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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)初祝いに思いを込めて

 新生児も3か月がたつと、首もしっかりすわり成長の見通しもたってくる。このころに乳以外の、大人と同じ食物を初めて食べさせることは、一つの成長の折り目である。クイゾメ(食初め)の祝いがそれである。誕生日を祝う習慣は、日本にも昔からあったのである。特に満1歳の初誕生日は丁寧に祝ったようである。そのころは立ち歩きができるという飛躍的な成長の時なので、親の喜びや楽しみは大きく、力餅を背負わせたり、子の将来を占ったりするところも多い。
 初正月や初誕生までの折々の節句の日に、新生児のお祝いをする初節句の贈答や祝宴は、また、新生児の世間への仲間入りも意味したのである(⑥)。俗に、初子(はつご)の初節句といわれるように、初子に限って盛大に祝う風習がみられ、次子から略されることが多いようである(③)。

 ア 伯方町北浦

 **さん(越智郡伯方町北浦 大正6年生まれ 81歳)
 **さん(越智郡伯方町北浦 大正10年生まれ 77歳)

 (ア)初正月・初節句

 「(**さん)初正月には、赤ちゃんを連れてお宮へお参りに行きました。男の子には破魔弓(はまゆみ)(写真2-1-11参照)を、女の子には羽子板を母親の親元で買ってくれて、お正月中は床の間に飾っていました。破魔弓や羽子板を飾るのは、魔除(よ)けの意味が強かったのでしょう。ヤナギの小枝に、柳餅(やなぎもち)と言って赤や白や青の小さい小餅(こもち)を花のようにつけました。それに縁起もののオエベッサン(エビス、エベス。七福神の一つ)とか小判とか短冊などの飾りものをつるし、親類や近所の者が祝ってくれる弓料や羽子板料が入っていた祝儀袋もいっぱいつるして羽子板や破魔弓と一緒に床の間に飾っていました。
 正月が終わって、柳餅や飾りもののついたヤナギの小枝を、水を入れた壁掛けの陶器の容器に差しておくと、ヤナギは生命力の強い木ですから、春になったら根が出て、さらには花もつき綿毛も飛んだりしていました。そうなると縁起がいいと言っていました。
 長男や長女のときは、正月の4日に、ユミオロシ、ハゴイタオロシ、とも言っていましたが、両方の家の両親や兄弟や親せきなどを自宅に招いて、にぎやかにお祝いをしていました。
 何の薬になるのかは、よく分かりませんでしたけど、飾ったあとの固くなった柳餅は、薬になると言ってしまっている家もありました。」
 「(**さん)3月3日の雛(ひな)節句には、内裏雛(だいりびな)(天皇、皇后の姿に似せた、男女一双の雛)を母親の実家から贈られました。親せきや近所からはケースに入った人形や市松人形などをもらいました。雛壇には菱餅(ひしもち)や雛あられを供えモモの花を飾ると華やいだ雰囲気になりました。お祝いをもらった人を招待して祝宴をするのです。雛人形は雛荒(ひなあら)しの日に片付けてしまわないとお嫁に行くのが遅くなると言われていました。
 わたしらのときには、お雛さんの1年中の食べ物だと言って、お雛さんをしまうときにあられをちょっとだけ箱の中に入れていました。今では、あられを虫が食べるからというので入れません。防虫剤に樟脳(しょうのう)(クスノキの木材片を蒸留してつくった防虫剤)を入れています。
 5月5日の節句は、この地方では、嫁の実家の家紋を上に、その下に嫁ぎ先の家紋を付けて、さらにその下に武者人形の絵を染め抜いた絵幟(えのぼり)を、今治市の染め屋さんに特別に注文して染めてもらっていました。派手な家は、絵幟を2本立てていましたが、一般には絵幟1本と鯉幟(こいのぼり)1本でした。
 男の子が産まれたら、幟を立てる石を立てていました。これを立石(たていし)と言いました。地中へも大分埋めているし、地上へもかなり出ていますから、かなり大きな石柱でした。そして、幟を立てるには竹ざおを用いていました。非常時の戦時中には屋外でなくて内飾りだけをしていました。
 鯉幟は次男のもありますが、武者絵幟は長男だけです。絵幟は、きれいだからといって、孫が生まれても孫のために立てるものではない、他の者に譲るものではないと言われていました。櫃(ひつ)に入れてしまっていました。用が済むと座ぶとんにしてしまう家もありました。」

 (イ)クイゾメ・初誕生

 「(**さん)生まれて100日目のクイゾメには、本膳をそろえて、それぞれの器には料理を入れ、その子には御飯を一粒食べさせるのです。神さんにはお米とイリコを供えました。その時の器は、その後赤ちゃんが大きくなって使っていましたが、それも今のように丁寧にのけてはいないので、いつの間にか、なくなっていました。
 初誕生日には、一升餅を背負わせて歩かせていました。初めてのお誕生日には家族ぐらいでお祝いをしていました。」

 イ 一本松町正木

 **さん(南宇和郡一本松町正木 明治45年生まれ 86歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 昭和5年生まれ 68歳)

 (ア)初正月・初節句

 「(**さん)この地方では、初正月は特別な祝いはしていませんでしたが、近くの神社に参拝したり、家族がそろって神棚に手を合わせ新しく家族の一員となった子供の無事と幸せを祈ったものでした。
 3月3日の節句は、ハツヒナと称して母親の親元から内裏雛を贈ってくれ、親せきや組内、知人などからも、雛人形やおもちゃをもらいました。祝宴は、男の子の初節句ほど盛大ではありませんが、初めての女の子の雛節句のときには、お祝いをもらった人たちを招きました。
 5月5日の端午の節句には、澄んだ青空に、屋根の上高く幾本もの幟がはためき、鯉幟の泳いでいるさまは、1年中で一番この山里の風景を晴れやかなものにしてくれました。絵幟が多く立てられ、20本も立つ家も珍しくないくらいで、それがこの地方の特徴でもありました。現在は生活改善の申し合わせで5本までとしています。
 わたしの長男の初節句は、昭和28年(1953年)でした。里(実家)からは鯉幟を、組内からは、絵幟をもらいました。世の中もやっと落ち着きを取り戻し、戦後の極端な物不足も次第に解消され、一時期途絶えていた絵幟が復活したのはこのころでしょうか。親せきなどからももらって20本ほど絵幟を立てました。よく立てたものだと思います。
 幟柱には山から切り出した杉柱を立てていました。大きな鯉幟などは風をはらむと相当な力が加わります。柱が折れたり倒れたりすると縁起が悪いので、杉柱も丈夫なものを選び、土台の枠も頑丈に組み、それにくくり付けて並べて立てました。幟は定紋(じょうもん)(家紋のこと)を染めた絵幟の他に白地や色無地の布の幟でした(写真2-1-14参照)。
 初子に限って初節句にはサワチ料理(鉢盛り料理)で盛大に祝う慣習がありました。女の子ばかりが続いてやっと男の子に恵まれた家での初節句などは、より盛大に祝ったものでした。
 わたしの長男のときには、臨時に家の座を広げてお客を招きました。一般的に、昔の農家の間取りは入ったところから炊事場にかけて広い土間でした。その土間にも臨時に座を広げ、大勢の人呼び(祝宴のこと)をしたものです。昭和52年(1977年)に正木(まさき)地区の御在所集会所ができてからは、そこを利用する人が多くなりました。多い時にはこの集会所が一杯になり、総勢80人くらいになります。
 魚の刺身などを鉢盛りにするサワチ料理は、この地方では、ハレの日の客料理として、昭和40年(1965年)ころまで各家庭で作られていました。サワチ料理にはイケモリとモリゴミの二種類があり、イケモリは魚の生け作りを皿に盛ったものです。モリゴミは一つの皿に巻きずし・かまぼこ・菓子・果物などを盛り合わせたものを言います。
 各家庭でサワチ料理を作っていたころは、この地区にも器用な料理の技術と経験を持つ男性がいて、あちこちに呼ばれ、忙しかったわけです。そうした男性に板場を頼み、他の男性たちは前日に料理を盛りつけた鉢を飾るカイシキマツ(イケモリを飾る枝振りのよいマツの小枝)を近くの山に取りに行くのです。また近所の女性たちが前日から大勢集まってのり巻きやフライを作るとか、料理の準備をするのです。客の人数によって、作る鉢盛りの数が違うのです。食器類の貸し借りから、料理の準備、さらには祝宴にもこぞって参加するような地域挙げてのお祝いでした。祝宴では、これからいいものが食べられるようにと、初節句を迎えた子供の口元で料理を食べさせる所作をし、お酒を額におしるしとして付けて、子供の前途を祝福するのです。
 わたしの初孫も平成2年にお祝いをしましたが、その時には料理を仕出し屋さんにお願いしました。今は、家庭での手作りはほとんどしなくなりました。
 昭和52年(1977年)から、毎年5月に篠山クラブ(一本松町の若者たちの地域おこしグループ)が、各家庭から立ち終えた鯉幟を集めて、一本松町と高知県宿毛市の県境を越えた子供たちの友情を願って鯉幟あげをしています。県境の篠川の両岸を結んで、薫風の中で勇壮に泳ぐ無数の鯉は、今ではこの地方の初夏の風物詩となっています(写真2-1-16参照)。」

 (イ)クイゾメ・初誕生

 「(**さん)生後100日目のクイゾメには、最初の子のときには、赤飯を炊いて神前に供え、食べ初めだというので一粒ほど食べさせました。歯が丈夫になるようにとお膳の上に石を乗せているところもあるということは聞きました。近所へは、普通の小さいあん餅を配っていました。
 初誕生日には、誕生餅と言って、餅を重ねにとって(重ねて)、それをかるわして(背負わせて)、親が手助けしながらでも歩かせたものです。そのころの子は、初誕生で一人で歩く子はほとんどなかったです。今の子は、誕生までに歩きだす子が多いようです。悪さをして近所に迷惑をかけても、誕生餅を配って食べてもらっていたら、大目に見て、許してもらえるといって、誕生餅は必ず近所に配っていました。」

写真2-1-11 破魔弓

写真2-1-11 破魔弓

平成10年10月撮影

写真2-1-14 幟のいろいろ

写真2-1-14 幟のいろいろ

武者絵幟、日の丸の白地や色無地幟が見える。平成10年5月撮影

写真2-1-16 県境を結ぶ鯉幟

写真2-1-16 県境を結ぶ鯉幟

平成10年4月撮影