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愛媛のくらし(平成10年度)

(3)タコつぼ漁と一本釣り

 **さん(温泉郡中島町二神 昭和7年生まれ 66歳)
 **さん(温泉郡中島町二神 昭和8年生まれ 65歳)
 中島町は、中島、睦月(むづき)島、野忽那(のぐつな)島、怒和(ぬわ)島、津和地(つわじ)島、二神島の6島からなっている。そのうち二神島は、松山市高浜港から定期フェリーで約1時間20分のところにあり、現在(平成10年4月)、約280人が住んでいる(写真1-2-23、図表1-2-7参照)。この島では、ミカン栽培が行われ、周辺の海域は深くて天然の魚礁に恵まれ、タコつぼ漁と一本釣りが盛んである(④)。
 二神島に住む**さんは、妻の**さんとともにタコつぼ漁と一本釣りをするかたわら、8haの畑でミカンづくりに励んでいる。
  島のくらしについて**さんに聞いた。

 ア 島のくらし今昔

 (ア)イワシ地引き網漁

 「昭和10年(1935年)ころは、長浜町(喜多郡)沖の青島にも『鯛縛網漁』があってなあ。二神島のガンギの巣にも長浜から網を引きに来よっだぜ。あの漁に使う網は太いけんねえ。網船や引き船などがおり、60人は要るよ。沖の方から浅瀬にタイを追い込んできておいて、2隻の網船がそれを取り囲んでとる漁法よ。わしが若いころまでは網船が来よったなあ。梅雨の時期には700貫(1貫目は3.75kg)くらいは網に乗りよっだぜ。そこでとれたタイは、淡路島(兵庫県)から来た専用の運搬船に積んで阪神方面へ運んで行きよったよ。その当時は島の若者は皆、漁業と農業をしよったけんねえ。
 わしが小学生のころは、島のくらしは大変だったんよ。段畑でムギとサツマイモを作り、浜ではイワシの地引き網漁をやっていたなあ。麦畑を耕したり、芋畑の草をとるのがつらかったのは、よう覚えており、除虫菊の栽培もやっておったよ。そのころの小学校は、各学年が1組ずつで、組に40人くらいはおったな。当時は、島外から疎開してきた者もおり、島にも人がいっぱいおったよ。
 わしが中学生のころは、おやじが『勉強せいでもええ、山(ミカン栽培のこと)と漁をしよったらええ。』と言いよったわえ。
 地引き網は、クグラの砂浜で、漁業協同組合の共同作業で加工していたなあ。男は網を引き、女性はとれたイワシを湯がいて、砂浜に敷いたむしろに干していた。この漁は7月から10月中旬まで行い、労賃は男性の10割に対して、女性が8割、中学生が7割だったなあ。中学生の夏休みには手伝いに行って、小遣いをもらっていたなあ。仕事は、網の綱を引くためのろくろ(*21)を回す作業で、6人から8人でやっていたよ。沖には手船と呼ばれる伝馬船が1隻いて、2本の綱の引き具合を見ながら合図を送っていたなあ。
 イワシのとれる夏は、由利島(二神島から南方約9kmの島。平成10年現在は無人島)に出向き、長屋に寝泊まりして、地引き網を引きよったよ。1か月も漁をするので、男女の部屋は別々になっていた。この島での漁を終えて、お盆にいったん二神島に帰るのが何よりの楽しみだったんよ。
 イリコは、中羽を800匁(1匁は3.75g)の紙袋に入れて、漁業協同組合が販売し、大羽は各家で利用していたよ(写真1-2-24参照)。由利島のイリコは二神島産よりも味がよく、高値で取り引きされていたよ。潮の流れの関係かもしれないなあ。
 わしが中学校を卒業して青年団にいたころは、テレビがあるわけではなく、娯楽もなかったし、昼は漁をして夜は仲間と雑談をしながら、芋焼ちゅうを飲んでいたよ。また、気立ての優しい女性の家には、仲間と一緒に行き、夜遅くまで雑談をするのが楽しみやったんよ。わしの親も気さくなたちだったので、男性も女性も大勢が遊びに来ていたよ。遅くまで焼ちゅうを飲んでいたが、それでも翌朝は、早くから漁に出よったなあ。」

 (イ)ミカンづくり

 「昭和32年(1957年)に26歳で結婚したころは、家族も多く生活は苦しかったが、漁にはいつも家内と二人で出ており、両親と祖父はミカン山の世話をしていたなあ。二神島では、このころにサツマイモからミカンヘの転作が始まったように思うよ。当時は、苦労して育てても、収穫したミカンは品質が悪くてジュース用としてしか売れなかったんよ。それでも、サツマイモを作るよりも収入が多かったので、少しずつミカンに転作していったなあ。そのころ、祖父の植えたミカンの木はもう40年くらいにはなったけど、今でも立派に実をつけているよ。
 二神島では、古くから井戸水を活用しているので、日常生活では困ることはないが、昭和42年(1967年)の異常渇水の時には、島全体のミカンの木が弱ってきて大変だったんよ。その時島の船は、皆、三津浜(松山市)まで水を買いに行ったけんなあ。船の生け間に1tもの水を入れて、三津浜まで何回も通ったぜ。生活用水やミカン畑のかんがい用水の確保で皆、必死やったんよ。お陰で、ミカンの木は枯らさないですんだなあ。ただ、ミカンの実はなったが、小さくて硬く、そのままでは出荷できないものが多かった。それで、ジュース用として出荷するために、家族総出で皮をむき、毎晩、夜なべ仕事をしたなあ。平成3年9月の台風19号では、島の西側にある3か所のミカン畑の木が被害を受け、約150本を植え替えた。この台風は風がひどく、波も高かったので、海の流木が海岸沿いの防風林を越えて、ミカン畑の中にまで入ってきていたものなあ。その時に植え替えた若い木が、今年(平成10年)は1mの高さにまで成長し、1本の木から20個ほど収穫ができたよ。
 わしの船の免許は、小型船舶操縦士の1級で、20t未満には乗れるよ。船を使うと九州でもどこでも直線コースで行けるよ。4級の免許では島伝いにしか行けないからなあ。免許を取るための試験では難儀したんよ。高松市に試験を受けに行った者もいたが、わしは中島町で12日間の講習を受けた後、三津浜で試験を受けたぜ。わしが試験を受けた1年後は中島町で講習も試験も受けれたし、それは世話なかったんよ。」
 「(**さん)ここ(二神島周辺)はいい漁場があるんで、海を大切にしていけば、漁師としてやっていけるのですがね。島でまじめに働いておったら、まあまあの生活ができます。新鮮な魚がいつでもとれて食べられるし、いいと思うのですがね。」

 イ タコつぼ漁、今昔

 最盛期のタコつぼ漁は、7か所の網代に250個から500個のつぼを縄に縛りつけて沈めて行い、タコつぼ漁の漁期が終ると一本釣りを主な漁としている。
 二神島で、昔から盛んに行われているタコつぼ漁について、**さんに聞いた。

 (ア)昔のタコつぼ漁

 「タコつぼ漁は、じいさんの代からやっており、わしが小学生のころは、岸に近い浅瀬で漁をやっておったんよ。タコつぼの綱は、手で繰っておったなあ。タコ1貫目が10円くらいだったことを覚えているよ。中学生のころには、タコつぼの綱を引くのにローラーに綱を8の字に通して、手で繰っていたなあ。
 昭和30年代は、青島のタコや山口県の平郡(へいぐん)島(図表1-2-7参照)のタコがうまいと言うてなあ。そこのが値段がちょいとよかったんよ。当時、この辺りでとれるタコは小さかったんよね。それで、『小さくてもタコに代わりはあるまいが。』と言うてなあ。値段の釣り合いがとれんので、視察に行ってみたりもしたもんよ。『二神島のタコはちょいと長いようなタコじゃ。』と仲買人が言うが、わしらは同じに見えるなあ。
 由利島には、長浜や青島からもタコつぼ漁に来るし、二神島からも行きよったんよ。昔は、平郡島や屋代(やしろ)島(山口県)からも由利島へ来よったこともあったが、今ごろは来なくなったなあ。沖には実際には筋は引いてないけんど、お互いに漁をする境界線があるけんねえ。『あんたらはこの辺でやれや、愛媛はあっちでやるけん。』と言うてな、話し合いよ。そうせにゃ、みんながタコつぼの縄の絡み合いをしたんじゃ、漁になるまいがな。タコつぼの縄の沈め方は話し合いでいくので、タコつぼの漁師同士はええんよ。また、小型底引き網とは話し合いができとるんよ。網船の中には、少しでも相手の網代で網を引いてやろうか、という気持ちが出るけんねえ。漁師根性というたらそんなもんよ。タコつぼ漁も同じよ。一つの網代に、二つのタコつぼの縄が入って縄が絡み合いをしたんじゃあ、お互いに商売にならんのでなあ。
 タコつぼの漁が不漁でうまくいかなんだ昭和50年(1975年)ころには、延縄(はえなわ)で漁をやってみたりもしたんよ。延縄は、1kmの縄に約100本の針の付いた枝を結びつけて作るんよ。その針に餌(えさ)(主に冷凍したイカナゴ)を付けて、夕方網代に沈め、翌朝それを上げるんよ。当時は、沈めた綱を上げるのを手で繰りよっだが、今はローラーで繰るから楽よなあ。6尋(ひろ)ごとに上がってくる枝を取り込み、次に操業できるように、たらいの縁に巻いたスポンジに針を整理しておくんよ。悪い枝は針を取り替えたりしてなあ。二神島から漁船が2隻、広島県から1隻が出て、話し合いで操業しよったんよ。お互いの縄の絡み合いはせんわえなあ。この延縄には、いろいろな魚がかかるんよ。タイやカレイのような高級魚も少しはかかるが、ホゴやアナゴなどが多かったなあ。」

 (イ)今のタコつぼ漁

 「現在、タコつぼ漁は、二神島で12人がやっているが、毎年、抽せんで漁場を決めるんよ。ようとれる場所があり、漁につながるんで、皆、真剣勝負よ。海の底は陸地と同じで、山あり谷ありの形状よ。また、タコの通り道があり、居場所も決まっているけんなあ。潮の速さや潮の大小、さらに満潮や干潮によって、つぼを入れる場所や引き上げる時間も変わるんよ(写真1-2-26参照)。
 わたしゃ、漁場に行くにも魚探(魚群探知機)は使わずに勘が頼りよ。長年の経験で間違いはないぜ。濃霧の時は羅針盤で方向を定め、船を何分走らせたかで漁場を決めよった。朝の暗いうちから日の暮れるまで二神島の人はよう働くよ。タコつぼ漁は道具を海に沈めているので、神経を遣うんぜ。12人の仲間との競争もあるしなあ。タコつぼを仕掛けて、縄を引き上げる際は、端から10間くらいの所を引き上げるか、もう少し端の方を引き上げるかで漁獲量が違ってくるんよ。最近は、通信衛星を利用したGPS(*22)を使うと、沈めているタコつぼのロープが確認できるらしいんでなあ。魚群探知機でも漁場の深さや形状が確認できるが、わしは昔ながらの、周りの山で位置を確かめ(ヤマアテ)、勘だけを頼りに漁をしよるんよ。
 タコつぼを沈める時は、ロープの張り具合で海底の形状が分かるな。深みに入るとロープが張り、浅瀬にくるとロープが緩むのよ。その時、つぼが1か所に集中して落ちないように神経を遣わえなあ。のんびりした漁のように思えるが、作業が満潮や干潮に左右され、財産(道具のこと)を海に沈めているので、ちっとも気持ちが休まらんなあ。タコつぼの漁期の夏はやせるよ。仕掛けたタコつぼが、底引き網船に引っかけられて移動し、一日中、探したこともあるけんなあ。
 わしは、みんなが少しでもタコを食べてくれるように、よその人が来たら、『おい、タコの小さいのがあるので持っていね(帰れ)。』と言うてね。この間も、二神島に野菜の行商に来た人にも、『タコが要れば、持って帰って食べよ。』と言うてね。それで、その人が島のタコはうまいと言うてくれて、そんな声が広がれば、タコの価格も維持できて、今後の生活も何とかなるけんどね。
 二神島でとれるタコはうまいんぜえ。タコは1ぱいの大きさが1kgから1.5kgくらいが一番うまいなあ。2kgを越すと、ちょっと身が硬くなるなあ。ここらは潮通しがよく水深が6、70mで、タコの成育に適しているんじゃけん。ここらでも深い所(水深が約120m)もやりよるけんどねえ。この辺りのタコは色が違うなあ。桜色をしておるなあ。『明石(兵庫県)のタコは元気なあまり立って走る。』じゃの言うが、わしは潮がきれいで潮通しのいい、この辺りのタコの方が明石のタコよりもうまいように思うなあ。
 タコつぼ漁のシーズンには、朝のうちにとったタコは、その日の夕方に三津浜の業者に持って行き、あくる朝の松山市場にかけるか、大阪市の市場にかけるために、夜間運転のトラックで積み出すかするんよ。去年なんか漁がたくさんあったので、トラック積みが多かったなあ。タコを運ぶ際には、トラックの水槽に塩水を足し、海水温度を一定に保つために氷の塊を入れて酸素を補給しながら運んで行くんよ。水槽に氷を入れなんだらタコ同士がけんかするんよ。タコはお互いに急所を知っており、そこに足を突っ込んだり、ねじり合ったりするんよ。少し弱ったタコがいると、確実にやられるなあ。タコは元気そうに見えるが、実際は弱いんでえ。
 5、6年前は、皆、ようとったわえ。面白かったぜ、あの時は。船にある四つの生け間がいっぱいになり、タコが船にもう積めんようになって、漁の途中で急いで帰りよったけんなあ。
 タコつぼの上げ下げは一人でもできるが、二人の方が早いし、安全で、効率もええんよ。わしが、縄をローラーに掛けてつぼを引き上げ、家内がタコをつぼから取り出したあと、海中に沈めていくんよ。波があると船が揺れて危険で、海に落ちる場合もあるしなあ。一人じゃったら海に落ちたときに船が独りでに走って、危ないんよ。去年も、島の仲間が一人で漁をやりよって、ローラーに巻き込まれかけたことがあるんよ。
 タコつぼは、つぼの底側をロープで縛るんで(写真1-2-27参照)、引き上げるときは、つぼが下を向いたままで海面まで上がってくるんよ。それでな、夏は、タコが海水面の高い温度に気づいて、引き上げる途中でよう逃げるなあ。
 わしも、もう少し若かったら漁獲高の1、2位を争うのじゃけんどのお。この年になると、ちょいと引け目を感じらえなあ(引っ込み思案になるなあ)。その代わり、仲間が『こんなのは(この人は)、がいな(すごい)のお。』と言うくらい、働かないといけんなあ。
 今年(平成10年)も建網は不漁らしいねえ。カレイやオコゼのような高級な魚がかからんので、漁をしている者もいいようには言わんなあ。今やったら、タコつぼ漁の方がええなあ。」

 ウ 一本釣りについて

 二神島周辺は多くの瀬があり、タイやアジなどの網代の多いことでも知られている。**さんは、タコつぼ漁が終わったあとの9月から翌年の2月までは一本釣りに精を出している。続いて一本釣りについて**さんに話を聞いた。
 「わしが結婚した昭和32年(1957年)ころは、タコつぼ漁と、畑でサツマイモとムギを作っており、一本釣りをする人は少なかった。義父がタイ釣りの名人で、一緒に網代に行って釣ったこともあるが、要領は見よう見まねで覚えた。網代を見つける方法はタコつぼ漁をやっていたので分かったが、島に寄せる潮や逆に張り出す潮の微妙な流れで釣果(ちょうか)(釣りの成果)が違うので、困ったなあ。
 二神島周辺のアジの網代としては、羽(は)ノ串(くし)の瀬戸と能埼(のうざき)の瀬戸、それに中島(なかしま)の瀬戸、の3か所があるが、わしは主に羽ノ串と能埼の瀬戸で釣るのよ。羽ノ串の瀬戸は網代が狭いので、潮の流れや速さを考えて、そこに船を乗せるようにするのよ。日に日に、潮の流れが微妙に変わるので、漁師も神経を遣うよ。
 タイの網代は、能埼の瀬戸の東の深み(30mから90m)と水尻(みずしり)の沖の深場で、主に、小潮の折に釣るのよ。
 釣りの仕掛け(釣りの道具のこと)は昭和25年(1950年)ころとあまり変わらないなあ。釣り針には、えさを付ける素針(すばり)と疑似針(ぎじばり)(写真1-2-28参照)があり、目的の魚種に応じて使い分けるが疑似針を使う方が多いなあ。市販の疑似針に、赤や黒の毛糸の切れ端を結びつけて釣ると、タイの釣果が上がるので、漁師はそれぞれが工夫して作るのよ。ハマチをねらう時は、赤や白のビニール片を付け、アジねらいでは別の疑似針を作って釣っている。もう、20年も前から二神の漁師は手作りの疑似針で釣る場合が多いなあ。針の大きさは、タイの素針が12号で、えさとしては、エビ、シャコ、小イカを使うことが多い。アジの疑似針は8、9号で、漁師がそれぞれ工夫をして使い分けているなあ。
 おもりは、タイ釣りには、30匁(1匁は約3.75g、おもりには30号と表示されている)で鉄製ひし形のおもりを使い、アジ釣りでは、同じ重さの鉛製で棒状のおもりを使い分けるなあ。潮が速くなると、35号から40号を使う時もある。鉛製の方が潮の切れがいいので、海底に早く下りるんよ。
 最近のタイの釣果では、シャコをえさに、能埼の瀬戸で1日に70kgほど釣っだのが最高じゃなあ。小潮の時で、朝の9時ころから午後2時ころまで、長い間釣りができたが、130mくらいの深みで釣るので指先が痛くなったなあ。6本の針を付けて釣っていたが、それに2匹も釣れたこともあるよ。釣って水面に浮いたタイは、仲間の漁師に見せぬように、船べりまで手繰り寄せ、たも網(*23)ですくって取り込むようにするのよ。よく釣れた時には、仲間がうわさを聞きつけ、わしの船の後を追ってくることもあるが、その時は、わざと、目当ての網代から離れた場所で釣ったりすることもあるよ。狭い漁師根性かなあ。
 アジでいい思いをしたのは、3、4年前で、1日に40kgほどを能埼の瀬戸で釣ったが、それ以後は、あまり釣果に恵まれんなあ。
 このごろは、一本釣りには大きな期待はかけられんなあ。近ごろは不漁で、タイもほとんど釣れなんだなあ。
 二神島の漁師には、タコつぼ漁のほかに、建網漁と一本釣りを潮に応じてやりながら生活する者が多いんよ。それで、小潮のときは建網漁をやり、大潮で建網漁がやれなくなると一本釣りに出るんよ。少し釣れだしたといううわさがたつと、二神島の釣り船が30隻くらいに増えらえなあ。釣り方にもいろいろあってなあ。二人が釣りをする場合、釣り道具の調子を合わせ、お互いの糸が絡まないように、二神島の漁師は船の右側のオモテ(船首)とトモ(船尾)に座るが、高浜(松山市)の漁師は左側に座るんよ。
 網代で、30隻もの船が瀬を流していて、タイやアジが釣れ始めると仲間の目の色が変わるぜ。皆、一生懸命よ。よく釣れる網代は一つじゃろう。その網代に全速力で船を旋回させて上るので、船同士が接触しそうになり、危ない目に遭うこともあるんよ。周辺の海は静かでも、釣り場には波が立ち、あらしのようになるんよ。早く目的の場所に船を回して釣り道具を下ろせば、1匹でもよけいに釣れると思うたら、皆、全速で船を走らせるのよ。もう大変なことよ。自分らは釣りに行くと、しんどいなと思わえ。気を遣うんぜえ。その点、タコつぼ漁は、よそ者はやらんし、自分の網代が決まっており、気が楽よ。
 一本釣りは、周りの船との競争になるやろうがな。釣り糸を操りながら相手の船を見て、よく釣れる場所に船を回すために全速力で転回させて位置取りをするんよ。獲物が釣れていても相手に見せぬように取り込むのがこつよ。網代に上るときに周辺の船を見ていると、釣れている船は手加減ですぐ分かるけんなあ。それで、その筋(魚の釣れている潮の流れのこと)へ上がって船を流すんよ。釣りも、竿(さお)釣りじゃスリルはないなあ。手釣りで、相手とやり取りするのがだいご味よ。わしでも、網代の瀬を読み切って釣り道具を操っておるんよ。そうじゃなかったら、いくら、釣り道具があっても足りんわえなあ。その経験と技術は秘密で、みんな他人には言わんなあ。
 ある春先のアジが釣れた時に、二神島の漁師の大切な網代に、たくさんの遊漁船が来て、釣って帰るので困ったことがあったんよ。向こうは遊漁じゃろがな、しかし、こっちはメシじゃけんなあ(生活がかかっているからなあ)。なにしろ遊漁船が多すぎて、我々の漁ができんので、それから取り締まりを始めたんよ。その後、能埼の瀬戸で一本釣りをしよる船は、皆、二神島の船でよそ者は入らさんぜ。島の周辺の漁師仲間は、怒和島や津和地島にしても、島独自の網代を守って漁をするのよ。
 それにしても漁師は忙しいぞな。漁から戻ったら、ミカン山に行かにゃならんし、潮によって、遅く漁に出るときは、朝、山仕事に行かにゃならん。そりゃ、もう1日に何時間、働きよるか分からんぜ。24時間、働きよるようなもんよ。今日も夕方になったら、またミカン山に行って、ちょいと4、5本でももいでこんと(摘果してこないと)いけまいかな、と思うたりしよるんよ。二神島の人はよう働くよ。遊びよる暇はないねえ、この島の人は。
 アジはまあ、並の値で卸せるので、この島でも釣る漁師が多いなあ。天然もののタイは価格が安定しており、それをねらって釣る漁師は多いが、このごろ釣果が少なくてなあ。それで、アジやサバをねらって釣るのよ。
 わしが思いよるのは、新鮮な魚を消費者に安く食べらしてあげたら、お客が魚離れをせんわけよ。安く、どんどん食べらしてあげりゃあなあ。夏になるとアジも油が乗って、味がようなってきたねえ。わしらもタコつぼ漁が終わったら、ミカン山をやりもって夫婦で釣りに行くんよ。この島じゃったら、なんぞかんぞしよらざったら(何か仕事をしていないと)なあ。一本釣りの収入はタコつぼ漁の3分の1もとれんと仲間が言うよ。タイとアジに絞って釣るが、サバも釣れだしたら、面白いぜ。サバは群れで回遊しよるので、一気に釣れることもあるのでな。
 二神島の漁師はいつも忙しいんじゃけん、むらでぶらぶらしよる者はおらんし、皆、必死よ。年金をもらいよっても、『生活がかかっちょる。』と言うてなあ、皆、よう働く。働くんじゃったら、よその人に負けやせんよ。それで今ごろ、働きすぎて、『足が痛い、腰が痛い。』と言うのぎりでなあ。わしも足が痛うてなあ。若い時の仕事の無理はすぐに治るが、年をとると長引いていけなえ(いけない)なあ。それが分かっちょっても(分かっていても)、人に負けまい思うと無理していけんのよ。まあ、どうでもええわえと思いだしたら、人間はおしまいじゃけどなあ。」


*21:回転運動を利用するさまざまな装置を「ろくろ」と呼んでおり、製陶用、木工・金工用、重量物移動用、井戸の水くみ
  用の装置をさす。
*22:汎地球測位システム(global positioning system)の略。衛星から専用受信機により電波を受信し、航空機・船舶・車
  などが、自身の位置を知る方法。
*23:竹や針金の枠に袋状の網を張り、柄をつけ、魚をすくうのに使う小型の網。

写真1-2-23 中島町と松山市を結ぶフェリー船(第二ななしま丸)

写真1-2-23 中島町と松山市を結ぶフェリー船(第二ななしま丸)

高浜港にて。平成10年11月撮影

図表1-2-7 中島周辺地図

図表1-2-7 中島周辺地図


写真1-2-24 イリコの種類

写真1-2-24 イリコの種類

左より、かいばし(めざし)、大羽、中羽、小羽。平成10年12月撮影

写真1-2-25 二神漁港の停泊漁船

写真1-2-25 二神漁港の停泊漁船

沖に見えるのが怒和島。平成10年9月撮影

写真1-2-26 漁期を終え山積みされたタコつぼ

写真1-2-26 漁期を終え山積みされたタコつぼ

二神漁港にて。平成10年9月撮影

写真1-2-27 使い古されたタコつぼ

写真1-2-27 使い古されたタコつぼ

つぼの表面にはフジツボが付着している。平成10年9月撮影

写真1-2-28 種々の釣り針

写真1-2-28 種々の釣り針

上段左三つがタイ用。上段右二つがアジ用。下段のビニール片はハマチ用。平成10年11月撮影