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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)燕帰るころ

 秋は、「文化の日」に代表されるように、文化活動のさかんな季節である。そこで、本項では、吉田町の文化活動のうち、俳句と日本舞踊に焦点をあて、その活動の様子とそれにかかわる人々の思いなどを、**さんと**さんに聞いた。

 ア 季語のあるくらし

 「(**さん)俳句をやっていますと、季節に敏感になります。
 10月の中ごろは、ちょうど『帰燕(きえん)』、ツバメ(燕)の帰る時期ですよね。毎年そのころになると、電線にものすごいツバメがおるわけです。これに気が付いたんは10年くらい前でしょうか、『これ何やろか。』と思うたんです。たぶん、それまでも見なかったことはないと思うんですけど、最近になって、よいよ(ますます)感じだして、しげしげと見るようになりました。カレンダーだけやなしに、鳥にしたて、花にしたて、日のさし方にしたて、そういうものに季節を感じるようなことができだしたんは、俳句をやってるからやないかと思います。
 わたしが今やっておりますのは、親父から引き継いだ『加里場(かりば)』という句会です。会の名前は、この地(自宅のあるところ)が藩政時代に藩主のお狩場だったということに由来しています。中央では、先日亡くなりました石原八束の『秋』に属していまして、いわゆる写生句じゃなく、内観造型といいまして、人の気持ちとか心を季語に託すというようなことをやっています。
 吉田の俳句界も、高月狸兄(たかつきりけい)や虹器(こうき)(*26)の時代からのものがずっと続いとったら、かなりなものなんです。岩城蟾居(いわきせんきょ)(*27)にしてもそうですし、最近でしたら、岡田燕子(えんし)(1866~1942年)いうて、子規に見込まれて『白牡丹(ぼたん)さくや四国の片すみに』という句を送られ、のちに東洋城(とうようじょう)(*28)の知遇をえて、『渋柿』の選者を務められた方なども、吉田でトップの方やろうと思います。
 しかし、現在の吉田の俳句界は歴史が浅いんです。直接の起源をたどりますと、『犬の尾』という結社ができた昭和42年(1967年)からですから、せいぜい30年くらいですか。その活動が止まったのと同じころ(昭和51年8月)、親父とわたしらが『吉田秋句会』を発足させて活動を始め、ちょうどこちらに家を替わったのを機に『加里場』という名前に変えたんです。
 現在『加里場』には、毎月第2、第4土曜日の夜開催する定例句会のほか、『しおさい会』(第2日曜日)、『はづき会』(第3日曜日)、『隆(りゅう)の会』(第2水曜日)という三つの句会があります。石原八束の教えが『句会に出なんだら、俳句は絶対に上達しない。』ということですから、できるだけ門戸を広げて、どの会でもいいから必ず月に1回は顔を出してくれと言っています。参加者は、定例句会と『しおさい会』が14、5名、『はづき会』と『隆の会』は6、7名くらいです。
 わたしの会では、偶数月ごとに年6回、小さいながらも『加里場』という俳誌を発行させてもらいよるんです。創刊は昭和55年(1980年)2月ですが、親父が自慢にしとりましたのは、1回も遅刊がなかったということで、わたしも絶対に翌月に持ち越したらいかんと思いながら頑張りよるんです(平成10年10月現在114号)。薄っぺらいもんですけど、なかなかたいへんです。
 最初にも言いましたが、俳句に深入りするようになって、自分の回りをよく見るようになりました。俳句の季語というのは、ほとんどが日常生活の言葉から出とるんです。ですから、季語を勉強すると新しい世界が開けるような気がします。ただ、季語にはあっても、すでに現実にはなくなっているということもたくさんありまして、わたしらの世代は知らんというものがけっこうあります。そういうものについては、年長の会員から『昔はこうしよったんよ。』と教えてもらうことが多く、勉強になりますが、俳句をしよると、そういう伝統行事的なものもせなんだらいけんと思いますし、そういう点では、文化の伝承者になり得るんやないろ(だろう)かと思ったりもするんです。」

 イ 着物が魅力

 「(**さん)わたしが踊りを始めて17、8年になります。
 毎年11月の第1土曜日に公民館で町の芸能祭があり、わたしたちの団体(坂東流三澄(みすみ)会)も出演しています。このときは、一つの団体に15分ほどしか出演の時間をもらえませんので、出演するのは3人くらいです。曲は演歌から古典ものまでいろいろあります。わたしの流派は本来、歌舞伎の流れの踊りなんで、主に古典をやりたいんですけど、お客さんに受けるのはやはり演歌ですので、どうしても、演歌の曲に古典の動作が入ったような踊りが多くなります。曲によっては大勢で踊った方がいいのもありますけど、わたしのところは人数が少ないので(会員は現在10名)、どうしても一人踊りになります。
 おけいこは、月に1、2回、大洲のお師匠さんのお宅にお伺いするほかは、こちらの公民館でしています。公民館のおけいこは、みなさんお仕事がありますので、月に2回、日曜日の昼間2時間半くらい行っています。先生は来られませんので、自主げいこということになります。秋の芸能祭に向けてのおけいこは9月ころから公民館で特別にします。週に3回くらい、夜2時間半くらいします。
 踊りは全部先生の振り付けです。始めから曲に入っていきまして、動作、動作で先生が説明されます。日本舞踊は約束事が多いんですけど、それは理にかなったものだと思います。踊りの中では、特にわたしは、手の動きに気を遣っています。先生は『膝(ひざ)をつけなさい。』とよく言われます。膝が離れていたら、どうしても線がきたなくなるんですね。それから腰です。腰をうんといれないとぐらぐらして、形が決まりません。普段から考えていることは、いつも背筋を伸ばして歩くということです。おなかを引き締めてあごを引いて歩けば、形がきれいになると言われています。おけいこのときはだいたい浴衣なんですけど、汗びっしょりになりますので、運動量はかなり多いと思いますね。
 おけいこのときは、みなさんいろいろなことを話します。お菓子持参で、踊り半分、おしゃべり半分というところでしょうか。それが楽しみにも、また、ストレス解消にもなっているんです。お友達もたくさんできますし。
 踊りをしておりましてよかったことというと、まあ曲がりなりにも自分で着物が着られるようになったということでしょうか。日常生活の中でも、着物を着ることが多い方だと思います。着物が着られるというのは、やっぱり、魅力ですよね。」


*26:狸兄(生年不詳~1762年)。吉田の豪商法華津屋の3代目。当時、伊予で隆盛を呈した淡々流(蕉門直系の客観描写を
  中心として、発句に主観的傾向を取り入れたもの)の俳人。全国を行脚し、各地で文人墨客と交わりをもち、狸兄を訪ねる
  俳人も多かった。
   虹器(1753~1825年)。法華津屋の6代目。幼少にして才があり、また、学を好んだといわれ、その財力を背景に、詩
  文、和歌、俳諧、書画、茶道などを学び、風流多芸であった。全国各地の文人墨客との交わりも多い(②)。
*27:吉田の豪商岩城屋の7代目(1788~1864年)。町年寄として活躍するかたわら、俳社を主宰し、吉田の俳諧の普及に
  努め、その名は全国に知られた(②)。
*28:松根東洋城(1878~1964年)。愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)で夏目漱石の授業を受け、以後終生の師と仰
  ぐ。明治30年(1897年)第一高等学校に入学後は東京根岸の正岡子規のもとに通う。大正4年(1915年)「芭蕉にかえ
  れ」を標榜し、俳誌『渋柿』を創刊し、大正8年宮内省を退官後(明治38年入省)は、門下の育成に専念した。昭和29年
  (1954年)、高浜虚子についで、俳壇二人目の芸術院会員に推挙された(⑬)。