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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)自然を友に

 ア 大島

 大島は新居浜市の北東部にある黒島から、新居浜市営汽船のフェリーで約15分の海上に浮かぶ、周囲約8kmの半農半漁の島である(写真2-2-1参照)。修学旅行とか、卒業前のお別れ遠足以外は島外に出ることが少なかった大正期から昭和にかけての子供の遊びについて聞いた。

 (ア)春夏秋冬

 **さん、**さん、**さんの話。
 「春は、イタッポ(イタドリ)が出たら山へよく採りに行った。最近は皆、いためて食べたたりしてますが、その時分は、のどか渇いたら、塩を付けたり、そのままで食べました。節をつけたまま切って、節の反対側に鎌(かま)か包丁で切れ目を入れて、水につけておくと花が開くように広がって、いかりのような形ができよった。山ユリ、野ユリが咲いたような形にも似ている。それをいかりと言いよった。節の両端に切れ目を入れて作れば水車じゃろうけど、ここでは、水車を見んかったから、全部いかりと言いよったです。アサリ掘りも楽しかった。きれいな砂浜があって、なんぼでも掘れよったね。
 女の子はおはじきやお手玉もやったし、低学年のころは家に帰ると人形ごとをよくやりました。人形は、散り紙に綿を入れて糸でくくり、目や鼻をつけ、頭は墨を塗って作りよったです。その人形に、きれいな端切れを巻いて、着物のように着せ替えたり、座布団も端切れで作ってそれを巻いて人形に負わしたりして人形ごとしよったですよ。
 夏は、海ですよ。学校から帰って、用事から解放されたら、一日中、暗くなるまで海で遊びました。学校で水泳の時間なんて無かった。皆帰ってから勝手に自由に泳ぎ回ったんじゃから。海ホオズキをよく採りました。中に種みたいなのがあるんです。その海ホオズキを梅の汁にかしたり(水などにつけること)、シソの中に入れて、色をつけて、口に入れて鳴らすんです。今はもう、あれの太っているのはあまり見んねえ。チヌイカ(小さいイカ)も、ようけ(たくさん)泳ぎよった。それを日本手ぬぐいですくったり、つかんだりしました。女の子もそんなにして遊びよった。
 大正のころはまだパンツなど無いころだから、女の子はお腰を巻いて泳ぐんです。それがフアーッと浮いてくるんですよ。昭和になっても、10年ころまでは、男の子は、まだほとんど、ふりちん(まるはだか)で泳いだですよ。ふんどしなんか無いんじゃから。パンツで泳ぐこともあったが、はき替えなんか持ってないんです。はいたまま泳いだら、それが乾くまで、そのままで遊んだものですよ。
 秋は、山に上がる。アケビなどの木の実が熟れる。ほとんどアケビです。イヌビワも食べたね。イチジクの小型ぐらいで、これが熟れると紫色になって、結構うまいんです。それにシャシャブ、グミ、クワの実もぼつぼつあって、食べると口の辺りが紫色になるんです。とげの付いた野イチゴもあって、あれは今でも時々食べるよ。でも、消毒を使い出した昭和30年(1955年)ころからは少なくなったね。山菜も取りに行きましたよ。ツワブキとゼンマイがほとんどでワラビは少なかった。ツワブキは大島の主産物で今もあるが、山菜の種類はあまりないね。
 お正月は百人一首や羽子板(羽根突き)をやりました。百人一首では、皆それぞれにおはこ(最も得意なもの)があって、それだけはほかの人には取られたくないんよ。男の子は冬は野山を走り回ったですね。追わいやい(追いかけごっこ)、缶けり、ゴマ(独楽(こま))、たこ揚げもよくやったですよ。冬だって外が遊び場でした。ねんがら(ねんがりとも言う)もよくやりました。30cmから50cmくらいの木の棒の先をとがらして、地面へ投げつけて立て、次の者がその立ってるのを倒したら自分の物にする遊びですよ。1対1なら、勝ったり負けたりじゃけど、4、5人になると、何人もが打ち当てるんじゃから、どんなに強く打ち込んでいても、倒されてしまうんですよ。それでも強い人は、ねんがらの木を一抱えも持っているんです。無くなると、すぐに、鎌を持って山へ行ってこしらえてきたりしてね。お金など無くても遊び道具は自分たちで作って遊んだものです。」

 (イ)仲間たちと

 **さんの話によると、当時は買って遊ぶおもちゃなどほとんど無く、家の中も、畳を敷いているのは14、5畳ほどで、8人から10人が生活しているから、家の中では遊ぶところも無い。したがって、寺の庭やお宮の広場、山や砂浜や海、そして往還(通り道)、どこでも遊び場にして外で遊んだとのことである。

   a 喧嘩(けんか)

 「(**さん)喧嘩は相年(あいどし)か年上の者に向かっていくかじゃないと、してはいかんという不文律みたいなものがあったんじゃ。下の者をどうかしよると、皆で一緒になって、やめさすかやっつける。そんな風じゃった。だから若いし(若い衆・若者)が下の子を相手に喧嘩するようなことはあんまり無かった。むしろ、ようかわいがってくれよった。それに弱い者を相手にしたらいかん、下駄(げた)を持ったり、物を持ってやるのもいかん。そんなことをするのは恥じゃ。男の喧嘩は手だけの殴り合いじゃ。そんな男気のようなものもあったんじゃ。もっとも、上の者に対しては物を持ってやっていきよったが、それは何にも言わんかった。いずれにせよ、女子を相手にした喧嘩や、小さい子を泣かしたりしたら、仲間からばかにされるんじゃ。そいでも女の子の中にもオコンバレ(おてんば)もおったから、そのオコンバレの着物をまくっといて、尻(しり)をパーンとたたくようないたずらもやりよったかな。」

   b オショウビラキ

 **さんと**さんに聞いた。
 「旧暦の3月のお節句の時はオショウビラキというて、山へ連れ立って遊びに行くんです。楽しかったですよ。この時は、今のような折り詰めじゃなくて、黒塗りの重箱に親が一杯ごちそうを作ってくれるんです。ある重箱は巻きずし、ほかの重箱は卵焼き、アサリ、魚などのおかずが入っとる。少なくても二重(ふたかさ)ね、多い者は三重ね、四重ねを持って行ったですよ。子供らだけで、それを持って山へ行くんです。4、5人が一緒になって、莚(むしろ)も持って出かけて一日中遊んで帰るんです。方々にグループができて、ようけおりました。サクラが咲いてることもあったし、寒かった年もあったですよ。サクラが咲いとれば、その花の下へ自然に集まるし、寒い時は山中駆けずり回ったり、木に登ったりしました。板をお尻の下に敷いたり、ササを切ってきて、それにまたがって坂を滑り下りたりもしたもんです。重箱のごちそうだけじゃなく、いり豆やあられは袋に入れて提げとるし、水筒も持って行きましたよ。朝、出かけたら昼も晩も食べてからもんて(戻って)くるんですから。ところが男の子が、こそこそっとやって来て、重箱を転がすんですよ。中のごちそうがぐじゃぐじゃになることもあるけど、そんな悪さもしよりました。この日は学校は休みでした。だから子供たちはみんな山へ行って一日遊ぶんです。普段はお麦の入った御飯でしょう。それがこの日は、白いお米で、山菜も魚も卵もいろんなものを詰めてあるんです。ほやから(だから)、シキワ日(節句や祝祭日などの普段と違う特別な日のこと)が来たら本当に楽しかったですよ。」

   c 頼母(たのも)でこ(*1)

 続いて**さんと**さんに聞いた。
 「頼母でこはもち米の粉を水で練ってね、団子にして十分に湯がいて、軟らかい内に作るんです。踊り子、牛、馬、鳥、ミョウガのような野菜などいろんな物を作りましたよ。人形をこしらえて、それに色粉で紋付きを書いたり、踊り子には道端に生えているエノコバという草の穂を菅笠(すげがさ)につけて飾りにしたりしましたよ。人形さんが、阿波踊りのようなスタイルで踊ったり、菅笠つけたり、お雛(ひな)さんの五人ばやしだったり、なかなか込み入った人形を持ってる人もおりました。それをずらっと並べると本当にきれいでした。でこを作るのは母親じゃけど持って遊ぶのは子供です。作った時に、まずお床の神さんの前に、1、2時間はお供えしといて、後は子供が重箱なんか(など)に入れて持ち歩いて、見せ合ったり、交換して楽しんだんですよ。湯がいているからそのままでも食べれるし、固くなったら、焼くとおいしく食べれるんです。」そんな話をしてくれながら、**さんと**さんが頼母でこを作ってくれた(写真2-2-3参照)。

 (ウ)自然の中で

 子供のころの海での楽しみを**さんに聞いた。

   a ギザミ掘り

 「ここでは、キス、ギザミ(キュウセン)、ハゼ、アブラメやメバルなどの小物がなんぼでも釣れたですよ。メバルは釣ることもあったけど、わたしは潜って突くのが面白かった。ただし、わたしのところは漁師の家じゃけに(だから)、わたしの取ってきたものなんか『そんなもん食べれん。』と言うて、料理してくれんのですよ。ほじゃから(だから)帰りに、漁師じゃないおばやん連中に皆、もろてもらいよったですよ。それでも、釣ったり突いたり、そりゃあよくやりました。小学校時分に、山へ行って、シノダケ(細い竹)を切って来て、父親に網の糸をもろうて釣り針を付ければ、釣りざおの出来上がりです。波止(はと)で大きくはないけど、きれいな紋入りの紫色がかったスズメダイを釣るんです。それがこの波止には海面が真っ黒になるくらいおったですよ。わたしどもは、竹にひもを結んで、釣った魚を順々に刺していくんです。何m釣ったと言って競ったりしましたよ。妹たちは1匹ずつ並べて、その長さが何mになったなどと言いよりました。ゼンゴ(小さいアジ)は意外と釣れなんだですね。それより15cmから20cmほどのギザミの類、これはものすごく居たんです。秋口になったら、それが砂浜に籠(こも)るけん(から)、朝、潮が引いた時に砂浜を掘ったら、いっぱい出てくるんよ。これを『ギザミ掘り』と言うんです。冬寒くなって、夜冷え込んでくると潮の引いた時には砂浜の中に埋もっとるんです。それをよく掘って捕ったですね。」

   b タコの背伸び

 「わたしの子供のころは、タコ、イカ、貝じゃのなんぼでもおりました。タコは春夏秋冬を問わずいつでも、海底に巣をこしらえて、そこへ籠っているんです。夜、えさを捜しにはいよるのもおるけど、多くは岩と岩との切れ間の州の所に籠っとるんよ。その周辺はきれいなんです。やっぱりタコが呼吸するからでしょうかね。粘土質は除かれてしまって無いんです。古い穴になったら、貝とか、カキの殻とかえさを食べた残骸(さんがい)が散らばっています。タコは変人と言いましてね、ぺたっと引っ付いてるのを持ち上げようとしても無理なんですよ。そこにおるからいうて、張り付いたタコを手づかみで力任せに引き離そうとしても、なんぼにも出てこんのです。頭がむしくれて(とれて)も、岩でも何でも吸いついた物を離さんですよ。ところが、それを離してやろと思うたら、逆にぐっと押さえ付けるんです。押さえ付けたら、タコが背伸びするんですよ。その瞬間にぱっと持ち上げたら捕れるんです。タコの穴は慣れんと分からんでしょうが、その穴へ細い棒を突っ込んで、上からこちょこちょと突いてやると、足をその棒に絡めてくるんです。すぐには出てこんよ。足を1本ずつ絡めて少しずつ出てきます。その時いい加減なところできゅっと思いっきり穴が開くくらいに突いてやったら、突いた棒にくるっと絡まってくるんです。その瞬間に持ち上げて、すぐに頭をひっくり返して内臓のところをきゅっと突いておいてやると、もう絡まることは無いんです。生きのいいやつに、腕を絡まれて吸いつかれたら内出血してしまいますよ。魚というのは面白いもので、ある場所で魚が捕れると、そこで捕ってしまったようでも、15日ほどすると、そこには同じ種類の魚がおるんです。タコもそれですよ。ひと潮経って行ってみたら別のお客さんがやはりそこにおるんです。タコだって、住みよい場所には集まってくるんですよ。」

 イ 八坂

 八坂地区は松山城の南東に位置し、石手川沿いにあって、中の川がこの地域の真ん中を貫流している。この石手川や中の川は、子供たちにとってこの上ない格好の遊び場だったという。

 (ア)ガキ大将と共に

 「(**さん)昭和10年(1935年)ころは、就学前の子供でも小学生や高等科の者の後にぞろぞろついてきて、一緒に遊んだりもしよったです。このころは親分というかガキ大将というか、仲間を取り仕切るだれかがいましたよ。大抵は高等科の者でした。この唐人町(とうじんまち)1丁目から中の川にかけては絣屋(かすりや)(糸を染め、反物に織る伊予絣の製造業者)がたくさんありました。その中の金持ちの息子がガキ大将でした。新立橋(しんだてばし)の近くで、太鼓饅(たいこまん)(今川焼きのこと)や労研饅頭(ろうけんまんとう)(*2)を売りよった。ガキ大将はそれをいつも買ってこさせて、必ず皆に分けてくれよった。ほやから、皆言うこともよく聞いたし、いじめられることはほとんど無かったね。今の子供は学校から帰って、皆と一緒に遊ぶことないでしょう。外で走り回る姿などほとんど見かけないですよ。」

 (イ)石手川の思い出

 石手川の左岸の道は川下に行くほど狭くなっていて、松の木が一杯茂り、反対の右岸はムクの木を中心にさまざまな木が茂っていた。また、道の内側の一段低くなった空き地はこの地域の人々の憩いの場所であった。木陰で、ござを敷いて昼寝をする風景もあり、土手にはツバナ、イタドリも生えていて、子供たちにも楽しみの場所であった。それと同時に、川の流れは子供の遊び心を誘ったそうである。
 **さんに石手川の思い出を聞いた。

   a 三角ベースボール

 「子供のころは家でじっとなんかしてなかったですよ。石手川の土手へ上がると大抵皆集まってるんです。土手沿いの道の内側が、一段低くなっていて大きな木もあったが、結構広くて遊びにもってこいなんですよ。兵隊ごっこ、シカンチョなんぼ(胴馬)、ランコン(ビー玉)、パッチン(めんこ)、こま、セミ捕りなど皆と一緒によくやったものです。『シカンチョなんぼ』というのは、馬になる者とそれに飛び乗る者とが二手に分かれて、馬の上に全員が乗ると、一番前に乗った者が、『しかしかなんぼ』と言って、何本かの指を出し、馬になっている者が『何本』と指の数を言い当てる遊びです。石手川は今と違って本当にきれいな水が流れていて、水量もあったからよく泳ぎもしました。雨上がりなどで水量が多くて流れの速い時は、新立橋から中村橋の辺りまで流されたこともあります。冬は、雪だるまを作ったり、竹馬も作って乗ったり、たこも自分で作って揚げたりしました。遊びは思い出したら切りがないが、みんなで遊んだものの中で、一番懐かしいのは、三角ベースボールですよ。これも石手川の空き地を見つけてやったんです。空き地の広さや人数の関係で2塁のない変形ベースボールです。ボールは庭球(ソフトテニス)で使うごんまり(ゴムマリ)。バットは青竹。物干しざおくらいの太さで、一番先を節のところで切ってあるんです。節の部分は特別に硬いからそこに当たると、ボールが軟らかい分、薄く変形して飛んでいって取れにくいから、ホームランになったりしたですよ。」

   b アユすくい

 「小学校から戻って、かばんを店先(**さん方はガラス屋)にほったくっといて(放り出しておいて)、川に入ったら晩まで帰らんのです。あんまり遊び過ぎて、遅くなって帰ったら、怒られて飯も食わしてもらえんじゃのいうこともありました。それでも、この多賀神社の辺りから、石手のお大師さん(四国霊場第51番札所の石手寺)の辺りまで、アユやハヤを、網で追うて行きよった。直径4、50cmの丸い絹糸の網でしたが、それじゃないとアユはさどい(敏捷(びんしょう)な)から捕れんのですよ。先輩らが、『よい(おい)、アユ捕るぞ、おまえら追え-』と言いながら、石と石との間に、網をすけて待つんです。わたしらが追い手で、川上の方へ行って、ジャブジャブやりながら、追うて行くんです。わたしらが川上へ動くと、アユはさどいから、すぐ下がります。網手はじっと待ち構えといて、アユが網まで追い込まれたらさっと引き上げる。一瞬にやらんと逃げてしまう。それほどアユはさどいから、細くて丈夫な絹の網じゃないと捕れんのです。」

   c ムクの実を口一杯に

 「この石手川の土手の一帯はムクの木(写真2-2-5参照)が多かった。ムクが熟れてくると、石を投げたり2、30cmの木切れを投げて落としたり、時には、ムクは大きな木ですから、5寸釘(くぎ)を打ち込んでそれを足掛かりにして登って採ったりしてね。青い実を採って、ぬかの中に入れて、熟れたら食べることもやりましたが、木で熟れた方がなんぼかうまかった。風が強く吹くとムクの実が一杯落ちて、道が真っ黒になるほどですよ。それを拾うんです。ロ一杯にほうり込んで、うまかったね。この辺りはムクの木がうっそうと茂って、夏なんか空も見えなかったほどですから夕涼みには持ってこいだったんです。今思うと懐かしいですね。」
 今、石手川堤は公園の整備が進み、松山市民の憩いの場になっている。ムクの木は今も永木橋の川下の方には多く残っている。平成10年の夏もムクは鈴なりに実っていたが、だれ一人手を出すものはいない。ムクの実は落ちるにまかせていた。

 (ウ)道路が遊び場

 **さんと**さんに聞く。
 「遊び場は石手川、中の川、学校が中心になったかね。時には城山ヘシイの実を取りに行ったですよ。そのほか広場らしいものは無かったけど、わたしの家の裏の道幅が3mほどもあったでしょうか、そこを、うらんちょう(裏の町)と言うてました。人通りが少なかったから、皆そこへ集まって来よりました。縄跳びやお手玉、手まり、石けりもやりました。字当てと言って、お互いが地面に円を描いて、その範囲の中に字を掘って、そこを土で埋めて固めておいてから、相手に当てさせるような遊びもしました。昔は道路が土だからそんなこともできたんです。昭和の初めころ、この辺りは、自動車はもちろん、自転車も余り通らんかったね。わたしが住んでいた、この木小屋口(きごやぐち)(中村橋への上がり口)辺りは、まあ馬車や牛車が時々通ったくらいで、のんびり、ゆったりしてました。道幅は今の半分も無かったけど、道そのものが遊び場で安心して遊びよったですよ。ただ、夕方になると芸者さんが人力車に乗ってやってきてました。この木小屋口を上がったところの土手の内側に林泉邸(りんせんてい)という料亭があったんです。土手まで坂になっていたから、木小屋口の下まで来ると、そこからは着物のすそを片手で引き上げて歩いて行くんです。その仕草、高島田に結った髪や着物姿、それにお化粧などが子供心に何とも言えずきれいで、よく後についていったりしたもんです。」

 (エ)中の川の思い出

 **さんと**さんの話が続く。
 「中の川も懐かしい遊び場ですよ。中の川の川幅は、中村橋を下りたこの辺りは今と同じぐらいです。それに湊町1丁目の途中、三差路になった所から西の方は、川の南側にだけ道路があって、北側は道が無く、川に沿って家が並んでいて、南側からの出入りには、石橋がかかっていました。当時あった石橋のうちで、田代橋(たしろばし)は整備された今の中の川にそのまま使われています(口絵参照)。今の永木橋を下りた辺りから東の方は、中の川の両側に道路があってイチジクの木が何本もありました。また、その川筋には、絣(かすり)屋さんが大分ありました。染めてもおりました。時々青く染まった水が流れてました。でも中の川は今と違って水量も多くきれいな水が流れよったです。夏のころになると農業用水に使うんでしょうか、川上の方で水をせき止めて、水の流れが少なくなることがあるんです。そんな時にはシジミを捕ったり、カニやドジョウを、じょうれん(*3)ですくったりして捕りました。シジミやドジョウは石手川を越えて捕りに行ったりもしましたよ。石手川の向こうは田んぼばかりじゃって小川があったですから。男の人はカニを何十匹も捕ったなどと言っておりました。湯がいて食べるとおいしいんですよ。ウナギも針金で道具をこしらえて捕りよったです。中の川にはホタルもたくさんおりました。また川沿いの道や裏通りの道ではよく遊びました。夏や秋の初めころは、夕食が済んでからでも、ハンカチ落とし、隠れんぼ、陣取りなどをして暗くなるまで遊びました。遊びは、年上も年下もなく皆一緒です。だから分からんことも上の子が順々に教えてくれました。女の子だって、よく喧嘩しましたよ。でも、上の子が止めに入ったら、大抵それでやめていました。」

 ウ 日吉村

 北宇和郡日吉村は愛媛県の南部にあって、松山市から西南に約85km、南予地方の中心地である宇和島市からは約35km隔たった山間部で、高知県境に接する。1,000m級の山々に囲まれた盆地で、年平均降雨量は2,000mm、年平均気温は14.7℃である。冬は山麓では1mを越える積雪もまれではなかったという(④)。ここでは昭和初期に生まれた方々に、子供時代の話を聞いた。
 **さん、**さん、**さんの話。

 (ア)上級生に教えられながら

 「昭和15年(1940年)ころには、同じ学年だけで遊ぶより、学年の上下の者が一緒に遊ぶことの方が多かった。そんな時、友達でも先輩後輩の区別はきちんとしていたし、上級生は恐ろしかったですよ。でも、それは泣かされるとか、いじめられるとかではなく、上の人の言うことは聞くものじゃというか、反対なんかできないように思うていたんでしょうかね。そんな気持ちにさせるのが上級生じゃった。
 友達同士で喧嘩をすると、ガキ大将とでも言うか、そんな先輩が居て、適当にやらせておいて、これ以上やったら危ないと見定めたら、『もうそれでよかろうが。やめい。』と引き分けるか、それでもやめずにぐずぐずしとったら、両方にがつんとげんこつをかまして、それでおしまいですよ。隠れてこそこそ悪さをするようなことは少なかったね。そんなことが分かったら、『どがいしたんぞ(何をしているんだ)、お前が悪いんじゃろが。』と言うて、げんこつをかまされたけんな。今思うと、上級生は怖い存在でもあったけど、こんなことはしてはいけないとか、こんなことまでは許されるとか、一緒に遊ぶ中で、よくも悪くもいろんなことを教えてくれたですよ。」
 遊びの種類も時間も、屋内より屋外の方がはるかに多く普段は家の中で遊ぶことは少なかったそうである。今のように、子供部屋など無い時代だけに、親からは「家の中でうじうじせずに、外へ行って遊べ。」と言われたとも語る。図表2-2-6は**さん提供の資料をもとに作成した当時の遊びの数々である。
 3人の話が続く。
 「遊ぶ道具は、百人一首や花札、かるたぐらいはあったけど、それ以外は、道具なしですよ。平らな石ころで石けり、木切れがあればちゃんばら、缶があれば缶けりあるいは、鬼ごっこなど、そこらにあるものを何でも遊び道具にしたり、自分の体を使って遊んだものですよ。とにかく、遊び道具もおもちゃも、今みたいに無かったし、買う金も持ってなかった。だから、要るものは教えてもらって自分で作ったし、遊び方も難しいものじゃなかった。隠れんぼ、陣取りなど、いつ始めても、いつやめてもよかった。だれでもやれるし、金も使わんでもやれるような遊びが多かった。遊ぶ場所は、小学校の運動場のほかにも川や川原、往還だったり、ちょっとした広場があればどこでも遊び場所になったですよ。夏は川で泳ぐのが何よりだった。それに魚やカニ捕りが楽しかったですよ。冬は、きんま(木馬)というてそりのようなものに乗って雪の上を滑る遊びをよくやりました。これは気持ちがよかった。雪がなくても少し傾斜があるとそれに乗って滑ったりもしたな。それに、ビー玉、パン(めんこ、写真2-2-8参照)。ねんがりは釘でやったな。地面に立てた相手の釘を自分の釘を立てながらはじき飛ばす遊びですよ。ゴマ(独楽(こま))でも遊びましたが、戦争前には、鉄の輪の入ったゴマがあったのに、戦争が始まると、いつの間にか、鉄輪のない木ゴマだけになりました。
 また、木を切ってきて台を作りそれに箱を載せ、四つ車を付けて、荷物を入れたり、子供同士で乗せ合ったり、赤ちゃんを乗せたりして引っ張って遊びました。坂になると、ブレーキが効かんもんじゃけん(効かないものだから)、ずるずると滑るのを足や身体で止めたりしてな。父や兄に作ってもらったり、自分で作ったり、とにかく遊び道具は、全部手作りですよ。
 小学校の5、6年生になったらベースボールに熱中したけど、バットなど無いから、手で打つんです。ボールは綿の古いのに糸をつないで、それでぐるぐるときれいに巻いてこしらえたものです。女の子は、いちどり(お手玉)を大豆や小豆、砂などを布の中に入れて作ってやってましたよ。
 親に買ってもらうのは正月のゴマやパン、たこだけでした。それが今のお年玉になるのかな。そのパンを何枚持っちょるかが子供の権力の象徴みたいなものでな。丸いものや四角なものがあったが、牛若丸とか義経とかの絵を描いたパンはなかなか買ってもらえんかった。パンの遊びは勝ったら相手のパンをもらう。強い人はきれいなパンをたくさん持っちょるから、この遊びになったら、その人を必ず入れようとするわけよ。とにかく、パンは子供の宝じゃった。
 わたしらの子供のころは手伝いもあって忙しかったけど、遊ぶのもよく遊びました。お祭りなど特別な日で、親が仕事を休む時には、手伝いから解放されるんだから、それはうれしかったね。1日の暮れるのが早かったですよ。」

 (イ)川で楽しむ

 **さんに川遊びの思い出を聞いた。

   a 板橋をいかだ代わりに

 「川へは、子守りをしながらでもハゼドンコ釣りやウナギ捕りに行ったですよ。もちろん、泳ぎや釣り、もりで魚を突くこともやりましたが、板橋乗りも楽しみました。私の家の前の川(広見川)に板橋が架かっていました。ワロ(*4)という直径2mほどの台を橋脚にして、その上に板を渡していました。その板1枚の幅は30cmほどで、長さは5mくらいあったと思います。川を渡るのに12枚の板を使っていましたから川幅は50mほどもあったでしょうか。村の人は、米をかるう(背負う)たり、木をかるうたり、いろんな物をかるうて、この板橋で向こう側と行き来するんです。ところがこの橋、秋口から翌年の梅雨期の大水が出るころまでの間は、それで通れるんですが、板を上に乗せているだけですから、大雨が降って川が増水すると流されてしまうわけです。だから、橋の当番がおって、大水が出ると板橋を両岸に引き上げておいて、流される心配が無くなるとまた架ける。そういう橋番がずっとあったわけです。それでも、あまりの大水の時には、板はもちろん、ワロさえも流されることもあるんです。その時には、流された板を川下から引き上げて来るし、地域のみんなでワロ作りです。そういうのを子供たちが見ているものだから、夏の川では、泳ぐだけじゃなくて、はずして岸へ上げている橋板を、いかだ代わりに使って、川下りをよくやりました。手でこいだり、竹をさおにしていかだ下りにして遊んだですよ。細い板ですから途中で落ちたり、ひっくり返ったり、ボートより、はるかに楽しかったですよ。もっともある程度まで下ったら、みんなで、橋脚のところまで引き上げてくるんです。重い板ですから何人か仲間と一緒でないと遊べないものでした。だから、よく誘い合ったものです。また、ワロには、ゴムシがよくついて、それをえさに魚がたくさん集まって来るんです。直径2m足らずのワロですから、3、4人も寄れば一杯なんですが、それでも、ミミズでハゼドンコなどよく釣ったものです。どこでも何でも遊びにしたものです。」

   b ワリコやジンドを使って

 「川魚とりにはワリコやジンドもよく使いました(写真2-2-10参照)。ワリコというのは、ハチク(*5)(淡竹)という竹を二節の長さに切って、途中の節まで何か所か縦に割って上を広げ、その中に直径10cmから15cmほどの輪にしたものを、挟み込み、カズラなどで縛って、竹全体をラッパ形にしたものです。途中の節は全部くり抜いて、底の節は小さな穴を開けて水抜きにして、それを川に沈めておくんです。水の流れがあるから、ハヤでもアユでも一度入ると出られないんです。道具も方法も簡単なもので、だれでもが楽しめるし、軽いから遠方まで持っていって魚を捕ることもできるんです。ジンドというのは、ウナギを捕る道具で、一般にはジゴクと言っています。竹の皮の部分で編んだすだれのような物を、細い円筒形にまとめたものでした。この中には、ミミズとかタニシとかウナギの好むものをえさとして入れるんです。
 ハヤ瓶もよく使いました。ハヤ瓶は丸いもので、さなぎをうどん粉で練ったりして、瓶の底に置いて流れないようにしているんです。1時間もすれば、瓶が真っ黒になるくらい魚が捕れるんですよ。それが何べんでも捕れよったですから、今では夢みたいです。」
 今もウナギ捕りにジンドは使われているが、タケの皮だけでは弱いので、ハチクニ節をそのままにしたものや細長い木箱に変わってきている。昭和30年(1955年)ころまでは一晩でジンドに一杯捕れていたのに、今では何十本もしかけて、数本に入っていればよいほどに減ってしまったとのことである。

   c 川原の炭焼き

 「家内などは、川で火をたいて遊んだのが非常に楽しかったと言います。川の流れがあって、その周辺が川原になっているから、そこで火をたくのはしかられることもないんです。枯れ草や拾ってきた流木を燃やしながら、川原の石を一緒に焼いておいて、捕ってきた魚を、石焼きにして食べたりしたようです。火をたいて、その回りを囲んでキャンプファイヤーのようなことをしたことなど、川原で火をたいての遊びが何より楽しかったそうです。
 わたしらも川原では砂遊びをしたり、石を積み上げてトーチカ(*6)を作ったりしてよく遊んだですが、炭窯(すみがま)ごっこも楽しかったですよ。昔は炭をたくさん焼きよったのですが、その大人のまねですよ。本来炭窯は、赤土できちっと窯を築き、その奥の所に穴を開け、煙の道をつけるんです。わたしらは川原に窯らしきものを作るんです。流れてきた木を拾ってきて、土を掘って、その奥の所には、竹の筒を差し込んで煙が出るように築くんです。その中に拾ってきた流木を入れ、その上に土をかぶせて下から火をつけて蒸し焼きのようにするんです。どれだけ燃えるかなんですが、竹の筒から、煙が出てくるとうれしいんです。一人前の炭焼きになったような気になって楽しかったですよ。」
 子供の遊びには三つの間、すなわち、遊び『時間』、遊び『空間』、遊び『仲間』が必要だといわれる(⑤)。昭和30年代の初めころまでは、まだ、学校に行っても、家に帰っても子供たちは群れていた。砂浜でもお宮のような広場でも、あるいは、川でも道の通りさえも子供たちの遊ぶ姿でにぎやかであった。しかし今は、遊ぶ時間もそうだが、遊び友達は、かつての異年齢集団から同学年等の集団へと等質化し、遊びの行動半径の縮小化とともに室内での一人遊びの増加など遊びの内容が変化してきたと言う(⑥)。今は戦前に比べて、経済的には、はるかに豊かになり情報量も多くなった。しかし、子供の数も、子供が走り回る場所も少なくなった。子供たちは外で友達と遊ぶことより、家の中で一人で過ごすことの方が多くなってしまった。今は前述の三つの間が失われているということだろうか。「子供のころは仲間と外気を吸って、思いっきり遊ぶことが大切だと思うが。」とそれぞれに語られた言葉が印象的であった。


*1:頼母節句は、もともとは、旧暦8月1日に、秋の豊作を祈願する行事で、田の面(も)の節句、田の実りの節句とも言われ
  た。この日、米の粉で人間や馬、牛、野菜などの形代を作って、神前に供え、家内安全や五穀豊饒、さらには家畜の無事安
  全を祈った。その時に作る形代を頼母でこ、または、頼母人形といった。
*2:小麦粉を練り、酵母を入れて発酵させ、蒸して仕上げた饅頭。労研饅頭の名称は、倉敷労働研究所長暉峻義等(てるおか
  ぎとう)氏が、中国の饅頭を元に考案したことによる。詳しくは『愛媛の技と匠』参照。
*3:土砂をすくったり、入れて運んだりする農具で、田畑や川でも用いられた。川では貝や魚捕りに使われた。
*4:川の中に杭を打ち、周囲を竹で囲み、中に石を詰めて台を作り橋脚としたもの。
*5:高さ10m、直径4、5cmになる夕ケの一種。たけのこは食用となり、材は細工用になる。
*6:通常厚いコンクリートで作られ、敵の大砲や機関銃等の射撃から火器や身を守るための構造物。子供たちは遊びの中で、
  相手方の攻撃を防ぐために石を積み上げて囲ったような陣地をトーチカと言った。

写真2-2-1 大島の漁港

写真2-2-1 大島の漁港

平成10年6月撮影

写真2-2-3 頼母でこ

写真2-2-3 頼母でこ

左から、ミョウガ、踊り子、三番叟(さんばそう)、踊り子、カメ。平成10年8月撮影

写真2-2-5 多賀神社横のムクの大木

写真2-2-5 多賀神社横のムクの大木

**さんたちが子供のころ、実をとったという。平成10年8月撮影

図表2-2-6 子供の遊びいろいろ(日吉村)

図表2-2-6 子供の遊びいろいろ(日吉村)

**さんの資料をもとに作成。

写真2-2-8 パン(めんこ)

写真2-2-8 パン(めんこ)

平成10年11月撮影

写真2-2-10 上段からワリコ・ジンド・ハヤ瓶

写真2-2-10 上段からワリコ・ジンド・ハヤ瓶

平成10年11月撮影