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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)大人への自覚

 ア 食い出のコウロクで青年会館をつくる

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正11年生まれ 76歳)
 伯方町北浦青年会館は、地域の人々の援助を仰ぎながらも、青年たちの努力によって、昭和9年(1934年)に竣工した。青年会館は、青年たちの城であるとともに、地域のコミュニティーセンターとして大きな役割を果たした。現在は、その跡地にふるさとセンター(伯方町農村環境改善センター)が建設され、今も地域の人々の交流の場になり、青年たちの願いは今も生き続けている。青年たちの青年会館建設への取り組みと、その会館の地域に果たした役割などについて、**さんと**さんに話を聞いた。

 (ア)食い出のコウロク

 「わたしたちが、親しんだ青年会館ができたのは、昭和9年です。青年会館の屋敷の広さは2反(1反は約992m²)でした。当時の地区の総代さんが『お前らに、1反は寄付する。しかし、お前らもそう甘えてもいけんだろうから、後の1反は無尽を構えて払え。』と言うて土地などを寄付してくれたのです(写真2-1-28参照)。その土地の寄付を元に青年会館の建設が始まったのです。
 昭和8年に、土地の造成を始めたときは、ここは水田でした。それを若い者みんなが毎日出て、大八車といって荷物運搬用の大きな2輪車に木の箱枠を乗せたもので土を運んだりして土地の造成をしたのです(図表2-1-12参照)。『食い出のコウロク』と言って、今で言う労働奉仕のことで、昼飯は自分の家へ帰って食べ、その後またすぐ出て来て作業をしていました。大八車に、スコップで土を入れる者、大八車を引いて土を運ぶ者、運ばれてきた土をならす者というように分担が決められ、それぞれが一生懸命で取り組んでいました。大八車は、銘々が農家から借りてきて、何台もの大八車で運んだものでした。
 青年会館の建設は、若い者みんなの努力の結晶だったのです。建物は丈夫なものでしたよ。みこしを家屋の中に入れて回して投げたりしました。そんな乱暴なことをしてもびくともしませんでした。土地を寄付してくれた地区の総代さんが、建物の基礎になる地形石(じぎょういし)も寄付してくれていましたが、その石も大きなものでした。」

 (イ)資金稼ぎのいろいろ

 「その時分は、田は高価でした。1反が千円くらいはしていたのではないでしょうか。そのころ米1升が25銭くらいだったでしょう。青年会館の建築費も若い者がお寺やお宮のいろんな役をしながら、地区の総代が檀家や氏子から集めたお金の中から労賃を出してもらって、それで払ったのです。青年団の若い者は、盆や正月に出稼ぎから帰ってきても、遊ぶことができないのです。ちゃんと総代が役をつくって待っとるのですから、当時の青年団員はよく働いたものです。
 ちょうど、その時分に地区のお寺の庫裏の建築がありました。お寺用の建材ですから、梁(はり)の木材も一抱えに余る太いものや、軒を支えるけたが通しの8間半(1間は約1.8m)という長いのもありました。それらの大きな材木を島内の山から切り出したのです。道は悪いし、運搬用具もかせ車などを使ってのことで、人手にかけるのですから、今のような簡単なものでないのです。若い者でなかったらどうにもならんのです。その時分若い者も多くいたのですが、みんな労働奉仕によく出たものです。出稼ぎに行っていた若い者には石屋と浜子(はまこ)(塩田で働く男女)がほとんどでしたから、肩や腰が丈夫だったし、担ぐにしても上手でした。
 昭和10年(1935年)から翌年にかけては、北浦にある喜多浦八幡神社の境内の拡張工事が行われましたが、このときも若い者が労働奉仕をしました。この工事は、郷社(神社の格式の一つで府県社の下、村社の上である。昭和20年に廃止)から県社に格上げをするには、境内が狭いということで始めたもので、小高い丘の上の境内を1m切り下げて、下げた分の土で周辺を埋めて境内を広げました。つるはしともっこ(縄を網のように編んで四隅に綱をつけたもので、土などを運ぶのに使う)でよくやったものです。神社の垣の石や地形石、木材なども、若い者の労働奉仕でした。
 また、喜多浦八幡神社の奉納芝居(春市(はるいち)と言う。)のとき、青年団がいろいろ世話をするのですが、このとき『花』と言って、御祝儀を青年団にくれるのです。それも青年会館の借金払いに当てたのです。」

 (ウ)青年会館は村人の寄り場

 「出稼ぎで若い者がいないでしょう。ここの青年会館は、青年の泊まり宿としてはほとんど使われてはいませんでした。青年が青年会館へ宿泊するのは、年末の火の用心の夜警として、むらの中を巡回するときくらいでした。
 何よりも、青年会館は広いものでした。舞台のある200畳ほどの大広間と8畳の和室が3部屋と炊事場と事務所がありました。村人の寄り場として地域のありとあらゆる催しに盛んに使われていました。役場は狭いから、ここでいろいろな行事をしていました。組長の寄り合いとか、公共の寄り合いにもよく使っていました。われわれが小学校を卒業するとき、学校に講堂がないので、ここで卒業式をしました。戦局が急を告げはじめた昭和16年(1941年)ころからは、戦没した兵隊さんの村葬や毎年の慰霊祭などもすべてここでするし、時局講演会もあり、映画もありました。
 戦時中のことでしたが、青年会館は学徒動員の学生の宿所にも使われました。深山(みやま)池、通称曇天(どんで)の池(図表2-1-1参照)では、戦時中食糧増産のため、ため池の造成が始められました。最初は、村の女や年寄りで簡単にできると思っていたのですが、工事がだんだん大がかりになって、困難になり、最後は松山農業学校の学生に頼んだようでした。5、60人の学生が学徒勤労動員(太平洋戦争末期の戦時体制下に中等学校以上の学徒が、軍関係工場や食糧増産に従事した)で来て、もっこで土を担ぎあげ、作業の一番危ない底掘りをやってくれたのです。婦人会が炊き出しをして、風呂(ふろ)は地域の各家庭でもらい風呂をしていたようでした。昭和28年(1953年)に地区に上水道ができたのですが、水源地はこの曇天の池です。
 北浦小学校の校舎を改築した、昭和27年の4月から同年10月までの間はこの北浦青年会館を仮校舎として、2クラスが授業をしていました。青年たちがする自作自演の旧正月の村芝居も、青年会館でやっていました。祭りや盆踊りも青年会館は深くかかわっていました。
 祭りは青年が、みこしを担いで、酒迎え(みこしを迎えてお酒を振る舞うこと)に全戸を回るわけです。戦時中には酒も少ないので、各戸で酒迎えをしないで、青年会館の近所でみこしを担ぎ、青年会館で飲んでいた時分もありました。ほとんど青年が中心でやっていた盆踊りも、青年会館の広場で、旧暦のお盆の満月の月明かりで、朝方まで踊り明かした思い出があります。
 平成2年に、元の青年会館の2反の敷地に1反を買い増して現在のふるさとセンターを建てました(写真2-1-29参照)。かつての若い者の苦労が、今に生かされていると思います。」

 イ 春市を支えて

 **さん(越智郡伯方町北浦 昭和6年生まれ 67歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正11年生まれ 77歳)
 越智郡伯方町喜多浦八幡神社の芝居小屋は、嘉永3年(1850年)の建造で、花道も備えられ、現在も使用されている貴重な建物である(写真2-1-30参照)。また、芝居は天明(てんめい)の飢饉(ききん)(天明2~7年〔1782~87年〕に全国的に起こった飢饉)のときの、五穀豊穣(ほうじょう)・雨乞(あまごい)祈願の俄舞台芝居(にわかぶたいしばい)奉納に始まるといわれ、奉納芝居も明治時代の前は素人芝居で、自分たちの自作自演であったようだが、やがて、旅芸人を迎えるようになり、途絶えることなく恒例の行事として行われてきた。旧暦の3月下旬に行われるこの芝居は、『春市』と呼ばれ、娯楽のない時分には、近くに出稼ぎに行っている者も帰るほどの、村総出の楽しみな行事の一つでもあった(⑮)。この裏方役は、長い間、地域の青年団の務めであった。青年団長として、団員とともに春市を支えた、**さんに当時の活躍ぶりを聞いた。

 (ア)裏方奮闘

 「毎年旧暦の3月20日、21日、22日の夜に、喜多浦八幡神社の春季例大祭の奉納芝居が、神社の境内に常設された芝居小屋で旅芸人を迎えて演じられていました。この芝居はこちらでは春市と呼んで、村人だけでなく島内の人や出稼ぎに行っている若者も楽しみに帰って来て、大変なにぎわいでした。
 ちょうど春市の中日が、お大師さん(弘法大師)の縁日に当たります。伯方島内の人たちは『島四国88か所霊場』を巡拝する風習がありますが、この日には、北浦で打ち止めになるように巡拝の順序を変えて、北浦で芝居を少しでも見て帰る人もいるほど、島内のみんなが楽しみにしていた娯楽行事でもありました。
 昭和27、8年(1952、3年)の話です。
 氏子総代が、春市の総責任者ですが、観覧席をつくるのは青年団の仕事でした。常設の芝居小屋には舞台と花道が備えられていますが、観覧席はその前に臨時に大テントを張り、地面にむしろを敷いてその上に縄を張って升席(ますせき)を作っていました。設営された升席の割り振りなども青年団の仕事でした。特・上・普通に分け、3日間とも事前に芝居見物の申し出を受け付けていました。当時、升席を1坪と言っていましたが、実際は、畳半畳の広さで、1坪(3.3m²)の4分の1の面積でした。
 図面をつくり、順位ごとの升席の値段を決め、それぞれの区画に氏子を割り当てていました(図表2-1-13参照)。『北浦の春市に行ったら、どこに座っているかで、そこの家の格が分かる。』とまで言われていました。それだけに、升席の割り振りは、なかなか難しいものでした。ことに、特等席に入る人にはずいぶん気を遣いました。青年会館で割り振りをしていると、陳情に来る者もいるほどでした。
 『ここの娘と、あそこの息子の仲が怪しい。一緒になるのじゃなかろか。』といううわさを聞きつけ、升席を隣り合わせにして、『いきなことをする。』と言われたこともありましたが、逆に、無意識にですが、ものすごく仲が悪い家同士を隣り合わせにしたりして、『意地が悪い、あがな(あんな)ことする。』『見せつけにしたんじゃろか。』と後から言われたりしました。
 特等席は、大都会の一流劇場の入場料ほどするとみんなが言うほど高価でした。総経費のほぼ3分の2は、特等席の席料でまかなわれるほどでした。特に格の高い升席が割り振られた家からは、青年団に御花(祝儀)を当時の金で100円とか、200円とかくれたりしました。御花は、一般には芸人に出す当座の祝儀を言うのですが、若者の労に報いるということでしょうか、以前からの伝統で青年団にも渡されていました。
 常設の舞台はありますが、客席は、露天に柱を立てた仮設のテントですので、雨がひどく降ると会場の変更を余儀なくされることもありました。そのときには、小高い丘の上の鎮守の境内から近くの青年会館へ、道具など一切合切、人手にかけ、みな担ぎ降ろしていました。3日間ともよい日和(ひより)ということは少ないくらいで、期間中雨のことばかり気になっていました。
 升席に敷くむしろなどは、各組の役員の者が、それぞれ軒並みに集めてきていました。また興行は夜でしたが、当時は舞台には電灯の設備はなかったので、電気工事の独占的な権限を持っていた散宿所(さんしゅくしょ)(当時の電力会社の出張所)に頼んで、神社の本殿の方から臨時の電線を引っ張ってきていました。興行は3日間ですが、その準備と後始末に1週間ほどはかかりきっていました。みんなに、『春市についとるが、お宮で給料をもらえ。』とからかわれたりもしました。とにかく準備は大騒動でした。
 当日の入場者は、毎日ほぼ千人は来ていたと思います。お宮の境内には夜店も出て、大勢の人出で、この地方では大三島の大山祇神社のお祭りに負けないにぎわいでした。春市が終わると、今度は、各家庭に青年団員が升席料の集金に行ったり、借りた物を返却して回りました。役員連中や団員みんなが力を合わせ、チームワークがとれてなくてはうまくできませんでした。」

 (イ)春市の楽しみ

 「(**さん)春市は、一番楽しみなお祭りでした。わたしが物心ついたころには、テレビがあるのじゃなし、また映画もないので、春市の芝居は面白かったですよ。北浦に親せきのある人はうらやましがられていました。島中の親せきの者が来ていました。『北浦へ嫁入りしたら、春市があるからええわい(いいね)。』と言われていたものです。ごちそうが、楽しみだったんですよ。三晩とも重箱にお弁当を詰めて行き、客席のあちこちではお酒も飲まれていました。昔のことだから、ごちそうといっても限られていました。押しずしと巻きずしと竹の子の炊いたのやくずし(練り製品)くらいでした。当時は、竹輪とかはんぺんとかは、正月や祭りのほかは春市のときくらいしか食べられなかったですね。ただ、女の人はお弁当の準備に忙しかったね。」
 「(**さん)子供の時分には、重箱を何段にも重ねてどの家も弁当をたくさん持って行っておりました。芝居の途中で『これより、中入れ。』と言って役者が触れて回ったら、幕の間で弁当を食べる時間になるわけです。子供の時分、この弁当がしっかり楽しみでした。春市がくると、親に『えっと(たくさん)弁当作っておくれ。』と言っていました。
 おもしろいもので、始めは、自分たちの升席に狭いのを我慢して座っているが、やがて、席を譲り合ったり、お互いが寄り合って、これ食べなさいと言い合い、小皿に載せたごちそうを交換したりして、平生あまり話もしなかった隣の升席の人とも、その晩からは親しくなったりしました。
 青年団員が、はんば(はんぎり。たらい状の浅くて広い桶)を持って客席を回ると、観客が思い思いに役者に弁当の差し入れをしたものです。役者は、そのお礼にと予定外の演技を披露するという、交歓の一幕もありました。
 この地方では、娘さんが晴れ着を作ってもらうのは、春市と弓祈禱のときだと言われていました。春市は、島民の楽しみの場であり、親ぼくの場であるとともに、若者の出会いの場でもあったのです。」

 ウ トマリヤ、中組青年館

 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(南宇和郡一本松町増田 大正14年生まれ 73歳)
 若者組には全国的に若いし宿(トマリヤ)の風習があったが、本県では特に南予地方でそれが顕著であった。そこで、ここでは若いし組(若者組)の名残りをとどめるトマリヤについて、増田中組の青年館での体験を**さんと**さんに聞いた。

 (ア)村の便利屋さん

 「わたしらの年代には村単位の青年団の組織がありました。これは修養団体的色彩が強く、やがて軍事色を強めてきました。その支部に当たる増田中組のトマリヤ、すなわち青年館には、そのころもまだ若いし組の伝統が受け継がれていました。この集団が地域の中では重要な役割を果たし、地域にとっても便利な集団だったと思います。
 中組には村社である若宮神社(写真2-1-31参照)がありましたが、毎月1日と15日にお宮に参拝するのは青年館に泊まっている若いしの務めのようになっていました。日暮れまで農作業をして、夕飯を済ませてからの参拝でしたのでかなり遅い時刻でした。先輩が、太鼓をたたき礼拝をして帰っていました。
 また、『夜回り』と言っていましたが、火の用心に年末の1週間ほど、自分の組内の1軒1軒を回っていました。拍子木をたたいてそれぞれの家の角々を見て声を掛けて回るのです。家族の者からも『御苦労じゃね。』とねぎらいの言葉を掛けてくれていました。何人かで組を作って夜間遅く2回くらい回っていました。昭和15年(1940年)ころまでしていたでしょうか。
 毎年旧暦の1月23日に若宮神社と安養寺横の『いらずの山』(図表2-1-9参照)にしめ縄を張るのも中組の若いしの務めでした。いらずの山には、高山様(*19)の墓地があり、起源ははっきりしないが、昔からいっさい人の立ち入りや樹木の伐採が禁じられていました。旧暦の7月11日に、約400年にわたって今も続けられている安養寺の花取り踊りは、この高山尊神(こうやまそんしん)の供養のためだといわれています。
 その日は朝から大勢でしめ縄をない、例えその日がどんなに悪天候でも、その日のうちに必ず若宮神社といらず山にそれを張り終えていました。若宮神社の参道の垣根から他方の垣根まで、鎮守の森の山すそをしめ縄で囲むと330から340尋(1尋は、両手を左右に広げた時、その左右両指間の距離)くらいしめ縄が必要でした(写真2-1-32参照)。
 また、いらずの山の森を囲むには230尋くらいしめ縄が必要でした。しめ縄を張ったところは不浄なものの侵入を許さない神域でした。しめ縄張りが終わると、その夜は『二十三夜』といって、組内でお米など集めて料理をつくって若いしをもてなしてくれる慰労会がありました。戦時中、若いしが二人になって簡便な輪じめ(正月の飾り物の一つで、わらを編んで輪にし、数条のわらを垂らしたもの)をつくって、そこここへ掛けて回ったこともありました。今は、このしめ縄張りは、有志でつくる板尾会に引き継がれて実施されています。
 産婆さんやお医者さんへの夜間の緊急連絡係なども組内の若いしの役目のようになっていて、『青年館へ行けば、なんでもやってくれる。』と地域の人たちに頼りにされていました。
 組内で、夜に急病人が出たとき、青年館へ連絡すると青年館にいるだれかが自転車でお医者を迎えに駆け付けるのです。急病人を戸板に乗せて病院に運んだこともありました。また、お医者も手の施しようがないくらいの重体の急病人が出て、命が危ないときなど、組の各家から人々が集まり、集団で氏神様にお参りし、病気平癒を祈願する千度参りの風習がこの地方にありました。そんなときには若者たちにも声が掛けられました。神社の入り口から拝殿までの間を千度往復して拝むのです。千度というのは参加した人々の分を合わせて1,000回になればよいとされていて、年寄りが1回ごとにかみしば(サカキ)で数えるのです。それで参加者が多いほど一人当たりの回数が少なくて済むわけです。若者たちが始めると近所の人たちも駆け付けてその輪に加わります。千度参りをしている間じゅう、どん、どん、どん、と太鼓を単調に打ち続けるのです。最後は、みんなの『よい、よい、よい』の掛け声で終わりました。千度参りをした印の1,000枚のかみしばを神前に供えて拝んだ後、代表の者が重病人のいる家に駆け付け、病人の枕元にそれを置いて励ましました。
 このように、青年館にいる若いしは、地域にとっては、たいがいの用を足してくれる便利な集団だったと思います。そう言えば、青年館には、夜はいつも、だれかが乗ってきた自転車が2、3台はありました。盆と正月には、組長が中心になって慰労会をしてくれていました。組で集めた米とか魚とかでごちそうをしてもらって食べ、お酒も飲んでいました。
 盆踊りは祭りの組単位と違い増田全体でしていました。安養寺の境内に会場がつくられ、増田地区の青年みんなが集まってやっていました。踊り子集めと踊るのは青年の役割でした。」

 (イ)仲間内で育つ

 「若いのが青年館へ入って、その行動がよくないと、先輩に絞られていました。悪いやつは、たたかれたりもしますが、それでも『絞られるから、うちで寝る。』と言うものは一人もいませんでした。『恐ろしいから、青年館へ行くのは嫌じゃ。』と言ったのも聞いていません。また『あすこ(あそこ)の青年館は、たちが悪いからうちの子はいかさん。』というような親の声も聞いたことはありませんでした。
 毎晩、寝泊まりする共同生活のなかで、先輩の体験談から、農作業に関する知識なども、自然に教わることも多かったと思います。偉い先生がおったわけでもなく、系統だった勉強をしたわけではありません。草履(ぞうり)、俵、ほご(ものを入れて担ぐもの。馬ほご、平ほご)、もっこ、みのなどのわら細工も、その編み方などを先輩から教えてもらいました。当時の農作業にはなくてはならないもので、農民として知っておかなくてはならないものでした。農作業に関することでは、田植えの代かきなどは、牛を4、5頭並べてかくのですが、人間だけの作業でなく、牛馬との作業ですから、初めての人には骨の折れることです。牛の扱い方は難しいのです。これなども、そのこつを寝泊まりの共同生活をするなかで、先輩の体験談から教えられることが多かったと思います。
 若い連中の集まりですから、それなりに悪さもしていました。夕方に家を出るときには、わら束を持って出て、朝帰るときには、それを使って夜なべで青年館で作った草履を下げて帰るのですが、次の日、前日に編んだ草履を中に隠したわら束を担いで青年館に行き、帰りはまた前日と同じ『人見せの草履』を持って帰るのです。何日も同じ様なことをして1足の草履で何足も編んだように見せ、青年館は、わら束の山になったりしたこともありました。
 先輩連中が、酒を飲んだりすると、わざと『遠方の家の井戸水が、どうしても飲みたい。』と言って、年下の者を試すのです。月明かりのないときの田舎道は、本当に暗いものでした。その内に要領がよくなって、年下の者数名が『それこそ(それくらい)くんできてあげる。』と言って、外に出て近所で遊んでいました。ころ合いをみて、近くの川の水を土瓶にくんで持って帰って、『これが、言われたところの水じゃ。』と言って渡すと、先輩たちは、『やっぱり、この水は、ええわい(いいなあ)。』と言って飲んでいました。今晩はあそこの水が欲しい。ここの水が欲しいと言っても、いつも同じ小川の水でした。そのころの川は、水がきれいでした。
 いろいろと悪さもしながら、人情の機微を身につけていったのだと思います。とにかく、一緒に寝泊りするということは、お互いのつながりをものすごく強くしてくれました。よいことも、悪いことも習って成長しました。若いしのことですから、村の娘のことや、ヨバイのこともよく話題になりました。むろん、ちまたに伝わるような自由奔放な男女関係があったわけではないのですが、世の中のことをあけすけに話せる中で、社会性を身に付けていきました。若い仲間との強いつながりのなかで、育ててもらった大切な場所でした。」

 (ウ)お祭り、祭礼を支えて

 「増田の秋祭りは、牛鬼(うしおに)だけでしたが、牛鬼が3か所か4か所の地区では出ていました。牛鬼は若者が主役で、かき手にかなりの人数がいるので若者の少ないところでは出せないところもありましたが、少なくても3か所からはいつも出ていました。朝から組内の5、60軒の家々に牛鬼を担いでくるくる回り、戸口で頭を振って悪魔払いをするのです。青年館に集まった若者が中心でしたが、他の地域に働きに出ている若者のなかにも、牛鬼がかきたいので秋祭りには帰ってくる者もいました。それほど魅力的なもので、郷土と若者のきずなを強めてくれるものでした。
 牛鬼が神殿を出ると、まずお旅所の神田に行きそこで練るのです。神田で16回まわって、その後各家庭を回るのです(図表2-1-9参照)。個人の家の門では牛鬼の頭を3回振り込んで、家内安全を祈願するのです。牛鬼の頭を振る人は腕のたつ人物でした。かき棒を12、3人で担ぐのですが、平坦地はともかくお宮の急傾斜の石段を登り降りするときなど大変でした。昔は、ただ担いで家々を回るだけでなく、牛鬼歌を歌いながら全身を揺す振りながら行進し、その所作も芸能的でした。」

 (エ)牛鬼づくり

 「牛鬼の頭と大きな骨組みは青年館に置いていて、この骨組みにタケを組んで胴体の形を作るのですが、竹枠を組むのは古参で専門家に近い人がするのです。その竹枠にシュロ縄(シュロの幹を包む毛でなった縄)を張り、それにシュロの皮、いわゆるシュロの毛を付けて胴体を作るのです。シュロの毛を付けるのは一番手間が掛かるのですが、祭りへの高ぶりもあり雑談をしながらするのも楽しみでした。
 戦時中に元気な若い者が一人もいなくなって、牛鬼のお練りもしばらく中断していましたが、戦後牛鬼を復活させようという話を若い連中が出してくれたとき、年寄り連中は喜びましたね。是非協力しよういうことになって、シュロ皮を集めてそれを付けるのを2、3年教えました。そのときシュロの皮を、10束近くも屋根裏に保管している人もいて、それを提供してもらうなど、いろいろ協力してもらいました。シュロの皮は以前何回か提供してもらったものを保管していて、今も少しずつ出して使っています。
 また、以前は牛鬼をかきながら牛鬼の歌を歌っていました。しかしその歌も若い者は知りませんでした。そこでその歌も一緒に歌ってやろうということで復活したのですよ。歌も増田地区には上手な歌い手がいましたが、その歌声を今はテープにとって活用しているようです。
 増田地区に歌いつがれている牛鬼の歌は次のようです。

   とろりとろりとチョイ チョイ、吹いたよ、まじが、アリャセ ヨイセ
   さまも乗りゃんせ、アリャヨイヤナ
   瀬戸内へ、トコヨ ホイセ アリャヨイヤナ アレハイセ コレハイセ
   ササナンデモ イセ。
    (チョーサイヤ チョーサイヤの囃子(はやし)で首を振る。)

 歌詞は『とろりとろりと吹いたよまじ(西南風)が、さま(あのかた)も乗るぞや瀬戸内で』だけですが、地行歌と同じように囃子が多くじつに壮重でした。囃子詞は、歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れて調子をとることばで、『よさこい』『どんどん』などと同じです。
 ここの牛鬼は宇和島市のものと比べ、首が短くて太く、その先にかなり大きな頭を取り付けています。それは見たら恐ろしく、ものすごい怪獣のような鬼の面です。今でも幼児は近くでこの顔を見ると怖がって泣きだします。
 仲間と共に、地域の行事にかかわる中で、仲間意識が高められ、地域の人々とも心のきずなが強められたのだと思います。それと同時に郷土への思いが育てられていきました。」


*19:祀られている人物については、安養寺の開基高山満清とする説や、土佐の長宗我部の進攻のころ勇名をとどろかせた郷
  土の板尾城(猿越城)城主、板尾津之輔とする説など諸説がある(⑯)。

写真2-1-28 青年会館建設への寄付記念碑

写真2-1-28 青年会館建設への寄付記念碑

伯方町ふるさとセンター敷地内にある。平成10年9月撮影

図表2-1-12 大八車

図表2-1-12 大八車

**さん、**さんからの聞き取りより作成。

写真2-1-29 伯方町ふるさとセンター

写真2-1-29 伯方町ふるさとセンター

平成10年7月撮影

写真2-1-30 喜多浦八幡神社の芝居小屋

写真2-1-30 喜多浦八幡神社の芝居小屋

右側が舞台で、左側が花道。この前面の広場に大テントを張り升席をつくる。平成10年9月撮影

図表2-1-13 春市の升席の区割り図

図表2-1-13 春市の升席の区割り図

**さんの原図により作成。

写真2-1-31 若宮神社

写真2-1-31 若宮神社

平成10年9月撮影

写真2-1-32 鎮守の森

写真2-1-32 鎮守の森

この森の周囲にしめ縄を張る。平成10年9月撮影