウシは、昔は12頭だったんです。これは土居地区が6区あるので各区に2頭ずつ割り当てた数ではないかと思うんです。現在はウシを飼う人も少なくなって10頭になりました。昔は牛見せといって、自分は代かきでこういう腕を持っているぞという威勢な人(元気のよい人)も多くて、『自分がしてみせるぞ。』という自信家が方々にいたんです。今はウシを扱ったこともないような者が扱うわけで、ウシに引かせるクワ(牛馬に引かせる代かき用農具、マグワ、マンガともいう)の扱い方がどうのこうのと言う時代ではなくなりました。一つの見せ物としてウシをそろえて回ればええと思っとるんです。
 ウシの使い手は、区長さんの責任で選んでもらっています。今年はわたしが最年長で、70歳代が2人、60歳代が4人、50歳代が3人、40歳代が1人です。なんとか後継者をつくらんといかんと思っとるんですが、若い者があまりしたがらないのです。
 代かきに使うウシは、昔は赤ウシも出ていた時もあったんですが、今から16年前ころからはすべて黒ウシの肉牛になりました。昔は雄の玉つきのウシ(去勢されていないウシ)だったんで、まくりあい(角の突き合い)するやつもおって大変でした。その後、ウシが次第におらんようになって、雌ウシも使ったんですが、雄ウシが雌ウシの背中に乗ったりしたこともあったんです。今年(平成11年)は、雌ウシが2頭、去勢された雄ウシが8頭でした。
 ウシの調教は、今年は6月20日から始めていますが、天気さえよかったら毎夕方に調教して、7月2日にはウシを一度水田に入れて最終的なリハーサルをします。始めはウシを歩かすだけなんです。今のウシは肉ウシなんで、こんまい(小さい)時から牛舎につながれて外に出たこともないもんですから、歩かすだけでも大変なんです。しかし、三日間くらい歩かすとウシも観念しておとなしくなるんですが、次には代かきができるように、サッシ(左に)とか、オートモドレ(右回り)などと号令を掛けて訓練しておかんといかんのです。代かきの号令は、昔から伝わってきたものを使っています。昔のウシはいつも人が鍛えとりましたので号令で簡単に動いたもんですが、今のウシは号令だけでは言うことを聞かんのです。綱の引きかげんが大切なんです。
 祭りに出るウシは、今年は2か所の業者から7頭を借り、3頭は個人の方に出してもらいました。大体3歳ぐらいの若いウシです。肉牛にするんで、毎年違うウシになるんです。ですから、毎年最初から調教しないといけないのです。昔はウシをたえず田んぼで使役してたんで、肥えたウシはおらなんだが(いなかったが)、今のウシは肥えとるんです。しかし、祭りが終わると、50kgくらいはやせるんです。回復には1か月くらいかかるんではないかと思うんです。
 御田祭の代かきは、約1時間くらいかけて、クワを付けた10頭のウシが一斉に並んで代かきをするんですが、今のウシは肉牛ですので、水の中に入った経験もなく、10頭を横にそろえるのは難しいんです。最初は2、3頭ぐらいのグループで代かきしながらならし(写真1-1-26参照)、次第に10頭にそろえていくんです。
 この10頭のウシは、一番右端におるウシを表牛(おもてうし)、一番左端におるウシを裏牛(うらうし)と呼び、真ん中の8頭を中牛(なかうし)と呼んでます。両端にはそれぞれ熟練した牛使いである表使(おもてつか)いと裏使(うらつか)いと呼ばれる人がいて、全体をリードしてるんです。特に表使いは号令を掛けて全体のウシを動かしているんです。裏使いは全体のウシの様子を見ながら全体の動きを調整するんです。代かきの順序は、最初にアモトマワリという回り方を1回して田んぼの高低を見るんです。その後、低い所や高い所にはサッシモドレ(左回り)やオートモドレ(右回り)という号令を掛けながらウシを動かし、田んぼの泥をならしていくんです。そして最後に少し休んで宮司さんのお祓いを受け、ウシの鞍(くら)に御幣(ごへい)と旗を付けてもらってから、かきあげ(最終の代かき)を行うんです。表使いが歌う『代かきあげの唄』に合わせて、皆がはやしながら10頭のウシを奇麗にそろえてアモトマワリをして終わります。」


*22:中国・四国地方で、田植えの初めの日に田の水口に土を盛り、そこに栗の枝などと早苗を立てる。田の神を田植えの時
  に招き降ろす祭り。
*23:日本舞踊の流派の一つである花柳流の同門(連中)。

写真1-1-24 お田植え

写真1-1-24 お田植え

平成11年7月撮影

写真1-1-26 代かきをしながらウシをならす

写真1-1-26 代かきをしながらウシをならす

平成11年7月撮影