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愛媛のくらし(平成10年度)

1 陣屋町吉田

 吉田町は、愛媛県南部(南予)の中心地宇和島市の北に位置し、宇和海に面した、ミカン栽培と水産養殖を主産業とする人口約1万3千人の町である。今回の調査地、旧吉田町はその中心市街地をなす地域で、明暦3年(1657年)、宇和島藩主伊達秀宗(1592~1658年)の五男宗純(むねずみ)(1636~1708年)が、3万石を分知されて新たに造成した陣屋町である。
 宗純は、分知が正式決定した翌年の万治元年、当時はアシの群生する沼沢地であった立間(たちま)川と河内(かわち)川の河口の埋立工事に着手し、陣屋町の建設に乗り出した。宗純以前にも、宇和島藩の手によって一部新田開発が行われていたが、約9万坪(約30万m²)におよぶ市街地を造成するためには、さらに大規模な埋立整地が必要であった。
 陣屋町の造成上、特に注目すべき点は、国安(くにやす)川の開削(かいさく)と横堀の造成である。すなわち、立間川に石城(せきじょう)山麓沿いに約500mの支流(国安川)を造り、これを河内川に接続し堀として、陣屋と家中町を仕切った。また一方では、立間川を下流で西に屈折させて横堀を開削し、これによって家中町と町人町を区画し、陣屋町としての体裁を整えた。こうして、陣屋町の建設もあらかた終わった万治2年(1659年)、宗純は吉田藩初代藩主として吉田の地に入部した。
 藩政時代の陣屋は、現在の町名では御殿内一帯にあたる。また、家中町は、桜橋から上流の立間川と国安川に囲まれた地域で、現在の町名では北小路、東小路、西小路、桜丁(さくらちょう)がこれにあたっている。なかでも北小路から東小路にかけての本丁(ほんちょう)通りはその中心で、両側には家老級の大邸宅が建ち並んでいた。
 町人町には、中央に本町、その東、山の手側に裏(裡(うら))町、西に魚棚(うおたな)が南北に走り、この3町をほぼ東西に走る3つの横丁で区画し、都合3町9か丁が造られている。本町は御家中から桜橋を渡ってお船手に通じる主要道路に面し、商業の中心地として大店(おおだな)が軒を連ねた。裏町は職人町として栄え、紺屋をはじめ、鍛冶(かじ)屋、石屋など各種の店舗が並び、路地裏には長屋もたくさんあった。また、魚棚は魚問屋や鮮魚商が軒を並べていた。これら町人町には現在でもその名を継ぐ店が何軒も残っており、この界わいは、落ち着いた町並みとともに、現在の吉田町の中でも特に藩政時代の面影をしのばせる地域となっている(②)。