データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛のくらし(平成10年度)

(3)折節に喜びを重ねて

 初誕生を終えて、幼年期最後の7歳までの成長儀礼として、現在、七五三の祝いの風習が都市部を中心に全国的に盛んになってきた。七五三祝いは、江戸時代の半ばころから定着し、盛んになった都会の民俗である。地域社会は、それぞれのやり方で子供の祝いをもっていたのであり、今日のような派手な祝いが全国一律であったわけではない。3歳の帯結び(ヒモオトシ。着物のひもをのけて初めて帯を結ぶ)や5歳男子の袴着(はかまぎ)(幼年の男子が初めて袴を着ること)、そして7歳を幼年期最後の通過儀礼として男女とも重視した地域が多い。その点、七五三の年齢が子供の成長にとって大切な段階と考えられていたことは事実である。小児の祝いは7歳が最後で、それから後はいわゆる子供仲間に入ることになる。七つまでは神の子といわれ、この年を境として、はじめて大人の世界へ入る下準備が開始されることになっていた(⑥)。

 ア 「タチアゲ」て、子供仲間へ

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正6年生まれ 81歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正10年生まれ 77歳)

 (ア)子育ての苦労

 伯方町北浦地区では、子供を苦労しながら一人前に育てあげていくことをコアライともコヤライとも言っている。コヤライとは子が大勢で身が自由にならないことを矢来(やらい)(タケや丸太を粗く組んだ囲い)に取り囲まれていることに例えたのだという(⑫)。他にコヤライのヤラウは後からは追い立て、つき放す意味にとらえた。それは自立の時期にきた子供を一人立ちさせるために区切りをつけ、丈夫でたくましい、人にもたれかかろうとせぬ若者に育てるために、仲間や世間に学べと送り出す意だという(⑥)。
 「(**さん)わたしらがコアライをしていたころは大変でした。子供がよく亡くなっていました。七つ(7歳)がきてほっとするくらいでした。
 まだミルクがない時分でしたから、母乳の出の悪い人は、お米を洗って乾かし、かがつ(すり鉢)ですって粉にして炊いた『すり粉』を飲ませていました。ほ乳瓶がないから、側に付いていてさじで飲まさなければならないので大変でした。
 母親が母乳の出なかった人の娘は縁談が決まっていても、娘の体質が親に似てお乳が出ないのではと心配して、破談になることさえありました。人工栄養の簡単に手に入らぬ時代には、母乳が出るか出ないかは、母親と赤ちゃんにとって何よりも大きな問題でした。曇天(どんで)の池の側のお地蔵さん(図表2-1-1参照)に、布で乳房の形を二つ作ってお供えして、お乳が出るように祈願していました(写真2-1-21参照)。
 おしめは、古い布を縫ってたくさん作っていました。洗っても、雨が降ったらなかなか乾かないので、ひちりん(七輪。こんろの一種で多くは土製)の上に竹かごをかぶせて、その上でおしめを乾かしていました。『雨こんこ降るな、子持ちが泣くぞ。』と言っていました。そのころは、子供の数も多かったし、雨が降ると子持ちは泣くに泣けないほど大変でした。
 戦後の食糧難のころは、子育てにとって、食べ物も大変でした。ほとんどの人が、朝などおイモを蒸して食べていた時期もありました。わたしが長男を育てるときは、子供に食べさせるのに、自分で勝手につけた言い方ですが『茶わん蒸し』というものを作っていました。おイモを蒸しているお釜(かま)の中にお米と水を入れた茶わんを置いておくと、おイモが蒸し上がるころには、ちょうど茶わんのお米も蒸せて御飯になっているのです。そんなにしながら育てました。」
 「(**さん)わたしの次男が生まれた昭和16年(1941年)には、子供を産めよ増やせの時代で、県から男の子だけに1円が入金されている貯金通帳をお祝いにいただきました。また次女が生まれた昭和22年は、終戦後の食べ物の特にない時分でした。産後のことですが、親がわたしにお米のおかゆを炊いて持ってきてくれたのです。そのとき次男は6歳でしたが、側に座って『かかさんは、御腹が痛いから、それ食べよんよのう(食べているのよね)。』と何度も言うのです。欲しがってのことだと思うと、のどに詰まって食べられませんでした。『そしたら少しやろか。』と次男に言ったらそれを待っていたように食べました。わたしは『おばあさん、もう別なべ(家族の者と違う特別の食べ物)炊いてくれんでええ、明日から、皆と一緒の麦御飯を食べるから。』と言って、翌日からそうしました。乳離れは1年半くらいで、今のように、あまり栄養なども考えず、柔らかく炊く程度で、あるものを食べさせていました。それでも元気に育ちました。
 子供の病気のことですが、はしか(*14)とかジフテリア(*15)などの伝染病で赤ちゃんがよく亡くなっていました。はしかには、イセエビの殻を陰干しにしたのをせんじてその汁を飲ませるとよいと言われていました。イセエビはめったに手に入らないものですから、一度せんじたものを、乾かせてまた使っていました。」
 「(**さん)また、この地方の習俗の一つでしたが、わたしの母も、よく子供が急に高い熱を出したときなど、箕加持(みかじ)(箕などを用いた祈禱(きとう))をしてあげると言って、箕にすりこぎ、火ばし、しゃもじ、しゃくし、はし、まな板、包丁を入れて神棚に祀っておいて、それで、がしゃがしゃ音をさせながら、『あびらうんけんそわか、あびらうんけんそわか。』と唱えながら、子供をあおいでいました(写真2-1-22参照)。
 子供が、病気をしたらお医者さんに診てもらうのに木浦(伯方町の中心地)まで1里(約4km)の細い山道を、おんぶして歩いて通っていました。寂しい山道で、母などに同行してもらっていました。北浦から木浦への道も大正12年(1923年)に改修されましたが、そちらを歩くより山越えの方が早いので、子供の体調が悪いときは山越えで病院へ行きました。山越えの道は下駄(げた)でも足が汚れるくらい、いつもぬかるんだ道もありました。
 夫は徴用で不在でしたので、夫に代わって労働をしながらの子育てでした。父はもう高齢でしたので、妹が牛の鼻輪を引っ張って、わたしが牛のすきを持って田んぼを耕したものです。子供は田のあぜに置いて、田をすいたり、植え付けなどもしていました。おんぶしてやりたいが、牛を使っているのでそれもできませんでした。子供は、あぜに置いておかれるのを嫌がって『ここはいやじゃ、いやじゃ。』と言って泣いていました。農作業に追われ、子育ても夢中で過ごしました。」

 (イ)成長に喜びを重ね

 「(**さん)女の子は、まず3歳になると、ヒモオトシとかヒモハナシと言っていましたが、着物のひもをのけて、今まで付けひも(着物に縫い付けているひも)で着物を着ていたのをやめて、初めてしごきの帯(一幅の布を適当な長さに切ったままの帯)を結びました。女の子は、七つのときまでは、着物は平袖(ひらそで)(袖口の下方を縫い合わさない袖)で、7歳になって袂(たもと)(袖の下の袋のようになったところ)をつけて、帯を結んでいました。
 男の子の鯉幟は、七つになると立て納めをして、その年の5月5日にタチアゲというお祝いをしていました。これは初節句のとき立てた幟その他を飾って祝いをするのです。ちまきをつくって近所に配ったり、両家の両親を呼んでちょっとお客(祝いなどの折の宴)をして、ここまで大きくなったということを祝ったものです。そしてこれ以後は幟を立てることをやめます。鯉幟がなくなるとその家に幼児がいるという標識がなくなるのです。
 また、小学校への入学などでは、親元とか兄弟がお祝いしてくれました。お祝いしてもらってもちょっとお返しするくらいで、特別な招待はしませんでした。」

 イ 子供と共に(一本松町正木)

 **さん(南宇和郡一本松町正木 明治45年生まれ 86歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 昭和5年生まれ 68歳)

 (ア)子育ての苦労

 「(**さん)子供が風邪を引いてせきがでれば、オオバコ(*16)を取ってきて飲ませたりしていました。はしか、百日ぜき、ジフテリヤ、疫痢(えきり)、赤痢(せきり)など子供の大病と言われる病気がいろいろありました。特にはしかは、当時、子供の命定めと言われる大病でした。子供の体の具合が悪いときには、仕事を休んで一緒に寝て体を温めてやっていました。それがなによりの薬でした。治らないときは、その子の生き運がなかったと思ってあきらめる以外になかった時代でした。わたしも子供を二人死なせてしまいました。戦争時分で食糧もないときで、飲ませてやりたくてもミルクもないし、満足なものを食べさせてやれなかったことを悔やんでいます。」
 「(**さん)お乳の出の悪い人は、お米を柔らかくとろとろに炊いて飲ませていました。おしめも子供の衣類もほとんど手作りでした。子供を背負い帯で背負った上には、保温用に、オイガケと言って『ねんねこばんてん』を羽織りました(図表2-1-8参照)。子供が生まれたら、嫁の里からオイガケを贈るのがこの地方の習わしでした。オイガケには季節に応じて冬は綿入れ、少し暖かくなるとあわせ、次に袖なしあわせ、袖なし単衣(ひとえ)というように種類があり、子守りにはなくてはならぬものでした。それぞれ普段着とよそ行きを作っていました。家事や仕事も、ほとんどおんぶをしたままでするし、外出もしました。お医者にもおんぶをして自転車で通っていました。負うと子供のぬくもりが背中に伝わり、幼児も、おんぶにだっこを繰り返しながら成長するうちに、親子のきずなが強められたと思います。
 はしかには、イセエビの殻をせんじて飲ませたらよいという言い伝えがありました。イセエビが手に入る機会があったら大事にしまっていました。また、子供が熱を出したとき、四国遍路にお参りして護符を千枚束ねた『千枚通(せんまいとお)し』を受けて帰った人に、それをもらって、水に浮かして、その水を飲ませていました(写真2-1-24参照)。
 農作業の忙しいときには、田んぼのあぜに連れて行って遊ばせておいて農作業をしていました。それが一般的でもありました。」
 「(**さん)わたしがコアライをした時代は、子供が5、6人いる家は普通でした。わたしには、11人の子供が生まれ、二人を幼児のころに亡くしました。それでも、女の子が7人と男の子が二人の、合わせて9人の子だくさんでした。一番上の子と一番下の子で24歳も違い、親子ほど年齢差がありました。姉たちが、母親代わりになって、下の子供の世話をし、気を付けて育ててくれました。長女が中学校に行くようになって、家庭科の先生にいろいろ教えてもらって、下の子の服を縫ってくれたりもしました。また、家族で写真を撮っているのがありますが、下の子を我が子のように抱いて写っています。
 子供たちに『なんで、こんなにたくさん子供を産んだんよ。』と言われた時期もありました。子供たちが成長した今は、子だくさんは幸せ者だと思っているのですよ。成人したどの子供からも、着るものや、履くものをもらいましてね。このころは、母の日や敬老の日は『何しょうに(何にしましょうか)。』と言うから、着る物もたくさんあるから、もう何もいらないと言って断わっています。孫たちは、わたしが花好きだから、花を敬老の日に贈ってくれたりします。
 『総領(長男または長女をいう)の15が貧乏の峠、末(末子)の15が世の峠』と言われていました。最初に生まれた子が15の時は下にも弟妹が幾人もおり物心両面にわたって手がかかり、貧乏の真っ最中だが、末子が15にもなれば子供は皆一人前になり、個人の生涯で最高の時期だということでしょうか。確かに、たくさんの子育ては、親にとっても並大抵のものではなかったのですが、子供たちも、お互いによく助け合って成人してくれたと喜んでいます。」

 (イ)成長に喜びを重ね

 「(**さん)地方によっては、3歳、5歳、7歳とけじめの祝いがあるようですが、正木地区では、最初の誕生を祝ったら、それからは、格別祝いはしません。そんな風習はないようです。
 この地方でも、男の子が7歳になるとそれからは、鯉幟は立てません。立て納めと言って格別なお祝いなどはしていませんが、7歳は幼児から少年になる成長段階の一つの区切りの年齢と考えていたのでしょう。
 多くの兄弟のなかで、子供同士も成長し、親もコアライの中で、子供に教えるだけでなく、教えられながら共に成長できたのだと思います。小学校へ入学するときは、1年生になったのだからと言って、赤飯を蒸してやったくらいでした。入学式を経た子供が、親の目から見ても、急におせらしく(大人っぽく)なったように思いました。そのころは幼稚園もなくて、初めての集団生活で、子供なりに自覚してきたのだと思いました。小学校への入学は子供にとっても、親にとっても、一つの大きな区切りでした。」


*14:5、6歳までの幼児に多い急性伝染病。発熱し赤い点々のような発疹が皮膚や粘膜にできる。感染力が強いが、普通、
  一度かかると生涯免疫ができる。
*15:子供に多い急性伝染病。のどの粘膜に義膜を生じる。
*16:オオバコ科の多年草。アジア各地に広く分布し、原野・路傍に最も普通な雑草。

写真2-1-21 乳房を作ってお供えし

写真2-1-21 乳房を作ってお供えし

平成10年10月撮影

写真2-1-22 箕加持でまじなう

写真2-1-22 箕加持でまじなう

箕に台所の七つ道具を入れ、じゅもんを唱えながらあおぐ。平成11年1月撮影

図表2-1-8 オイガケのいろいろ

図表2-1-8 オイガケのいろいろ

**さんからの聞き取りにより作成。

写真2-1-24 千枚通しで、おまじない

写真2-1-24 千枚通しで、おまじない

護符(右)、護符を千枚束ねたもの(左)。平成10年10月撮影