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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 総津の町並み

 旧広田(ひろた)村(現砥部(とべ)町広田地区)は砥部町南部の山間部に位置し、東側を久万高原(くまこうげん)町と、南側を内子(うちこ)町と、西側を伊予(いよ)市と接する。江戸時代には松山(まつやま)藩との替地を経て、多居谷(おおいだに)、猿谷(さるたに)、総津(そうづ)、中野川(なかのかわ)、玉谷(たまたに)、満穂(みつほ)、栗田(くりた)の各村が大洲(おおず)藩に、高市(たかいち)村が新谷(にいや)藩に属していた。明治維新後の明治23年(1890年)、町村制の実施により、それまで出渕(いずぶち)村(現伊予市)に属していた栗田が他の7か村で構成される広田村に編入されるとともに、村役場が総津に設置された。昭和4年(1929年)の境界変更により、栗田の区域が中山(なかやま)町(現伊予市)へ編入されるが、以後、行政区画の変更はなく、平成17年(2005年)に砥部町と合併するまで広田村として存続した。
 村役場が設置された総津は、村の行政や経済の中心地としての機能を有していた。明治43年(1910年)の『広田村郷土誌』には、「総津ハ高知県須崎(すさき)地方(現須崎市)及本県東宇和(ひがしわ)上浮穴(かみうけな)郡小田(おだ)地方(旧小田町、現内子町)ノ松山地方郡中(ぐんちゅう)地方(現伊予市)ヘ往復(ゆきかえ)リ要路ニ当ルヲ以テ日用品雑貨物酒造業抔(など)軒ヲ列(な)ラベタリ」とあり、人々が行き交う交通の要所であったことから商業活動が活発に行われ、雑貨店や酒造業などがあったことが分かる。また、昭和30年(1955年)に発行された『伊予郡総合郷土誌』には旅館や衣料品店、理容店、娯楽施設などが記され、広田村の経済の中心地としての総津の様子をうかがい知ることができる。
 本節では、戦後から昭和30年代、40年代ころまでの総津を中心とした町並みとくらしについて、Aさん(昭和4年生まれ)、Bさん(昭和8年生まれ)、Cさん(昭和15年生まれ)、Dさん(昭和29年生まれ)から話を聞いた。