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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)親の背中

 子供は学校で教えられるような、きちんとした指導だけで育つわけではない。共に遊ぶ先輩や仲間とのかかわりの中で、学びとっていくこともあれば、普段の家庭生活の中で、語り合い、行動を共にしながら、親の姿を見習っていくことも多い。ここではそうした親とのかかわりについての思い出を語ってもらった。

 ア 大島

 (ア)親の姿を見て

 「(**さん)わたしどもの両親は、『朝は朝星、夜は夜星』で働きよったですよ。山の畑へ行くのも朝早いが、漁に行く家では両親は午前3時、4時の早い時間に海に出るんです。子供にも、明日は両親が朝早く出るということが分かっているんです。だから、上の子は、自分が朝起きて、下の子の世話をするんだということを、小学生の時からすでに知っているんです。朝は下の子を起こし、適当に御飯を食べさして、一番小さい子をおぶって学校へ行くことになるんです。子供たちは子供たちなりにちゃんと生活のリズムを作っていたんですよ。下の子供たちも兄や姉の言うことを素直に聞いていましたよ。しつけられてるとも言えるんです。親の言うこともよく聞きよったですよ。そうは言っても、まだ子供じゃから好き好んでやってるわけじゃないが、一生懸命な親の姿を見ていたら、そうするもんじゃと思ってましたね。それに好きじゃの嫌いじゃの、そんなゆとりはなかったんでしょうね。今は子供が少ないこともあるんだろうけど、親が全部してしまう。子供だって責任持ってやれることがいっぱいあると思うんじゃがね。」

 (イ)元旦の父

 **さんと**さんに話を聞いた。
 「(**さん)お正月の三が日はお餅と米ぎり(だけ)の御飯でした。うちの場合は、6畳の部屋に4本足のついた本膳と二の膳が並ぶんです。お父さんだけが四角の本膳で、わたしらは丸い二の膳で席に着きました。二の膳と言うのは、お客ごとがあった時に、本膳が出て、二の膳はその前とか、横に後からつける膳のことですが、正月の時には父だけが本膳でした。父が正面に座り、母はいつも一番下手で、食事の世話をしてました。
 お父さんは、朝みんなが食べるまでに、神さんにきちっと手を合わせていました。氏神さん、お荒神さん、おいべつさん(七福神の一つ恵比寿さん。写真2-2-26参照)、そしてお稲荷さんを拝んでお供えするんです。これは他のだれにもささんかった。お母さんが『お雑煮ができたけん、お供えしてよ。』と言うたら『よっしゃ、よっしゃ。』と言うて、自分でなべの中から、じかにとって、お供えをしよった。お雑煮には、サトイモ、ゴボ(ゴボウ)、ニンジン、ダイコン、豆腐を入れて、生の切り餅を二切れ入れるんです。それを、おへぎ(神棚などに供えるへぎ板〔スギやヒノキの材を薄くはいだ板〕で作った角盆)に乗せてお供えするんです。元日の朝は、わたしはええ着物に角帯もきちんと結んでもろうて、お父さんの前で、畳に手をついて『おめでとうございます。』と言わざったら(言わなかったら)、はしを持たしてもらえんかった。お母さんが『ちゃんとして、あいさつせにゃあ。』と言よりました。お父さんはものすごく可愛かってくれたけど、そういうことには割合やかましかった。」
 「(**さん)わたしらの子供のころは、お正月には両親が神さんを拝むので一緒に拝んだし、毎朝、口をすすいだら東を向いて、おてんとさんを拝みよったね。こんなんはいつのまにか身につくもんですよ。今はそんなことをする人はもう居ないね。」

 (ウ)漁と親父(おやじ)

 「(**さん)親父よりもっと前の昔の漁は、大阪湾、播磨灘(はりまなだ)、玄海灘(げんかいなだ)方面まで行きよったと聞いてます。艪(ろ)を押して行ったと言うから大変だったでしょうよ。行けば2か月から3か月は帰って来ない。その間親父は居ないんです。わたしの子供のころも父親が播磨灘へ出て行くタイ漁は、3月から5月一杯でした。そんな中で、特に長男長女は厳しくしつけられたですよ。子供も親の言うことには従ってましたし、下の者を大事にするということは、当時の気風というか、大島全体がそうじゃった。と言っても一つ二つ違いの兄弟も多かったから、適当に喧嘩もしていました。わたしの場合は、17歳も19歳も違う弟や妹がおるんじゃけんど、兄ちゃんの言葉は絶対じゃったと言いよります。わたしは兄弟が10人。3人が亡くなって今は7人ですが、わたしは長男だったんです。親父が居なかったら、『これはわたしがやらにゃならん。』という気持ちがどこかにありました。親父が居ない状態が当たり前ですからね。親父は、仕事に行く時には、一ロだけ、『後は、がいようにしとけよ(具合よくしておけよ)、お母さんの言うことを聞いて。』とこれだけですよ。これが長男に対して、代理を頼む、お前に任したぞということだったんですかね。知らず知らずのうちに、それを自分に任せられたという認識になっていたんだと思うんです。だから、子供は子供で、家の中での自分の分野というものをおのずから、知っていたんですよ。」

 (エ)懐かしい両親

 「(**さん)親父はわしを怒らんかった。それでも時に、『人の後からついていくようになったらいかんぞ。いつでも一足二足先へ行っとれ。』とか『学校を出るときゃ一番で出てこい。』とか言うとった。『お父っつぁん一番で出てきたぞ。』『ほうか。』そんなかった。お母はんは、ええお母はんだっだ。いよいよ(大変)優しかった。20歳になった息子を二人死なした。一人は病気、一人は海難で。歌が上手なお母はんで、二上(にあが)り新内(しんない)や米山甚句(よねやまじんく)、博多節(はかたぶし)など、いよいようまかった。お母はん一人で、イモを炊きながらでも台所で歌いよったし、わしが寝る時ええ声で歌うてくれるんよ。小さい時分に聞いた歌は、90歳になる今でも耳に残っとんじゃ。自然に歌の文句が出てくるんじゃが、いつの間にか覚え込んだものじゃろう。それぐらいよく歌ってくれたんじゃろうし、お母はんの声がうれしかったんじゃろな。それが、兄貴が死んでからはぴたっと歌わんようになってしもうた。ええ親父じゃ、ええお母はんじゃ思うとったら、いつの間にかそれに倣(なら)っとるのじゃろうて。」

 イ 八坂地区

 (ア)父との田舎回り

 「(**さん)わたしは9人兄弟です。上二人の兄は生まれてすぐに死んでしまったから、わたしも育つやらどうやらというので、案外に自由にさせてくれたんですかね、幸いに元気で育ったんですよ。本当は三男なのに長男というわけです。弟はなくて後6人は姉妹でした。親父が昔人間だから、おふくろが『勉強ささにゃあいけん。』と言うても、『男は勉強せんでも商売したらええんじゃ。』と言いよりました。卒業したら、ガラス切りやガラス替えに行ったりしながら、少しずつ家業を身につけていったんですよ。小学校のころからいつの間にか少しずつ見習っていたんでしょうが、全部親父や家に居た職人を見よう見まねでやりましたよ。親父は無理に仕込むということはせんかったです。それとも、見習えと言うことで、黙って見守っていてくれたんですかね。田舎回りなんかには一緒に連れていかれたですよ。」
 次の**さんの一文には、父と二人で田舎回りをした時の思い出がつづられている。
   
   「夏の風物詩-どじょう汁」  
 夏の季節。蠅(はえ)取り瓶(びん)を田舎の店屋へ卸(おろし)に回ったものである。店によっては魚取り瓶も置いて回った。
 それは、親父の手伝いで、リヤカーを押しての田舎回り。郊外の田んぼ道には必ずと言ってよいほど「せんだん」の木の木陰に店屋があり、そこには風鈴と共に「どじょう汁」と書かれた札が、風にゆらゆら揺れていた。これが懐かしい夏の風物詩であり、食欲をそそるのである。父もまたこれに目がない。
   「よし、どじょう汁食おう。」
 店の前の木陰の下の縁台にどっかと腰を下ろす。旨そうなどじょう汁の香りが、ぷんと鼻を突く。
   「二人分やってや」、「ハイニつですな」
   「ところで、蠅取り瓶はいくつ置こうかな」「十も在ればええじゃろう」
   「よし、二束降ろせ」「ウン、二束、十個じゃな」
 やがて、丼鉢二つの「どじょう汁」が出る。熱い、熱い。さすが田舎は田舎の味がある。これがあるから田舎回りは止められない。丼鉢一杯食うと腹一杯である。満足、満足。親父もニッコリする。
   「サテッと、次に回るか」
 
 (イ)お説教ではなかったけれど

 「(**さん)わたしは両親と3人家族でした。父は趣味が高じて、大工だったのをやめて、小鳥屋をやっていました。父は子供好きで、わたし一人しか子供がいなかったために、近所の子供やいとこたちが遊びに来て食事も一緒にするのをとても喜んでました。父は活動写真(映画)によく連れていってくれましたが、その時は近所の子供も一緒に連れていったり、皆をかわいがってました。帰りには、『亀屋』のうどんを食べさせてもらった。おいしかったですよ。そのためか、近所の子や従兄弟たちが、『**姉ちゃん、**姉ちゃん』と慕ってくれました。だれとでも仲良くせいなどと説教めいたことは言わなかったけど、今考えると、それが当たり前のことだと教えてくれてたんでしょうかね。」

 (ウ)家族そろって

 「(**さん)わたしの家では御飯は皆親と一緒でした。朝早くても夜遅くても家族そろって食べましたよ。わたしの場合は、学校が近くだったので、昼御飯も帰って家族と一緒にしていました。夏の夕方になると、家の前に縁台を出して涼みますし、涼しいからその縁台で夕飯を食べたりしました。そんな時は、隣近所も一緒だったりして話しながら食べるようなこともありました。縁台で花火をするのも楽しみでした。近所の子供たちも一緒にいるからにぎやかでもあり、楽しかったですね。中の川沿いの道幅は3mくらいでしょう。縁台を家側や川側に出すものだから歩いて通るのが精一杯だったですよ。時には川の中へ縁台を降ろして涼んだりしたこともありましたよ。そのころは親に反対するとか、反抗するとかは考えられんかった。子供のわたしらは、精一杯遊んでいて、家では勉強はそんなにしてなかったけど、だからといって、親も細かいことをあれこれ言うこともなく、自由に遊ばせてくれました。経済的には決して、今ほど豊かではなかったはずなのに楽しかったですよ。」

 ウ 日吉村

 (ア)親の思い

 **さん、**さん、**さんに聞いた。
 「親の言うことを聞かずに、ちいとサボッたら、昼飯抜き、夕飯抜き、そういう風にわたしらは厳しくしつけられてきたんですよ。親がめんどいというより、子供もそれなりに家の手助けをせなんだら(しなかったら)、生活でけんという貧しさがあった時代です。たくさんの子供を養っていかにゃならん(いかなければならない)という苦労が親にはあったじゃろうし、子供も子供なりに今とは違う手伝いの苦労があったですよ。その時分は『働かざる者は食うべからず。』と言われたし、とにかく一生懸命働いてました。親が背中を丸めてくわをふるっている様子やぐったりして山や畑から帰ってくる姿も目に入ってました。そんな中でも、子の将来を考えて働ける者、家庭を持てる者、食うていける者にせにゃいけん(しなければいけない)と思っていたんじゃないですか。もっとも今、親になってそう思うのじゃが、そのころは生活することで精一杯じゃったのかもしれんです。」

 (イ)ヤマイモ掘り

 「(**さん)わたしは親父には山へもよく連れて行ってもらったですよ。ヤマイモ掘りに行ったことがありました。ヤマイモを見つけても、そこから掘ったんでは駄目なんです。『手前の1mくらい下から掘れ。』と言うんです。『この蔓(つる)の大きさを見ると、このヤマイモは、1mくらい地中に入っているだろう。山の傾斜を考えたら、1mほど手前から垂直に下った辺りから掘らんと、あの長い先までをきれいに掘り切ることはできん。』と言うんです。そこから、石ぐわで掘り始めて、近くまで行ったら、小さなこてのような形の物を作っていて、それで、『イモを傷つけないように、小石を取り除きながら掘るんじゃ。』と言うんです。最後まで掘るように気はつけるんじゃが、わたしも、気が短いから最後まではよう掘らんのです。すると親父が『このヤマイモのここが一番ええとこじゃのに、そこで切ってしもうとる。』と言うて笑われたりしたものですよ。
 親父と一緒にやってると、竹はうら(先)から、木は元(根もと)から割るもんじゃとか、横にさけるやつは毒茸(どくたけ)ぞといった、その時々にひょいひょいと出る言葉や親父の何気なくする動作から、いろんなことを教えられたようにも思います。
 今も親父に感謝していることは、わたしがどこへ行っても、『ああ、**の子か。』と親父のことをよく知っていてくれて、いよいよ大事にしてもらったことですよ。どこへ行っても、皆に可愛がってもらうことは、うれしかったし、有り難かったですよ。親父からの無上の贈り物でした。親父のことが今ごろ分かりかけたというか、若いころは、ちいとは、親父より偉くなってやろうと思ったけど、やはり、親父にはかなわんなあとも思います。」

 (ウ)母と父

 「(**さん)母は今で言う教育ママだったでしょうか。良い意味でも悪い意味でも学校の関係のことはうるさかったですよ。学校で入り用があった時にはどんなことをしてでも用意してくれました。学校もあれこれ持ってこいと言うことがあるんですよ。父に言うと『なんじゃかんじゃとお金、お金言うて。』と怒るんですよ。二つ三つ違いの子供が9人いるんですから、いつでも何人かは学校に通いよったです。お金も大分要るし父も大変だったんでしょう。でも、母は、『学校に要るもんじゃけん、無駄使いじゃないんだから、何を倹約してでも、出してやらな、いけまいがな。』と言うて出してくれました。自分は何ちゃ(何も)持ってないのに、父の財布から抜いてでもしてくれました。それは、有り難かったと今でも思います。わたしが青年学校本科へ行けたのも、母の考えがしっかりしていて、応援してくれたからだと思います。そんな母のもとで、子供たち8人が皆6か年皆勤じゃったですよ。そのかわり、頭が痛くって、今日はサボろかと思っても、少しくらいのことでは、なかなか許してくれんかったですよ。雪だろうと、雨が強かろうと、学校があるかぎり、行くのが当たり前と考えているんですから。わたしが冬、霜焼けができて歩けなかったことがありました。小学校の2年生の時ですよ。母が、『勉強は、足でするんじゃない、頭でするもんじゃ、連れて行ってやらにゃいけん。』と言うもんじゃから、父が自転車で連れて行ってくれたんです。
 わたしの父は、親が父に勉強をさしてなかったんです。学校へ子供をおんぶして行ったりしてたもんですから。でも、結婚してから、せめて組の人の名前くらいは、読んだり書いたりできにゃいけんと母が教えたそうです。『勉強してなかったから、母ちゃんが全部教えてくれてのう。皆、読めたり書けたりできるようになったんぞ。』と言よりました。この親の夫婦喧嘩を見たことがありません。子供が9人も居るのに、そんな姿は一度も見たことがないです。だから、嫁に来る時、『嫁に行って、子供ができた時に、夫婦喧嘩を見せてくれるなよ。』と言われました。わたしらは、するまい言うても15年ほどしかなかったから、する間もなかったですらい(ですよ)。」**さんは結婚して15年目に御主人が病で倒れて以来31年、御主人の介護を続けながら、70歳になる今も、4反(1反は約10a)の田を耕作し、畑で野菜を作る現役の農婦である。サバサバとしたその口調、その表情は何の陰りもなく輝いて見えた。その側で、夫の**さんが、表情をゆるめながら**さんの話を聞いていた。

写真2-2-26 おいべつ(恵比寿)さん

写真2-2-26 おいべつ(恵比寿)さん

左から恵比須・大黒・布袋(ほてい)の像。大島の毘沙門堂内にある。平成11年1月撮影